メムノーンの入城
埋葬を終えた人々は手に取った槍を枕として眠る。やがて夜が飛び去り、朝が巡り来る頃、彼らは防壁の上で目を覚ました。
果てしない喪失感の中で、長い人生の艱難辛苦を越えてきた老人たちは、この場所で軍議を取り始めた。
「アカイア勢に降伏して、すぐにでも帰って頂くべきではないか」
こうした意見に対して、老王プリアモスは事態の好転を期待して、あるいはギリシャ軍の恐ろしい掠奪を目の当たりとした苦しみの記憶を思い起こして、このように老人を諭した。
「確かに、私達は即座にでも戦争を止めたい。しかし、今は次の援軍が来るのを期待しようと思う。何せ、私はアマゾーンだけではなく、アイティオペイアのメムノーン王にも援軍を願ったのだ。彼は強く、長い戦争で疲弊したアカイア勢に少なからぬ打撃を与えてくれると思う」
老王の意見は一考に値するものであったが、もしこの時、聡明なるプリュダマスの提案に、人々が賛同する勇気があったならば、イリオンは滅びの憂き目に遭うこともなかったかもしれない。
「陛下、畏れ多くも申しあげます。このプリュダマスのことを信頼して頂くならば、ここで手酷い代償を負ったとしても、ヘレネーと共に賠償を支払い、アカイア勢に帰って頂くように交渉するべきではないでしょうか。第一に、原因となったヘレネーをメネラーオスに返し、機嫌を取って、アガメムノン王を交渉の席に着けるのです。第二に、援軍に与えるところである、種々の宝物を彼らに賠償として支払うことで、和平を結ぶのです」
防壁の上にあった多くのイリオンの戦士たちは、プリュダマスの意見に大いに賛成した。すぐにでも拍手喝采したく、むず痒そうに胡坐をかいた床の上を指で撫でる。ゼウスが怒りを鎮めて晴れ上がった空は、歩哨路に僅かな希望の兆しを運ぶ。昨夜には敗北を告げた香木と葡萄酒の残り香が、馥郁と匂い立っている。
ところが、目を覚まして軍議に耳を傾けていたプリアモスの子パリスは、胸を締め付ける激情を抑えることができず、プリュダマスに抗議の声を上げた。
「ヘレネーは、誰かの持ち物じゃないんです!交渉の道具に使って欲しくはないし、それに、彼女がメネラーオスと臥所を共にすることを思うと、胸が張り裂けそうに思うのです」
「その美貌神にも見紛うアレクサンドロス殿、あなたの我儘を聞くことが、軍議ではないのですよ。ヘレネーはメネラーオスの妻である、これは正式なことです。そして、欲望のままに絶世の美貌を独占しようとするのは、男としてもあまりに情けない姿ですよ」
パリスが胸を痛める意図を、プリュダマスははき違えていたが、その場にいたものの多くが、そのように解釈したことだろう。例えばデーイポボスのように、兄弟と長い時間を経て信頼関係を築いたものでないならば、それは無理からぬことであった。男達の無言の憎悪が、パリスへと向けられる。我儘な王子アレクサンドロスに対して、プリュダマスは市民たち全ての希望の体現者となった。
「あなたは、メネラーオスのヘレネーへ対する態度を知らないから、そんなことを言うのですよね。彼の暴力は殆ど支配と言っていいものです。以前と同じような人物であれば、僕は絶対に反対させていただきます」
「スパルタの王は勇猛で立派な人物ではないですか。少なくともあなたよりは、信望厚い人物でしょうよ」
プリュダマスは刺々しく言い放つ。しかし、パリスの反対者たちは、ヘクトールと違い人を率いる才能を持たない王子が、彼らに八つ当たりをするのではないかと恐れて、プリュダマスに賛成の意見を表明することもなかった。
「ふん、まぁ。王子よ、精々私達に不幸な苦痛を与え続けるがよいでしょう。どうせ、このまま抵抗を続けても、好転は絶望的でしょうからね」
パリスもまた、プリュダマスの皮肉に、対抗する余地を持たなかった。彼に信望も力もないことは、彼が痛感しているところだからである。
こうして、軍議は煮え切らぬままに保留となってしまう。何故なら、次なる援軍が、イリオンを守るスカイア門を叩いたためである。
防壁の上での軍議が中断され、老王が防壁の下を覗き込む。すると、アイティオペイアの軍旗をはためかせた軍勢が、長大な兵士を伴って、門の前で待っていた。プリアモスは急ぎ城門を開かせて、アイティオペイアの軍勢を迎え入れた。
軍を率いる旗手を伴うのは、良く日焼けした精悍な顔付きのメムノーンである。プリアモスは血を分けた仲のメムノーンを歓迎し、その力強い手を取って握手を交わした。
「メムノーン殿!お目にかかれて光栄に存じます」
今度の援軍は、イリオン人からも期待の眼差しを向けて迎え入れられる。城門の前はすっかり人集りができ、メムノーンははにかみがちに笑って応じた。
「こそばゆいですよ、叔父様。敬語など遣わずとも、私は甥御なのですからね」
プリアモスは丁寧な対応をするメムノーンの姿に大層喜び、謙虚な様子を目の当たりにした市民たちもまた、彼を盛大に歓迎した。
こそばゆそうにするメムノーンをもてなすために、プリアモスは宮殿へと彼を案内する。
この間に、プリアモスはこれまでの苦労について語った。壮絶なイリオンの出来事に心を痛めたメムノーンは、宮殿までのもてなしを受ける間に、彼にここへ至るまでの旅の出来事を土産話として語る。
宴の支度が整うと、プリアモスはメムノーンを広く明るい宴会場へと招き入れた。パリスも代表者としてこの宴会に参加する。
プリアモスは見事な黄金の盃になみなみと酒を注ぐ。これをメムノーンに与えて語り掛けた。
「メムノーン殿!あなたは私達の希望です。神にも見紛うやんごとなき立ち振る舞いと勇気は、きっとアカイア勢から私共を助けてくれることでしょう。今日はとにかくもてなしを楽しんで、そして英気を養って下さい」
「それでは、お言葉に甘えて。このような見事な盃を受けることは、少々畏れ多いのですが・・・」
メムノーンは謙虚にこう言い放つと、プリアモスに強く促されて、この盃を仰いだ。煌めく盃に英邁なメムノーンの顔が映ると、そこに我が子の面影を思い出したプリアモスは、思わず一筋の涙を流す。それと知らずに大きな盃から口を離した彼の甥御は、思いがけず心を痛めるプリアモスに同情して、語り掛けて言う。
「優れたヘクトール殿や、数多の子供達を亡くした叔父様の思いは、察するに余りあります。どうしても悲しみを拭えないというならば、私を我が子と思って下さい」
心優しいメムノーンに感銘を受けた老王は、年甲斐もなく盃に涙を注ぎつつ、愛しい甥御に語り掛けて言う。
「その黄金の盃は、名工ヘファイストスが、アフロディーテとの結婚の際にゼウス献上された品です。これを私の父、君のお爺さんのラーオメドンが授かって、私が受けついだ品だ」
しめやかな語りを続ける老王は、盃の中の歪んだ自分の姿を眺めた。酷く痩せ衰え、老衰も間近に思えるこの老人は、蓄えた白い髭を揺らしながら、滔々と語り続ける。
「そして、本当はこれを、ヘクトールが継ぐはずだったのです。・・・メムノーン殿。あなたが私に我が子のように思っていいと仰ったならば、どうぞその盃を受け取って下さい」
「私は・・・」
メムノーンは、健康そのものの自らの容顔を、酒の内に見つめながら言う。
「私は、多くのことを約束することは出来ません。戦士は戦場に行けばいつ果てるとも分からない。誰が裏切り、また誰が助けてくれるのかも分からない。ただ、一度それだと決めたことについては、私は責任をもってやり遂げたいと思っております。つまりは、人の良い王と語らって、思いました。メムノーンは老王プリアモスを助けたい。あなたを助けたい。酒は僅かにして、食いすぎないようにして、英気を養います。」
「ありがとうね。私は君に楽しんで欲しい」
ペンテシレイアの時とは異なり、二人の語らいは朗らかで、楽しげな宴会が催された。パリスもまた、プリアモスの楽しげな様子に、幾らか心を慰められ、彼らと肩を並べて笑った。
やがて、歓迎の宴が終わると、メムノーンは早速身を休めるために寝床へと向かった。




