表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イリオンの矢  作者: 民間人。
援軍とその顛末
77/99

ペンテシレイアの最期

 禍々しい呪いで身を固めたアキレウスを、ギリシャの勇士達は光明を授かる英雄として迎え入れた。歓声を上げ、逃げ惑う者たちの足をも停めた。煌めく鎧のアキレウスは、徐々にその歩速を速め、一つ深い息を吐くと、目にも見えない俊足で、戦場へと繰り出した。

 イリオン勢のうち最も前線で戦う部隊、即ち勢いづいたペンテシレイアに追従して、パリスの指示に答えて女王を助ける戦士たちのもとへ瞬く間に現れると、剛毅の如く飛び掛かり、槍の一薙ぎでイリオンの戦士を5名は討ち取った。


 血の沼の中にはじめてイリオン人の血が混じる。血の海の中に脛当てを浸したアキレウスは、静まり返る戦場の中にある、長い裾の武人に凄き眼光を光らせた。


 イリオン勢の攻勢は弓矢によって大成している。これはヘクトールとは異なり、パリスが槍の手練れではなく狩人の神々に寵を受けていたためであったが、その威力は一撃では致死に至らず、時には盾に弾かれて、多数の敵を足止めし、少数の敵を射殺すことを目的とした。

 すなわち巨大な盾をあてがって、守りに徹する消耗戦を得意としたが、ちょうど破城槌が堅牢な防壁を一息に破砕するのに似て、アキレウスの力は盾を丸ごとなぎ倒した。


 前線に一気に到達したアキレウスは、イリオン勢の戦列を一気に破壊しつくし、猛将アイアースも次々に武勲を立てた。その武勲は数えることもままならぬ。名前を挙げれば今昇ったヘリオスが戦車を駆って、西の空に消えていかれるその時まで、語り続けなければならないだろう。


 それほどまでの力を得て、アカイア勢が一気に攻勢をかける。戦場の空気が変わったことに、ペンテシレイアもすぐに感づいた。そして、彼女はアカイア勢の前線に、アキレウスとアイアースを見るや、馬を走らせて両雄の前に躍り出た。

 ペンテシレイアは彼らの注意を向けるため、アキレウスに素早く槍を投げた。アキレウスは即座に盾を構え、難なく槍を受け止める。甲高い金属音が周囲に響き、槍は地面に突き立った。

 続けてペンテシレイアはアイアースに槍を振り上げる。アイアースは盾でこれを受け止めたが、盾の裏で振り上げられる無骨な斧は身を退いて回避した。


「待っていたぞ、アイアースにアキレウス。お前たちと戦えるとは、血が滾るな」


「御託をつらつらと述べるな。お喋りならば井戸端でやれ、女」


 アキレウスは暗い眼光を長い髪の裏で光らせ、女王を睨む。女王は威風堂々と振舞ったが、後方から見ていたパリスは、彼女の僅かな身の震えを見抜いた。アキレウスの覇気はそれ程のものであった。


「そうか、そうか。私が怖いのか。私はアレースの子、人ならざる神の子であるからな。いかな猛将アキレウスといえど、私に手を掛けられてはたまらないと、そういう事だな」


 ペンテシレイアはアキレウスの目を見ながら、優雅に乗馬して語り掛ける。足を馬の腹にかけ、自在に立ち歩く様は、さながら草原を駆るケンタウロスのよう。アキレウスは冷酷な視線を送り、会話を続けることもせずに槍を一薙ぎする。もちろん、ペンテシレイアは射程にはいなかったが、彼女に従うイリオン勢を数名なぎ倒した。


 ペンテシレイアは嬉しそうに睥睨する。その頬には一筋の汗が伝う。彼女は優雅な振る舞いを止めて、素早く槍を手に取った。彼女はその槍でアイアースの急所、分厚い脛当てが守る脚を突く。


 がぉん、とくぐもった金属音が周囲に響いた。獰猛な戦馬を自在に操る俊足で、アイアースの脛当てを見事に突いたペンテシレイアであったが、その脛当ては貫かれることは無く、アイアースもその巨躯でこれを受け止めた。


 この一事を以て、アイアースの心はペンテシレイアから離れ、彼は戦友アキレウスに言葉を投げて言う。


「あの女のことはお前で十分だろう」

「そのようだな」


 アイアースは女王から関心を逸らし、別の戦場を助けるべくその場を後にした。

 ペンテシレイアは両雄を相手取る機会を逃したが、これは元より過ぎた策であった。何故ならアキレウスは、女王よりはるかに強いのだから。


 アキレウスとペンテシレイア、両者は向かい合い互いに楯と武器を構えた。戦場に一陣の風が吹き、空に血染めの砂塵が舞う。


「おい、女。無謀にも私に挑むのだな。蛮勇に免じて、先手を譲ってやろう。どうせ私に討たれるのだが、神々が誑かしたのか、それともただ愚かなだけなのか。どうにせよ、クロノスの御子ゼウスの血を引く、私に向かってこい」


 ペンテシレイアは泥と混ざった血を巻き上げて、馬でアキレウスに迫る。その腰には分厚い斧、手には大剣と見事な楯を持つ。これに対して、アキレウスは槍を投ずることもせず、じっと立ち止まっている。ペンテシレイアの振るった大剣は、アキレウスの兜を割らんと迫ったが、アキレウスは槍の一薙ぎで剣を振り落とした。動揺するペンテシレイアの手を離れて、剣が風を切る。剣は器用に地面に真っ直ぐ刺さり、アキレウスの業の凄まじさを、ペンテシレイアに見せつけた。

 女王は第二手として腰に帯びた斧を取る。射程の短い斧ならば、大剣よりも容易く槍で払うことも出来たであろう。しかし、アキレウスは真正面から盾を構え、斧を受け止めんと身構えた。


 斧は世界を描く盾に阻まれ、その柄からぽっきりと折れる。斧が討ち取られた頸のように血だまりの上に落ちるのを、ペンテシレイアは驚愕の表情で見下ろした。


 斧を持つ手から全身に向かって、痺れる振動が伝っていく。身を震わせる女王は、たちまち馬を操って身を退いた。


「どうした。終わりか」


 足速きアキレウスは、距離を取るペンテシレイアが一呼吸を終えるまでにとねりこの槍を構え、その俊足で距離を詰めた。アキレウスは馬上目掛けて飛び上がると、女王の胸当てを貫き、右の乳を貫いた。

 ペンテシレイアは呻き声を上げ、駿馬の上で意識を失いかける。しかしすぐに意識を取り戻す。馬の上で体勢を崩した女王は、アキレウスが自らの足を引っ張り、馬上から降ろそうとしている様を目の当たりにする。痺れる四肢を無理に動かし、体勢を正そうとするペンテシレイアの胸中では、我が身可愛さにアキレウスに取り縋りたい気持ちが膨れ上がっていた。一目見て強者と悟ったものの、その恐ろしさを見誤った我が身を呪わずにはいられなかった。


 アキレウスはペンテシレイアの心が揺らぐのを見て取るや否や、たちまちに怒りに駆られて鋭い槍に力を込めた。


「ヘクトールは最期まで名誉をかけて戦ったぞ・・・!」


 アキレウスの鋭い槍はその剛腕によって馬の腹を貫通し、ペンテシレイアを串刺しにした。


「はぁっ・・・」


 アキレウスの鋭い槍が引き抜かれると同時に、女王は馬上から崩れ落ち、駿馬も大地に倒れ伏した。暗く鋭い瞳で女王を見下げたアキレウスは、槍を振るって血を払い、女王の見事な装備を剥ぎ取った。

 激しく吹き荒ぶ砂嵐の隙間から、その雌雄を目の当たりにしたイリオン勢は阿鼻叫喚を上げた。武器や装具を地面に捨て置き、血濡れの脛当てを膝まで赤く染めながら、イリオンの防壁目掛けて逃れて行く。遁走するイリオン勢の中で、一人立ち尽くしたパリスは、絶望の色をした瞳を揺らしながら、鬼神の如きアキレウスがペンテシレイアを足蹴にして転がす姿を目の当たりにした。


「また、だ・・・。兄さんの時と同じだ・・・」


 パリスの足は大地に縫い付けられたように重かった。女王の死と同時に、一瞬で形勢が逆転する。その劇的で暴力的な戦場の恐ろしさは、パリスの心を再び砕いた。彼の両脇を、彼よりも屈強な男達が逃れて行く。顔を恐怖に歪め、汗まみれの顔を鼻水や涙で洗い流しては、惨めな砂埃の中に我が身を隠した。


 そして、ヘクトールとペンテシレイアの偉大さもまた、彼の心を苛んだ。仮にパリスがこの場で犠牲になったとしても、戦況は拮抗したまま動くことは無かっただろう。パリスの心がすっかり折れ、絶望の中で声を上げる。


「女王の、女王の遺体を救い出したい!誰か力を貸してください!」


 声は虚しく砂塵に塗れた。やがて、アカイア勢の軍勢の影が、砂埃の中から近づいてくる。パリスは慄き、砂埃の中に隠された我が身を可愛く思い、仲間たちと共に踵を返した。


 恐怖よりも深い失望、無力感に涙が零れ、甲高い泣き声を上げる。雄々しい戦士たちの命乞いの叫びよりも鮮明に、柔肌持つパリスの泣き声が戦場に響いた。

 アカイア勢がそれを嘲笑して彼らを追う。その一方で、女王の遺体を転がしたアキレウスの影はみるみる遠ざかっていった。


 さて、アキレウスは、女王が最期に見せた軟弱さに感情を抑えられず、散々に蹴倒し、辱めて大音声を上げる。


「お前は、ヘクトールの様な覚悟も、誇りもなく、俺に挑んだというのか!そんな生半可な覚悟で、許して貰おうと?ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!お前は、所詮守られるだけの女ではないか!?プリアモス王の財布のひもを緩めるためだけに、見事な金銀財宝を受け取る為だけに馳せ参じたと!?ならばお前は山賊と同等だ、いいや、罪を認める分山賊の方がましだと言える!女は家の中で籠っていろ!」


 アキレウスはあらゆる罵声を女王の遺骸にぶつけ、槍で突き、奪った装備を地面に放り投げた。やがて煌めく兜を剥ぎ取ると、英邁なるペーレウスの子は、凌辱の手を止めた。

 紅は艶やかで美しく、血と埃に塗れた頬は、肌理も細かく眩いばかり。筋肉質だが美しい体躯も相まって、その美しい姿はおよそ神がかっていた。


「眠りにつくアルテミスだ・・・」


 アカイア勢の何者かが言った。周囲の戦士たちも息を呑み、頷く。これは争乱の歯止めとなって、イリオン勢は無事に防壁の中へと帰還を果たしたのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ