眠れぬ夜
アスフォデロスの花がぼんやりと浮かび、風に靡く夜のこと。この不気味な花にいつも苦悩するパリスは、これを苦にしてヘレネーと添い寝することも出来ずにいた。
銀の馬車が華やかな夜の女王を運ぶ途中、その額が揺り動かされる様を目の当たりにして、パリスは不安げにこれを眺めていた。
彼は朝方の騒動を思い出し、締め付けられる胸を鷲掴みにした。心臓が酷く高鳴って、それでいて全身の血が一所に集まるように末端が冷えた。サンダル越しの温度が伝わって爪先が温度を失くし、細くしなやかな指先が青白く見える。思わず泣き崩れそうになるのをこらえて、白くぼやけた花をきっと勇ましく睨みつける。
「眠れないのですか?」
声の主はメムノーンであった。彼は従弟の姿を見て、白い花の不吉な予兆に確信した。彼は弓弦を引く時のように指を伸ばして、アスフォデロスを指差した。
「不吉な魂のような花・・・」
「へぇ、美しいですね」
意外なことに、メムノーンは屈み込み、パリスの指の先にある花を慈しむように眺めた。
「怖くないの?」
こう問われて、メムノーンは難しい顔をして花をまじまじと見つめる。やがて得心したように、宴会の時と同じ穏やかな顔付きで答えた。
「確かに、魂を奪われるような恐ろしさを感じます。ですが、生きる人が死ぬのは必定ではないですか。ですから、そのときが来るまで必死に生きたいと、私は思うのですよね」
「普通は、そんな風に割り切れないと思うけど・・・」
「そうですね。だから、必死に生きるのですよね」
メムノーンは苦笑交じり答え、暫く黙って闇に浮かぶ花を眺めた。
パリスの心に、暗い不安が過る。これほど優しい男が、戦場で失われるのは、あまりにも惜しい。思えば、アキレウスを模したパトロクロスも、同様に理性的な男であった。
暗い気持ちに胸を掴む力が強くなる。耐え難い悲しみに、パリスは白い花から視線を逸らそうと試みた。
「アレクサンドロス王子はお優しいのですね」
「・・・え?」
間抜けな声を出したパリスは、健康的な肌色の男の、澄んだ瞳を覗き込む。呪われた白い花から、彼の視線が動いたのである。
「人が死んだり、苦しんだりすることに心を痛めるのは、王子がお優しいからですよ。優しさと焦りとが混ざった感情、その葛藤と苦しみが、あなたの目を曇らせてしまう。その心は、きっと美しい」
視界の隅に小さな白い花が揺れる。まるで命があることを、高らかに謳っているように。
メムノーンは、宝石のような涙目を、そっと拭い去って笑いかけた。
「王子、そろそろ寝ましょう。明日は激しい戦があるのでしょう」
守りたい。パリスはそう思った。




