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イリオンの矢  作者: 民間人。
援軍とその顛末
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月渡る戦場を眺めるペンテシレイア

 老王夫婦と寡婦アンドロマケー、そして将軍としてパリスが、ペンテシレイア一行の歓迎の宴へと参加した。外では未だ激しい戦闘が続いていたが、パリスの役をデーイポボスが引き継いで、アカイア勢を押し留めている。


 女王の態度に心を許さないイリオン人は、見事な食事も喉を通らず、はらはらとして強張った表情で一行の挙動を窺った。特にアンドロマケーの剣幕はすさまじく、夫が売春宿からの帰りに、自宅に連れ込んだ女を見る時のように恐ろしい顔をしている。端女達もこの寡婦のことを快く思わず、何かにつけて女を席から外そうと色々な遣いを頼む始末であった。


 一方、女王は変わらず堂々としている。黄金の槍を自らの武具の一つに加えて、滴る肉汁も煌びやかな羊の肉を頬張った。パリスはその傍らに座り、宛ら従者のようにあれこれと食物を運んでいる。プリアモスの心配りも、女王は関心を見せないようだった。


 日が傾き、宴が終わると、ペンテシレイアは早速、形見の槍を手に取って立ち上がり、パリスに声を掛けて言う。


「戦場の様子を見たい。案内を頼もうか」

「わかりました」


 パリスは警戒しながらも立ち上がって答える。女王の端女達はすでに就寝の支度に入っていた。


 宮殿を出てすぐに、夜のイリオンに灯る幾つかの光が目に入る。それらは守衛たちが手に持つ明かりで、歩哨路の上を行き来しつつ、アカイア勢の夜襲に備えている。


「見事な城壁だな」

「昔、神々が築いた見事な城壁です。今では私達の僅かな希望、明日を手に入れるための命綱となっています」


「なるほど。確かに、これを打ち破るのは容易ではないだろう」


 女王は答えると、城壁に向かって道を降り始めた。パリスはその後を追い、宮殿の急峻な丘の道を駆けていく。


「夜道ですから足元にお気をつけて」

「私なら問題ない」


 あっさりと答えると、女王は丘を駆け下りていく。パリスは慌てて道を降っていく。女王の動きがあまりに俊敏なので、パリスは足をほつれさせてしまう。


「気を付けるのはお前の方だろう」

「うるさい・・・」


 町は闇の中にあったが、石造りの建物はどれも堅牢で見事で、時折現れる質素なあばら屋でさえも、闇の中に紛れて不気味な魅力を放っている。家屋にはどれも灯が灯っておらず、交易品を扱う商店は閑古鳥が鳴く始末である。寂れた街並みを降りながら、女王はパリスに語り掛けて言う。


「イリオンの町がこのようになったのはいつからだ」

「9年間も前にアカイア人が攻めてきて、その時からです。はじめの内はまだ元気もあったのですが、兄さん・・・ヘクトール亡き後はずっとこの有様です」


「ヘクトールが精神的な支柱であったのは間違いないな」


 ペンテシレイアの呟きに、パリスは声を荒げながら言う。


「当たり前です。強く優しく勇敢な兄を、誰もが慕っていました」


 警戒心を露にしたパリスに対し、女王はその頭を小突いた。剥き出しの憎悪を半笑いで受け流し、形見の槍を弄んで続ける。


「自分はそうではないと」

「それも、当たり前だ!」

「だったら、私が形見を受け取ったのは正解だったようだな」

「は?」


 女王は見事な胸当てを外し、輝くばかりの衣装をパリスに披露する。それは闇の中にあっても金襴が映える逸品であり、さながらパラス・アテーナーのお編みになったキトンのような絢爛さであった。


「お前は参謀に向いているが、発破をかけるには陰気すぎる。アキレウスがどれ程の実力かは分からないが、恐らく手強いのだろうな。そのヘクトールという男は、お前より数段力があっただろうからな」


 ペンテシレイアは一息に梯子を駆け上がると、しめやかな月の下に広がる広大な原野を見おろした。槍を床に突き立て、力強く大股を開いて仁王立ちする。続いて上ったパリスへと振り返ると、女王は不敵に笑って言う。


「私が先陣を切ろう。お前は防壁の上で策を弄するのに徹しているのが良い」


 パリスは身震いした。女王の勇ましい立ち姿に、ヘクトールの面影を見たためだ。


「アキレウスは、イリオン最高の勇士だった、兄さんを討った男です。名誉や見栄で戦うのであれば、きっと後悔するでしょう」


 刺々しく言ったパリスに対して、女王は声を抑えて答えた。


「私は、この槍で妹を殺めたことになっている」

「妹を?どうして・・・」


 女王は月光を受け止めて逆光となった闇を背負いつつ続ける。


「鹿狩りをしていてな。あくまで事故だが、人には謀殺に見えたようだ」


 茫漠たる原野に、瞬く月が弧を描いて上っていく。この月に登らんとする魂が、ゼピュロスの息吹となって砂塵を空へと巻き上げた。それらはいずれ大地に突っ伏し、数多の砂粒と共にアイデスの門を潜って大地の肥やしとなる。女王は数多ある勇士らの血に塗れた戦場を見おろし、大きく息を吸い込んだ。


「不名誉を濯ぐには良い場所だ。この場を終の住まいとするのも悪くは無いだろう」


 パリスは答えに窮し、思わず狼狽えた。というのも、宮殿で耳にした囁きを思い起こしたためである。彼女たちは、ここを住まいとするのも良いだろうと言ったが、それを終の住まいとする為であったのだとしたら。パリスは彼女を非難しようと試みたが、その背中には、輝く兜のヘクトールの面影が宿っていた。


「パリスよ。私がアキレウスに討たれても、士気の落ちることの無いようにせよ。見事に討ち取ったならば、その時はお前がイリオンの門を開き、馬を慣らすイリオン人達を援軍に寄越せ。アカイア勢はたちまちに総崩れし、再び戦陣に退くだろう」


 パリスが答えるのを待たず、女王は梯子に手を掛けた。パリスは慌ててその後を追い、防壁を降りたところで急いで声を掛けた。


「女王ペンテシレイア!あなたは、自らの命で罪を濯ぐつもりでいるようですが!多分、妹君は、そのようなことは望んでおられないでしょう。防壁の中から私達を鼓舞して、共に戦ってはくれませんか?」


「馬鹿言え。先陣を切る勇気も持たぬ(おとこ)に、ついてくる戦士などあろうものか」


 女王はこう答えて笑うと、城への道を登っていく。イリオンの夜は、町の中天を駆け、火照る身体を冷やした。


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