ペンテシレイアの葬儀
遁走するイリオン人が荒々しく大地を踏み、立ち昇った砂埃が血だまりの上に浮かぶころ、アカイア勢はいそいそと敵の防具を剥ぎ取り始めた。
イリオン人の装具も以前の見事なものは殆ど奪いきった後であったのか、アカイア勢はめぼしい装具も、みすぼらしい装具も手当たり次第に奪い取って私腹を肥やそうと試みた。
夥しい血の沼と化した大地に胡坐をかいたアキレウスは、顔を塗りつぶしたような女王の美しい容貌を覗き込みながら、後悔の念に苛まれていた。
アキレウスの手から美しい者や奪いたいと願うものは次々と滑り落ちていく。女王の美貌も、その一つである。アキレウスは女王の言葉や優雅な乗馬捌きを思い起こし、独り言ちる。
「アレースの子、と言ったか・・・」
足速きアキレウスは視線をイーデーの山へと向ける。美しい山際に、重苦しく暗い雲が垂れ込めていた。
瞬きの間に、雷が山頂に落とされる。これを見るに、アキレウスは天に向かって嘆息した。
この時、アキレウスはこの雷を比類なきクロノスの御子ゼウスが、アキレウスが神の子であるペンテシレイアを討ったことを怒って地上に雷を打ち鳴らされたと考えた。しかし、この時クロノスの子が諭されたのは、神々のうちでもっとも獰猛なヘーラーの御子アレースであった。というのも、アキレウスに娘を討たれたアレースは、怒り心頭してアキレウスをうち滅ぼそうと地上にお降りになったのである。これに、明知の神ゼウスが、はじめの忠告として落とされた雷霆こそが、アキレウスの目の当たりにした雷鳴であった。
アレースは逡巡の後、父からの恐ろしい罰を恐れて、アカイア勢に災いを齎すことを諦めて、天へ昇られたのであった。
そのため、幾つかの雷鳴を聞いた後、アカイア勢はすっかり空が晴れ上がるのを見たのであるが、心を痛めたアキレウスが、このように雷霆に苦悩するのも無理からぬことであった。
ところが、勇猛なアキレウスが女々しく苦悩する姿を、快く思わない者もある。テルシテスもその一人であった。
元より人の心を逆撫ですることを喜ぶテルシテスは、例に漏れず、アキレウスがペンテシレイアの遺体の前で塞ぎ込む姿を見つけるや否や、その様に、同情交じりの嘲笑を浮かべながら言う。
「おやおや、アキレウス殿。アカイア人をたんまり殺した、男勝りのペンテシレイアに惚れ込んだようですな。どうせ顔だけ見てくよくよするならば、はじめから兜を狙って叩き落とせばよかったではないですか。それで惚れ込んでいる隙に、女王様に討ち取られた方が、私やアイアース殿の名声に繋がって、却ってよかったとも思えますな。まぁ、慰みに娼婦でも雇うんですな」
このように、テルシテスがアキレウスを嘲笑うと、心ある英雄アキレウスは、その激情を露わにし、凄まじい剛力でテルシテスを殴り飛ばす。大木に巻き付いた蔓が剥がれ、ぐるぐるととぐろを巻く、丁度そのように、テルシテスは首を軸として中空で三回転し、そのまま大地に突っ伏した。彼の顎は砕かれて、指先を痙攣させる。やがてその動きが鈍くなり、テルシテスは口と鼻から大量の血を吐き出して息絶えた。
地面に落ちた大量の歯を踏みつけながら、アキレウスは長髪の内側から鋭い眼光を光らせる。騒動に驚き駆けつけたギリシャの勇士達は、倒れ伏したのが性悪のテルシテスであることに気づくと、却って沸き立ち、アキレウスを称賛した。
アキレウスは動かなくなったテルシテスの耳に、呪いを込めた大音声を叩きこむ。
「おい、お前はいつも人の心にむかつきを与える男だな。しかしな、私がオデュッセウスのように理知的で奥ゆかしいと思うならば大違いだぞ。この血は獰猛な神の血であり、この体は万雷不朽の狡知のゼウスのものだぞ。一息で眠りにつけたことを感謝するがいい。お前が強く丈夫ならば、もっと苦しんで死ぬことになったのだからな」
このように捲し立てたアキレウスは、次には再び虚しさに苛まれ、ギリシャ勢の喝采の中心にありながら塞ぎ込んだ。ところが、騒ぎを聞きつけたテルシテスの身内であったディオメーデスは、ギリシャ勢の中で唯一、アキレウスに非難の声を掛けた。
「アキレウス殿、いくらこちらの身内が無礼を働いたと言っても、命まで奪うことは無いではないか!」
「そうか。私は心に従ったまでだ」
アキレウスが答えると、ディオメーデスは彼の胸倉を掴み、凄まじい剣幕で睨みつけた。野次馬も、先程までとは違って狼狽え、二名の喧嘩を止めようとそれぞれに説得を試みる。
やがてアキレウスは正気を取り戻し、行き過ぎた制裁についてディオメーデスに謝罪をして言う。
「そうだな。心に従うとは言え、理性は必要だ。行き過ぎた制裁をしてしまってすまなかった」
ディオメーデスも、報復までをもする必要はないと考え、アキレウスに非礼を詫びて言う。
「こちらこそ、身内が失礼をしたな。お詫びと言っては何だが、あなたを酷く罵声したテルシテスだけでなく、あなたが討ち取ったペンテシレイアの遺体を返して弔いとし、互いに矛を納めよう」
こうして、ディオメーデスとアキレウスは一旦和解をし、この要望を、民を統べる王アガメムノンと、ヘレネーの夫メネラーオスに伝える。両王は、ちょうどプリアモス王の嘆願書が届き、ペンテシレイアをトロイア人に帰すべきか否か論じているところであった。ことの顛末を聞いた両王は、そこで、この件を耳にして、ペンテシレイアをトロイア人に運ばせて、葬儀を執り行うことを許したのであった。
この返答はすぐにイリオンに伝令兵を通じて送られて、プリアモスは早速葬儀の支度を整える。彼女の美貌に相応しい宝飾品やイーデー山の薪を組み立てさせて、ペンテシレイアの葬儀が行われることとなった。
イリオンに戻ったペンテシレイアの遺骸は、嘆きの声で迎えられた。人々はイリオンに一時の勇気を与えたペンテシレイアを讃え、葬送歌を送る。アポローンの神官ブリセーイスも、火葬の炎を焚きしめて、神殿から繰り出した。
プリアモスとその子らは、堅牢無比の防壁の前に薪を運び、これをうずたかく積み上げる。空を覆う嘆きの声に、人の子も、また神々のうち女王を産んだアレースも悲しんだ。
高く積まれた薪の前に、美しい方形の棺が運ばれる。神にも見紛うペンテシレイアの美貌を一目見て、戦士たちだけでなく、女達もまた嘆き悲しむ。
女王の愛馬も大きな棺に納められ、薪の上へと収められた。
パリスはちょうど薪の中腹で、高く積まれたそれらの上に、二つの棺を納めるためにこれを支える役割を担った。重い棺の中には、ペンテシレイアの遺骸と、彼女への報酬として用意された宝飾品が納められている。さらに、パリスが選び抜いたイーデー山の良質な牛脂を詰め、その身をしっかりと焼くように気を配った。パリスは中にある物を穢さぬように、慎重に腰を据えて薪の上へと積み上げた。
パリスがデーイポボスに手を貸して、薪から降り、ヘレノスが下段から二人に手を貸して組み敷かれた薪から離れた。
鼎の内に燃え盛る炎は炭ごと種火として保管されており、これをブリセーイスが火ばさみで薪の中へとくべる。炎ははじめ小さく纏まって燃えていたが、やがて荒々しく燃え上がり、薪の頂にある棺まで一気に燃え広がった。
燃え盛る炎を見て、人々が嘆息する。涙も枯らした人々は、短い夢の一つと消えたペンテシレイアのことを思い、ただ悲しみに打ちひしがれた。
燃え盛る炎は、パリスの目にも映る。彼はヘクトールとは異なる魅力を放った異国の女王が眠る終の住まいが崩れ落ちていく様を見届けながら、デーイポボスに語り掛けた。
「強い人も死んでしまう」
「俺達も、いずれ忘れられちまうんだな」
デーイポボスは小さく頷き、天に昇る煙が放つ馨しい匂いを視線で追いかけた。
「僕達が、語り継ぐんだよ」
パリスは強い意思を持って答えた。
ついに薪が倒壊し、赤い炎が大地を飲み込まんとする。人々はこれに葡萄酒を注いで消す。炎は一瞬大きな輝きを見せて高く伸びたかと思うと、馨しい酒の匂いを周囲へ漂わせた。
甘く苦い葡萄酒が、天へ昇る煙と共にアイデスの元へ届けられると、アレースが声を枯らして泣く。アレースとその子ペンテシレイアを、人々は口々に讃えながら、彼女と愛馬の骨を拾った。
葡萄酒と香木の残り香が、煤に塗れた骨から微かに漂う。防壁にほど近い位置に穴を掘り、拾った骨をこの穴に収める。さらに、彼らはイリオンへと帰還を果たした、彼女の端女の骸たちを、この骨の周りに埋葬する。
「今度は、兄君の時のように酷い辱めを受けずに済んだのだな」
ヘレノスの呟きに対して、老王プリアモスは静かに答える。
「アキレウスが両王を説得してくれたおかげだよ。メネラーオス王もアガメムノン王も、彼女には憎しみを抱くことは無かったらしい」
心地よい夜が天を巡り行く。移ろう空の色は暗色の帳を掛けられて、虫が魂を弔うように高く鳴いた。




