パリスはさめざめと泣いた
防壁まで戻ったパリスは、アカイア勢が勢いづくのを避けるために、自ら進み出て強弓を射た。激しい矢の雨の中にあって、パリスの放った矢はきらきらと鏃を煌めかせ、アカイアの勇士一人の兜に刺さる。運よく急所を外し、黒い死を逃れたかに見えた兵士は、余裕綽々と腕を持ち上げてみせる。しかし、彼はその姿勢のままで倒れ伏し、体を痙攣させた。
仲間の戦車に踏みつけられたこの勇士のことを気にも留めず、パリスは急ぎ次の矢をつがえる。
(兄さんの塚も、イリオンも、守ってみせる)
パリスは逸る心に任せて、丹念に仕込んだ毒を鏃に塗り込むと、アカイア勢の勇士に続々と打ち込んでいく。アカイア勢から浴びせられる数多の罵詈雑言も、今のパリスには届かなかった。
無論、パリスには届かなくとも、周りの兵士の耳には届く。やれ卑怯者だ、臆病者だ、岩陰に隠れてばかりで情けないなど、多くの罵声がパリスだけではなくイリオン人の名誉も棄損した。彼らはこの侮辱に対する応報で、敵を討つ勇気を何とか絞り出していた。パリスでは頼りにならぬと、彼らも王子を軽視した。
美貌神の如きパリスは、名乗りを上げたアカイア人の脛に矢を射当てると、粛々と次の敵を狙う。脛当てを貫いた鏃から、傷口に浸透する毒は、多くのアカイア勢に青痣のような傷をつけ、手足に痺れを起こした。
このような抵抗も、アキレウスの前には全く無力で、槍で多くの矢を薙ぎ払い、二頭の神馬に牽かれた戦車で防壁へと迫る。そのたびに、パリスは町中に響くほどの大音声を上げて言った。
「槍を落とせ!」
すると、数人がかりで岩のような大槍を持ち出すと、これを真下に落とすように投げ出した。大槍はアキレウスの進軍を阻み、さらに撃ち込まれた矢の雨が、この勇士の頭上に降り注いだ。アキレウスがこれを槍で薙ぎ払うと、今度は町内から持ち出した大岩が頭上から落とされる。これにはアキレウスも後退を余儀なくされ、見事な盾で矢をいなしつつ、大岩を避けて後退する。こうした一進一退の攻防が幾度となく繰り広げられた。これは輝く兜のヘクトール譲りの、パリスの優れた采配のためであったが、兄には人望も力もあっただけに、パリスの采配を評価する者はイリオン人の中でも少なかった。
激しい戦闘の末に日が暮れると、アカイア人は砂塵を立てながら退却していく。兵士達が安堵して防壁を降りていく中で、パリスは苛立ちながら沈みゆく暁を見送った。
(アキレウス・・・)
彼は防壁を拳で激しく打つ。たちまち腕が痺れ、痛みのあまり赤く染まった。彼は激しく歯軋りをすると、何度も地団太を踏む。その姿を目の当たりにしたイリオンの戦士たちは、ますます彼の横暴さに怯え、その信望を失うばかりであった。
やがて海原に薔薇色の指持つ君エーオースが降っていくと、空を安らかな夜が巡り来る。防壁の上からぼんやりと空を眺めるパリスは、目には涙を溜めて、兄のことを思った。
(僕には、うまく仲間を導くことができません・・・。兄さん、どうして逝ってしまったのですか)
とめどなく溢れる涙を拭い、疲れた体で冷たい防壁の上に寝転がる。瞬く星々の中に、天に昇ったカルキノスの姿がある。パリスはヘラクレスに踏み殺されたカルキノスと自分を重ねて、再びさめざめと涙を流した。
パリスが感傷に浸る中、イリオンの分厚い城門を叩く者が現れた。パリスは身を起こし、身を乗り出してスカイア門を覗き込む。そこには、一人の女が立っていた。彼は訝しみながら、女に向けて声を掛けて言う。
「何か御用ですか!」
女は即座にパリスを睨みつける。彼が驚いたのは、この女の力強さであった。およそ普通の娘ではない。鋭い眼光も爛々と輝き、長く艶やかな髪はさながら兜の上に立つ飾毛のよう。ただならぬ雰囲気を感じたパリスは、弓を手に取り、矢筒から矢を取った。
「待て。私は女王ペンテシレイアの端女が一人、クロニエーである。イリオンに加勢するために、我々アマゾーンが参ったのである。まずは武器を収めよ。戦は日が登ってから始まるもの。翌朝すぐにこの場所に一団が訪れるから、必ずや警戒せずに出迎えるのだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。いくら何でも無警戒に通すことは出来ませんよ」
パリスが慌てて答えると、クロニエーと名乗る女は、不機嫌な様子で鋭い眼光をパリスに向けた。
「その確認のために参ったのだ。宮仕えの兵か何かだろうが、しっかりと老王プリアモスに伝えたうえで、明日に備えろ。ではな」
「ちょ、ちょっと!?」
呼び止める声も空しく、クロニエーはさっさと立ち去ってしまった。パリスは呆然と佇み女を見送る。我に返ると、頭をかき乱し、気を取り直して防壁を降りて宮殿へと戻った。
宮殿に戻ると、老人の祈りの声が聞こえた。パリスはその声を頼りに宮殿の奥へと進む。すると、見事な宝物を入れた蔵の前で、老王プリアモスが背中を丸めて祈っていた。蔵の中から取り出したと見える小さなゼウスの像は、手に持つ雷を杖のように大地につけ、威厳あるお姿で玉座にお掛けになっている。プリアモスはひたすら手を合わせて祈り続ける。
「父君」
「おお、アレクサンドロスか。どうした」
「先ほど、アマゾーンのクロニエーという女が、翌朝すぐに女王ペンテシレイアが到着すると伝えてきました。真偽のほどが分からず、父君にご相談をと」
パリスがそう伝えると、老王は僅かに顔を持ち上げ、組んだ手を解いた。
「そうか、来てくれたのだな・・・」
「では、本当に?」
パリスが尋ねると、老王は我が子に向き直り、その美しい顔を撫でた。
「よく頑張ってくれたね、パリス。これでお前のことを少しは休ませることができる・・・」
「父君・・・」
父の皺の寄った手で撫でられ、パリスの抑え込めぬ感情が溢れ出した。彼は父の細い指先を感じながら、先程のようにさめざめと涙を流した。老王は子供のように泣くパリスを抱きしめ、何度も、何度もあやす。心を慰め合う父子の声を、夜は穏やかに包み込んだ。




