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イリオンの矢  作者: 民間人。
援軍とその顛末
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アキレウスの戸惑い

 ペンテシレイアは戦場にあって血染めの鎧に身を包み、さらに黒い武勲を収めようと勢いづいていたのであるが、その頃、同じ女達が防壁の中からこれを見ていた。

 イリオンの男達が戦塵に塗れて散っていく様を、これまで多く見ていた女たちは、今度は自分と同じ乳房を持つ女王が、アカイア勢を大地に貼り付ける姿を目の当たりとした。これに心奪われた女達は、産湯やいちじくや、小麦を運び、生地をこねるのをやめて、心を奮い立たせる。

 ついにアンティマコスの娘ティシポネーが、衣服運ぶ籠を捨て置き、仲間たちを煽って言う。


「私達の祖国を、男達の手だけに委ねて良いのでしょうか。彼らが守るようにして、私達も戦えるはずです。ペンテシレイアがそれを示してくださいましたよ。私達は男達が食べるのと同じものを食べ、同じように手と膝を持つ。だったら、武器も持てるはず、脛当ても着けられるはず。吸い込む空気も吐き出す空気も同じ」


「でも、戦い方を知らないわ」


「ペンテシレイアを御覧なさい。彼女は男達と同じように戦っている。私達も戦えるはず。彼女の手には守るものもない。それでも戦っている。私達には守るべき子供や夫がいる。あるいは、既に亡くした人も数えられないほどいるの。なのに戦えないの?このまま戦を男に任せて、外国人に売り飛ばされるのは嫌!」


 ティシポネーはそう言って、農具を手に取り、分厚い皮の鎧を身に着けた。女達は彼女に感化され、次々と鎧を身に纏い、思い思いの武器を手にする。棍棒代わりの伸ばし棒、槍によく似た物干し竿、盾に見立てた丸鍋と、投石機代わりの洗濯物。柔い籠や羊毛は隅に置き、いよいよスカイア門から繰り出さんとする時、女達のうちテアーノーが、防壁から降りて彼女達を諫めた。


「あなた達何をしているの?そんな細い腕で、彼らの槍を受けようというの?馬鹿なことはおやめなさい。男達は散々訓練してようやく、ペンテシレイアと肩を並べているのに、どうして私達が肩を並べて戦えるというの?」


 闘志を折るテアーノーの言葉に、女達から数々の罵声が浴びせられる。


「私達は男達と同じものを食べ、暮らしてきたのよ!どうして違いがあるというの?」

「そうよ、私と彼らでは違いがない。それはペンテシレイアが証明しているじゃない!」


 ティシポネーがテアーノーに平手打ちをする。赤く染まった右の頬と同じく、平手を返した手が左の頬をも赤く染める。

 テアーノーの周りを、武装した女達が取り囲む。凄き形相で彼女を見下げ、仇を討ち取らんとするように。

 振り上げられた幾つかの細腕を、テアーノーは両手で掴んだ。幾つかが彼女の頭を叩いたが、掴んだ袖からは白い腕が覗いた。


「この腕と、男の腕と、何が同じだというの!」


 女たちの戦場が静まり返る。そこでは、家具を両手に持った女たちの集団が、テアーノーを取り囲んでいるだけだった。


「ペンテシレイアとアマゾーンは、男達と同じように戦いの経験を積んで、それが性に合っていたから戦える!私達がこれまで戦争の鍛錬をしてきたというの?こんな細腕で、一体全体何を討ち取ってきたというの!」


 テアーノーに気圧されて、女たちが狼狽える。息を整えたテアーノーが、彼女達を諭して言った。


「ペンテシレイアは、軍神アレースの娘だそうですよ。私達に預けられた仕事は戦ではない。人は変わらず人であっても、その手に馴染んだ仕事は異なっています。それを決めて下さるのは知恵ある神。さぁ、ちょうど戦女神アテーナーが、織物に勤しむように、私達の主戦場は機織り機の前でしょう。仕事に戻りなさい。大丈夫ですよ。あなたの夫たちが、力を尽くして町を守ってくれますからね。以前のように防壁を囲んだアカイア勢が攻めてこられる状態ではありませんからね」


 テアーノーがこう語りかけると、女たちは自らの白い腕を下ろす。するりと裾が垂れ落ちて、その柔い肌を覆い隠した。

 女たちは防壁の上から、大軍勢がぶつかり合う様を、静かに見守ることにした。



 ペンテシレイアの闘志は凄まじく、アカイア勢はすっかり圧倒されていた。イリオン軍が盾と槍で辛抱強く敵を抑え込み、パリスと弓兵たちが頭上から矢を落とす。こうして前線に圧を掛けるのに対し、女王は武器を取り換えながら、次々とアカイア勢を薙ぎ払った。血溜まりはすっかり沼となり、新兵は足を取られて逃れて行く。すかさず鋭い槍が突き出され、喉を貫かれた者達も沼の肥やしとなっていた。


 では女神よ、ペンテシレイアがその名を呼んだ猛将二人、即ちアキレウスとアイアースは、この時どのようであったのか、私に語らせたまえ。


 両雄は戦友パトロクロスの墓碑の前に座り、捧げ物をして悼んでいた。特にアキレウスは並ぶ者無き優しさのこの男に、特別な感情を抱いていたため、その悲しみは一層深くあった。


 アキレウスの心には、ヘクトールを牽き回した負い目がある。これが心のしこりとなって、心優しいパトロクロスに、語り掛けるべき言葉を失くしていた。

 しおらしく胡坐をかき、さめざめと涙を流すアキレウスの横で、アイアースは酒を酌んだ。パトロクロスの墓碑の前に、盃一杯の酒が捧げられる。揺れる水面に映る浮かない表情のアキレウスは、長い髪で顔をすっぽりと隠し、流れる涙を覆い隠した。


 戦が始まって暫く経っていたが、死者を弔うべき墓は静けさで満たされている。波の音が迫っては遠ざかり、遠ざかっては迫って、魂を運び出す戻らぬ船出を思い起こさせた。


 ますます悲しみに沈むアキレウスは、憎しみに汚された美しい記憶が、パトロクロスの墓前で思い出されるのと同時に、葛藤の中で、仇敵ヘクトールのことも思った。


 戦とは、かくも悲しいものであったろうか。男と男が名誉のために争い、武勇を競う戦いとは、かくも心を濁らせるものであったろうか。

 ヘクトールにとっても同じことだったろうか。仲間を亡くしたヘクトールは、アキレウスに誠実に語り掛けた。では自分はどうであったか?怒りに任せてあの男を惨殺し、気の治まるまで辱めて、彼の父親を酷く苦しめた。


 アガメムノンと何が違うというのか?


 アキレウスの心は深い靄がかかったままであった。一方、アイアースは戦闘のことも聞き耳を立てて承知していたし、アカイア勢を信頼して任せていた。

 この楽観的な男が、仲間たちの危機に勘づいたのは、この男達が遁走する、恐怖の声のためであった。


 アイアースは武器を手に取って身を起こすと、アキレウスの肩を揺すって語り掛けた。


「アキレウス、アキレウス!聞こえないか?この野太い声はアマゾーンのものではない。どう考えても男の物だ」


「・・・聞こえる。確かに聞こえるぞ」


 アキレウスは悲鳴を耳にして、静かに立ち上がった。両雄は防具を取りに陣屋へと駆けていく。


 かつてヘクトールがこの陣屋にまで迫って、船に火を点けようと試みたことがあった。アキレウスはその時の苦い記憶をよく覚えている。

 その時こそ、パトロクロスを亡くしたアキレウスの大きな過ちの瞬間であったからだ。


 アキレウスは、名工(クリュトテクネス)ヘファイストスの手なる見事な装具を身に着ける。あの時の後悔が無ければ、この世には無かった見事な装具を。


 足速きアキレウスはその身に神々の呪いを身に着け、忌まわしい戦場に向かうためマントを翻した。数多勇士らの嘆きの声が、再びその身に悲しみを運ぶことの無いように、イリオンの禍となるために、戦場へと赴くのであった。


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