アフロディーテの御業
さて、王宮から自宅へ帰るパリスは、イーデー山の不気味な闇の中を、牧杖を頼りにして登っていた。牧杖の鉤には青銅の鍋を掛け、そこに灯りを灯している。この鍋は、プリアモス王に勧められるままに仲直りを申し込んだ、デーイポボスからの友好の証であった。武具ではないのはパリスが牧人であったためである。デーイポボスはこの鍋を、供物の臓物を共に喰らう際にパリスに預け、不服そうに以下のように言ったのであった。
「俺はお前のことが嫌いだからな」
プリアモスには聞こえずとも、パリスにはよく聞こえた。滅びの定めという過分な禍を背負わされたパリスは、内心憂鬱な思いで、プリアモス王の喜びようを見つめたのであった。
夜道の中、草木が生い茂り視界も判然としない山道で、獣たちが草をかき分ける音がする。身構えたパリスは、鍋を盾代わりに身を丸め、きょろきょろと辺りを見回した。
身軽な狩人の足音と共に、大きな獣の足音が少しずつ近づいてくる。彼は野獣が現れるのだと確信し、目を強く瞑った。
獣の重い足音がする。彼の脛にごわついた毛が触れた。怯えるままに身を震わせ、恐る恐る片目を開けたパリスは、大きな熊が彼に寄り添っているのを見た。恐怖のあまりに竦んだ足に、熊は構わず身を擦りつける。野獣とは様子の異なる熊に心を許したパリスは、鍋を構えるのをやめて、熊の喉をかき撫でてやった。喜び喉を鳴らした熊は、パリスの腿にすり寄り、以下のように人の言葉を話した。
「人の子アレクサンドロスよ、私は狩人の神アルテミスの御使いである。赤子のお前に乳をやったのも私だ。悪いことは言わぬ。今夜女神アフロディーテがお前の枕元に現れたとしても、その宿命に抗うことをせぬようにされよ。私の主が言うには、純潔は守るべきものであるが、お前が二度それを汚すことを敢えて許すとのことだ」
「それは、どういった意味でしょうか。アルテミス様の神慮は、人に過ぎない私にはあまりにも難しく思います」
パリスは動揺して拒んだ。妻オイノーネーに対して後ろ暗い思いを抱いている彼は、アフロディーテからの申し出を断ろうと考えていたからである。しかし、熊は憐憫の情を抱きつつも、戸惑う彼を諭した。
「そう言うな。赤子のお前に私を遣わされた女神のおっしゃることだ。どれほどお前の命を慮っておられるか、考えられよ」
「・・・ですが。そのようにおっしゃるということは、妻のオイノーネーを私に捨てろ、ということでしょう。彼女に申し訳が立ちません」
熊はパリスがますます不憫に思われて、足音のする森の中へと振り返る。線の細い、丈の短いキトンを身に纏った女の影があった。それがすぐに月に根差す光明の女神であらせられると分かったパリスは、女神の前に跪き、サンダルをしとどに濡らして訴えた。
「どうか、諦めさせないでください。お気持ちは有難く、またお断りするのも心苦しく思いますが、オイノーネーは私と共に生きてくれた妻なのです」
「お前には無理だ。情けなく女人の前に跪き泣くお前には。忠告はしたぞ」
そのように女神はおっしゃると、凄まじく砂埃を上げて、大地を蹴り上げて行かれた。熊は名残惜しむようにゆっくりと身を起こし、何度もパリスの方を振り返って、森の中へと消えていった。
一人取り残されたパリスは、間もなく選択の時が訪れるのだと理解し、女神の立ち去った森の方に跪いたまま、地面に雫を落とした。
夜の闇は次第に深まっていく。リュカオーンの悲しい遠吠えがこだまして響くと、寒空に星々が瞬いた。パリスは土に汚れた膝を持ち上げ、覚束ない足取りで、山路を登っていく。
神の裁定の下に、人の肉がどれ程貪られることであろう。ゼウスは山を登るパリスを目の端で追われつつ、ヘーラーに神酒を酌ませてそれを仰がれた。
家へと辿り着いたパリスは、既に羊毛の中に身を埋めて寝息を立てるオイノーネーに添い寝する。パリスがその腕でオイノーネーの御髪を撫でると、彼女が眉を顰めて寝返りを打つ。
夜の山には静けさだけが潜んでいた。いつまでも彼を助けたオイノーネーとの思い出が、パリスの脳裏を走馬灯の如く駆け巡る。それは止めようとしても止めようがなく、気を逸らそうにも夜の闇はあまりに深かった。やがてまばゆい光が家を訪れ、白い細腕を覗かせたアフロディーテがパリスの家を覗き込まれた。
麗しいアフロディーテは目を細め、蠱惑的な赤い唇をお開きになった。艶やかな美しさに、パリスは誘われるように彼女に近づく。彼の頭は靄のかかったように朦朧とした。神から放たれる馨しい花の香りが、その判断をさらに鈍らせる。
「かわいいパリス、約束を果たしに来ましたよ」
「は・・・い・・・」
その手を取りかけたパリスの鼻腔に、オイノーネーの手なるよく効く霊薬の香りが届いた。くらくらとした頭を覚ますような、ミントのような冷たい香りが、頭を鮮明にさせる。彼は台所に置かれた薬壺を一瞥し、躊躇いながらアフロディーテの伸ばされた手を拒んだ。
「どうなされたのです。男の悦びを与えて差し上げるというのですよ」
「・・・畏れながら、私にとっての最高の妻は、オイノーネーです。もう手に入れているものを、さらに手に入れるということは出来ません」
アフロディーテはそっと彼の顎を撫でられる。麗しい花の香がパリスを惑わす。輝くばかりの細い指先で、顎を挟んだ彼女は、それをくい、とお持ち上げになると、冷たい微笑を近づけてパリスに囁かれた。
「神が与えるというのです。私の顔に泥を塗るのですか。どのような仕打ちに遭っても構わないということなのですね?」
パリスの脳に甘やかな吐息がかかる。朦朧としたパリスに、アフロディーテは魅惑ではなく恐ろしい幻視を吹きかけられた。
静かに寝息を立てるオイノーネーが、彼の視界の中で突然呻き声を上げる。胸を掻き毟り、体を痙攣させた彼女に、パリスは慌てて駆け寄った。
「オイノーネー!アフロディーテ様、どうかお怒りをお鎮め下さい!」
呻き声を上げるオイノーネーが細い目を開ける。
現実には、パリスだけが発狂して彼女の肩を揺すっていたに過ぎなかった。困惑したオイノーネーが起き上がると、パリスはその身に覆い被さり、地面に彼女を押さえつけた。
「パリス、一体どうしたというの!?待っていて、気付け薬を持ってくるから!」
オイノーネーが立ち上がろうとするのを、パリスは乱暴に押さえつけた。アフロディーテは月光の中で佇み、パリスに甘やかな吐息を吹き込まれ続けた。
パリスには、相変わらず苦しむオイノーネーが映っていた。不調のままに、彼女が健気にパリスを庇おうと起き上がろうとするのを、彼は必死に諫めて止めるのであった。
「私の顔を立てないというのならば、私の業でオイノーネーを亡き者として、次の嫁を娶れるように取り計らうこととしますよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい!あなたに従います!どうかオイノーネーを助けて下さい!」
アフロディーテは、彼に吹き込んだ狂気を取り払われた。青ざめて怯えるオイノーネーの姿がパリスの視界に戻ってくると、彼はわなわなと唇を震わせ、オイノーネーの袖に露を零した。
「ぁ・・・」
もう抗うことは許されない。パリスは非力を恨めしく思い、オイノーネーを強く抱きしめて声を上げた。オイノーネーは台所の前に立つ眩い霧に気づき、その運命を悟って彼の乱れた髪を撫でた。
「神意に抗うことはできないもの、あなたを愛する気持ちを諦めることにします。もしもあなたが傷ついたとき、何らかの毒を受けた時には、直ぐに私の元に来てください。きっとそれを癒す手伝いができるから」
アフロディーテは泣きじゃくるパリスの頭に寄りかかられ、彼の視界に靄をかけて遮る。それと同時に彼の中からイーデーの山にあった愛情を取り去られ、彼は意識を手放した。また、麗しい女神は、次にはオイノーネーの頭を抱かれ、その心に暗い感情を沸き立たせた。これは、パリスとの別れから悲しみの感情を取り去るように取り図られたためであった。涎を垂らし、視界をも失ったパリスを、女神はその白い腕で抱かれると、オイノーネーの家から彼を奪い去ってしまわれた。