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イリオンの矢  作者: 民間人。
不和の林檎
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神がかり・予言者カサンドラー

 アフロディーテはパリスを伴われ、イリオンの町へと下られた。早朝の山際には紫雲がかかり、白い太陽がワイン色の川を煌めかせる。さざめくばかりの川面に息吹を吹き込むのは、河神スカマンドロスの恵みも深き沃土であり、跳ねまわる魚、浮かぶ羽虫に至るまで、その栄光を讃えて踊る。呆然となされるがままに歩くパリスの目にも、美々しき朝の川面は美しく映ったが、神が視界におかけになった深い靄の為に、溢れる輝きだけが彼の視界に届いた。


 牛や羊を伴って歩いた道を、瞬くばかりの美貌を湛えたアフロディーテに導かれて歩む。王子の来訪に兵士は篝火を灯し、槍を天へと突き立てて敬意を表した。

 その様を、輝ける君(フォイボス)・アポローンは飼いならされた見事な牛達を枕として眺めておられた。

 デルポイにある輝きの君の神殿からは、イリオンの姿はおよそ視認できない。そこで神は、牛の温い腹に当てられた旋毛から、黄金の巻き毛を一つまみ切り、それを喧しい烏に持たせて、イリオンに向かわせた。アフロディーテの姿を認めるなり、神は固い宿命の呪いに嘆かれ、銀の弓を取り上げ、黄金の弓を射かけようと試みられた。


 アポローンの恐ろしき一矢は、男を病に冒して殺す矢である。イリオンへ向かうパリスを射れば、忽ちにパリスは病に侵されて死ぬだろう。この男神は秩序を重んじる神であるから、そうして混沌を避けられるのは無理からぬことではあった。

 しかし、そうすることは出来ずに、神は番えた矢、構えた弓を下ろされ、項垂れる。アフロディーテはパリスを伴って、不朽の市壁に守られたイリオンへと入城なされた。


 プリアモス王はパリスの訪問を大いに喜び、彼のために宴の支度を始める。パリスはアフロディーテに慢心と慕情を吹き込まれ、宴の席で以下の通りに請うた。


「ギリシャ第一の美女と目される、ヘレネーを娶りたいと思います。そこで、彼女の住むスパルタへ行くために、船をお借りしたいのです」


 めでたい宴の席が凍り付いた。その言葉を聞いたカサンドラーは、大いに嘆き、パリスに葡萄酒をかけた。


「ついに滅びが始まった!見たことですか、あの時殺しておけばよかったのです!」

「落ち着け、カサンドラー。まだ何も始まってなどいない。アレクサンドロスよ、人妻を娶りたいというのは、些か勝手が過ぎるのではないか?」


 カサンドラーを諫めつつ、プリアモスの長子ヘクトールが問いかける。彼がパリスに掛かった酒を拭うように従者に言いつけると、従者はパリスに布を届けた。彼は受け取った布で耳の穴から酒を除き、頭に掛かった酒を拭う。


「ご安心ください。私は必ずやメネラーオスやヘレネーを説き伏せ、彼女を連れ出してみせましょう。それに、私が王子として迎え入れられた今となっては、イーデー山に留まり続けなければならないニュンペーのオイノーネーを妻とすることは、都合も悪いことでしょう?」


 パリスがそう言うと、カサンドラーが金切り声を上げて髪を掻き毟った。彼女には燃え盛り、崩落するイリオンの町が見えていたのである。このように、カサンドラーが荒れ狂う様を見て、ますます彼女の狂気が恐ろしく思われたデーイポボスは、カサンドラーに自らの月桂冠を被せた。


「おい、彼女をアポローン様の神殿に運んでくれ。彼女の目にかかった靄を、取り去ってくれるようにお祈り申し上げろ」

「嫌、あんなのの所には行きたくない!!!」


 月桂冠を毟り捨てて取り乱すカサンドラーは、三人の従者に両腕を拘束されて運ばれていった。デーイポボスは冷ややかな目で彼女を送り出すと、今度は軽蔑の眼差しをそのままに、パリスの方へと向き直った。


「おい、アレクサンドロス。カサンドラーが言うのは言い過ぎにしても、お前の考えが突飛なことはすぐに分かるぞ。どうしてギリシャ人の妻を娶ろうと思い立ったのだ。俺は父君のようにお前を信頼していないぞ」


 ところが、アフロディーテに吹きかけられた慢心の為か、パリスはデーイポボスに反論して言う。


「王子に復帰することになった以上は、私は王子らしく振舞うことが求められるのでしょう。先ずは形から入るというのが、私のやり方なのです。聞けばヘレネーは、雷を楽しむ神ゼウスの御子とも噂されているではないですか。神の中の王たるゼウスの御子の血となれば、王子に申し分ない血筋でしょう。そうでなくても、スパルタ王と王妃の御子であらせられる。いずれも高貴なご身分で、王子の妻に相応しい」


 デーイポボスは不服そうに唸り声を上げ、言葉を詰まらせた。ここで聡明な長子ヘクトールが立ち上がって問うには、


「アレクサンドロス、言い分は良く分かったが、他にも王子に相応しい妻はいる。思うに、お前が求めているのはヘレネーの美貌の方であろう。それなら、今の妻も決して悪くはないだろう。父君、彼の願いをなんでもかなえてやる必要はありません」


「今の妻など要りません」


 祝宴の席は、ますます凍り付いた。デーイポボスもヘクトールも、頭を抱えて黙り込む。それを、すっかり慢心で満たされていたパリスは説き伏せたと勘違いした。王は考えた末、息子の幸福を選ぶことに決めた。


「アレクサンドロス。私のかわいい子よ。お前の言う通りに船を出してやろう。お前の前妻が守ってくれるように、イーデー山の木々を用いて船を作らせることとしなさい。長旅になるから、ペレクロスという名工に頼むのがよかろう」


 プリアモスが言うと、パリスは丁寧に礼を言い、早速ペレクロスの元へと向かった。パリスの去った後、宮殿の兄弟たちは果物を口に運びながら、パリスについて語り合う。


 瑞々しく甘美な葡萄を摘まみ、デーイポボスが以下の通りに苦言を呈する。


「あの男、いけ好かないと思わないか?ころころと女のように表情が変わる」


 ヘクトールは無花果を剥き、それを妻や、従者に分け与えた。


「どうにも気がかりなのは、神がかりに遭っているのではないか、という事だ。彼には何かがとり憑いているとしか思えない。神の恩寵であれば喜ばしいことではあるのだが・・・」

「神がかりと言えば、カサンドラーは・・・」


 デーイポボスがそう案じるのを、ヘクトールは制止した。弟は、この聡明な兄の思いを真摯に受け止め、色彩に溢れた王宮の高い天井を見上げた。


「イリオンに何かが起ころうとしている。それだけは確かだ」


 ヘクトールは立て掛けた槍を取り上げて立ち上がった。デーイポボスも彼に倣い、槍の柄を持ち上げる。高い天井の上では、青黒い雲が垂れ込めていた。



 ところで女神よ、世にも眩き輝きの君と、プリアモスの子カサンドラーの因縁について、語り給え。


 カサンドラーは美貌の女で、イリオンにおいても名を馳せていた。

 引く手あまたの王族の子として生まれ出た彼女は、その美貌について、神の元にもその噂が届き始める。アポローンは、その噂を聞くなり、どれ程のものかとご覧になられた。

 乱れたような癖のある長い赤髪、丸く大きい瞳、アテーナーを思わせる、若々しく逞しい腕など、物珍しい美しさに驚いたアポローンは、直ぐに彼女を説き落として夜を共にしようと思われた。


 カサンドラーと対面したアポローンは、その美貌が想像通りのものであることを確信し、彼女に自らの物となるように求められた。ところが、カサンドラーは聡明で知恵深く、災いに一際敏感であったため、神の寵愛を受けることの恵み深さと恐ろしさを良く理解していた。

 そこで、カサンドラーが輝ける君に釘をさして言うには、


「あなたほどの名高い神が、私の為にオリュンポスの峰を降られ、デルポイの神殿を離れて私の元に訪れるというのは、あまりにも不釣り合いなように思います。出過ぎた進言ではありますが、私をあなたに相応しい人にしてから、求められては如何でしょうか」


 これを受けて、アポローンもなるほどと膝を打たれて、彼女に艶やかな微笑を披露してお答えになるには、


「あいわかった。お前には私の予言の力を貸してやろう。悪い話では無かろう」

「どのように未来を見るのですか」


 カサンドラーの考えはこうであった。もし、神に似た力を受け取ることが出来れば、神が彼女を手放す前に、事前に不穏を取り去ることが出来るだろう。名高きアポローンともなれば、そうした御加護はなるほどはるかに強いものとなる。そして、それは全くもって正しかったのであった。

 人の子が扱うには強大すぎるものであったのだが。


「お前は何もせずとも良い。私がお前に予言の結果を見せる。それで良いだろう」


 喜んだカサンドラーは、試しにと未来の予言を行った。すると、アポローンは彼女への興味を失くし、彼女を捨てる未来を見てしまったのである。

 カサンドラーはあまりの出来事に硬直した。ところが、アポローンは構わずに彼女を抱こうと肩に腕をおかけになる。その腕を、カサンドラーは取り乱しながら払ってしまった。


 賢しいカサンドラーのことである、アポローンに何をしてしまったのか、我に返って直ぐに理解した。輝きの君は表情を曇らせ、即ち光に影をかけられて、カサンドラーの拒絶に腹を立てておっしゃった。


「私が望む通りにしたのだから、お前も私に望むことをするべきだ。そうしなければ釣り合いが取れないだろう」


 アポローンは思案の末に、彼女の予言を取り払うことはされなかった。しかし、斜に構えた君(ロクシアス)・アポローンは光のない目で彼女を睨まれ、凄みのある影を顔に落としてこのようにおっしゃった。


「お前の望む通り、予言の力も授けてやったし、釣り合う女にしてやったぞ。ならば報酬を頂こうか。お前が私の予言を知り、それを人に言ったとしても、それを信じられることは無い。お前に与えた予言の力に対して、相応しい対価であろう」


 ここで、カサンドラーがどれ程悔やんでも、最早取り戻すことは出来なかった。彼女はこの呪いと予言の力を、アポローンから吹きかけられた。かくして、カサンドラーは予言の代償を得るとともに、他者は彼女の予言を受け入れられないという呪いを得たのであった。


 アポローンは、カサンドラーが宮殿へと逃げかえるのを確かめると凄まじく地団太を踏まれた。その力は凄まじく、荒れ狂う牛の群れが烏を踏み荒らすのにも似て、ポセイダオンと彼が共に積み上げた城壁が揺らぐほどの地鳴りとなった。クリュセースは神の怒りと慌てふためき、神に捧げた牛の臓物を他の神官や巫女と共に口にして、神に許しを乞うたが、アポローンはその敬虔さに免じて、その場ではカサンドラーを殺さずに、デルポイの神殿へとお戻りになった。そこには牛どもに翼に泥をかけられ、羽を折り畳む烏の姿が残されていた。


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