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イリオンの矢  作者: 民間人。
援軍とその顛末
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ヘクトール亡き後

 ヘクトール亡き後、イリオン人の萎縮ぶりは凄まじいものであった。それはさながら病に伏した獅子が、脚逞しい鹿に恐れをなして縮こまり、代わりに岩のように強張った足元を行く兎の肉を好んで食むように、防壁の中に籠って弓矢や槍を射当てて抵抗した。

 日毎に追い立ててくるアカイア勢の立てる砂埃は高くなっていき、ついに防壁の上に立つ兵士さえ、その砂埃を浴びるほどであった。

 ヘクトールの塚には毎夜捧げ物を届ける者があったが、これも誰もが輝く兜のヘクトールを求めんがため。イリオン人は有りもしない奇跡を欲し、それほど望みを失っていたのである。


 一方、失意のプリアモスは、ヘクトールに代わる世継ぎを選ぶことを余儀なくされたが、それほどまでに優れた王子など彼のもとにはあるはずもなく、デーイポボスか、ヘレノスか、いずれかであろうというのが専らの評判となっていた。


 パリスはこの時戦場にあって、怖気づくイリオンの戦士を防壁の上に追い立てて、矢の雨を降らせて守りを固めていた。


「イリオンを守るためにそこに留まれ!」

「とにかく防壁に敵を近づけるな!」

「あなた達の家族がどうなっても良いのか!」


 パリスはこうした怒号を幾日も繰り返し発したが、これも兄ヘクトールのように戦士らを束ねようと逸ったためである。苛立ちと焦燥はパリスの顔立ちを険しいものに変え、その美貌は恐ろしい形相で覆い隠された。

 こうした扱いを受けて、戦士たちも面白いはずがない。ましてプリアモスの子のうち、力にも勇気にも劣るパリスが言うのだから、士気はますます下がっていた。

 パリスもこれに気づかない筈はなく、日毎に増す苛立ちと苦悩の数々に、身も心も壊れかけていた。


 そんな折、プリアモスは息子たちを城内へ集めるように伝令を出した。この伝令を最後に受け取ったのは防壁の上で指揮を執るパリスで、彼は軍装のまま城内へと戻った。


 老王を囲む兄弟たちは、すっかり形相の変わってしまったパリスを見て驚愕した。これまでの穏やかさは見る影もなく、勇猛というよりは癇癪持ちという有様で、今にも誰かを蹴り倒さんばかりに思えたからだ。


 一段と老けたプリアモスも、パリスの相貌には驚いたが、彼には息子たちのように声を上げる余裕はなかった。


「アレクサンドロス、どうした・・・」


 デーイポボスが耳打ちをするが、パリスは苛立った様子で答えるだけであった。


「何もないよ」


 パリスが集まり、城内の雰囲気が不穏なものになる中、老王は疲れた抑揚のない声で、息子たちに語り掛けて言う。


「お前たちも知っていると思うが、ヘクトールの代わりに、王となる者を選ばなければならない。私はパリスを推薦するのが常道だと思う」


 これに驚いたのはヘレノスとカッサンドラーであった。予言の力を授かった二人は、それぞれ口々に王に反論をして言う。


「何を言うの、父君!この男は滅びの御子です。私は絶対に反対します!」

「冷静になって下さい、父君。勇猛さでも力でも、デーイポボスの方が勝っています。それに私には予言の力がある。先のことを見通す力は、多くの知恵に勝るはずでしょう」


「そのようだが、ヘクトールが推薦したのは美貌確かなアレクサンドロスなのだよ」


 驚き嘆くカッサンドラーが髪を掻き毟る。その金切り声は遠く防壁の外にまで届いた。一方で、デーイポボスは落ち着いた声音で言う。


「俺は、どっちでもいいけどな・・・」

「どうしてだ」

「俺は怒りっぽいから、父君のような統治者にはなれないだろうよ。ヘレノス、お前は身内を下に見ているだろ」


 デーイポボスが鋭く言い放つと、ヘレノスは視線を外す。

 恐ろしい金切り声が響く中で、老王は枯れた小さな声で続けた。


「本人に意思を聞いてみないことには・・・」


「分かりました。懸命に努力します」


 パリスが即座に応じると、デーイポボスも驚いて耳打ちをする。


「お前、無理するなよ?」

「何とかするよ」


「ついにイリオンも落城するのね!」


 カッサンドラーの猛る声が響き渡る。パリスは弓を握る手を強め、防壁に視線を向けた。


「話が終わったのであれば・・・」

「急に集めてすまなかったね、アレクサンドロス」

「いいえ」


 パリスは老王に丁重な挨拶をすると、すぐに戦場の最前線である防壁まで駆けていく。デーイポボスは癒えはじめた傷を労わりつつ、その場を後にした。

 カッサンドラーが神殿へと駆け込んでいくのを見送ると、ヘレノスは老王を鋭い目で睨みつける。


「父君、何故アレクサンドロスに決めたのですか。決め手は何だったのですか」

「私には、好ましい性格に思えたのだ」

「私はそうは思いません」


 ヘレノスが諫めるように言い放つと、老王は答えずに、玉座を降りた。


「まぁ、いいでしょう。ところで父君、せめて増援は呼んでいるのですか」


 ヘレノスが尋ねると、老王は杖を軸にして、ゆっくりと振り向く。


「お前の言う通りにしてある。お前の意見は多くの場合正しいからな」


 老王は「ただ、アキレウスに適うものかな・・・」と独り言ちると、そのまま自室へと籠ってしまった。


 取り残されたヘレノスは、身なりを整えて心を落ち着けつつ、広い宮殿から外へ出る。彼はアポローンの神殿へと急ぎ、神に供物を捧げて後ろ盾を得ようと試みた。


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