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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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ヘクトールの葬儀

 ヘクトールの遺体を乗せた馬車が戻った時、誰もが悲しみに暮れていてそれに気が付かなかった。いち早くそれに気づいたのは、予言の力を持つカサンドラーであった。彼女はプリアモスとイダイオスを乗せた馬車がイリオンの門を潜るときに、歩哨路の上からその様子を目の当たりにした。カサンドラーは兄が帰還を果たす時に、空が何色であるのかを既に知っていたため、いち早くこれを報せるために防壁の上で待っていたのである。人は彼女の予言を信じないが、事実は信じるに値する。カサンドラーの考えは見事に的中した。


 町を通る人々が、皆俯き歩いている時に、彼女のよく通る声が、城山にまで響き渡った。


「イリオンの人々よ、多くの民を助けた我が兄ヘクトールが戻ったぞ!」


 この声を聞くなり、はじめて馬車に気が付いた民草は、プリアモスの乗る馬車に集まった。身動きが取れないほど混雑した道端に、カサンドラーを含めたプリアモスの子らが駆け寄ってくる。その中には、勿論パリスとヘレネーの姿もあった。


「王子!輝く兜のヘクトール王子!」

「お願い、その顔を見せておくれ!王子のご尊顔を見納めたいの!」


 民草に遮られながら牛歩する馬車に向けて、プリアモスの子デーイポボスが号泣をしながら叫んだ。


「兄君、お帰りなさい!兄君!」


 デーイポボスの声を受けて、悲しみに沈む民草も同じように王子の凱旋を労った。


「お帰りなさい、王子!」


 誰もがヘクトールの帰還を涙が枯れるほど喜び、また悲しんだ。パリスはヘレネーと隣り合って、拳を強く握る。その拳を、ヘレネーの柔らかい手が包み込んだ。


「お前たち、まずはヘクトールを宮殿まで運んでやりたい。どうか道を開けておくれ」


 プリアモスがイリオン人達に声を掛けると、彼らは宮殿までの道を開け、小高い丘の上まで馬車が登っていくのを見守った。彼の兄弟たちは、馬車の後を追いかける。

 庭まで至ると、プリアモスは馬車を降り、先ずは兄弟たちと向き合った。きまりの悪そうな老王の言葉を、王子たちは長い間待つ。彼らの後を追いかけて、カサンドラーが庭まで到着する。


「お前たちには酷いことを言ってしまったな。本当は、女神イーリスの助言に従って、屈強な従者をつけないためだったのだ。正直に言えばとても恐ろしかったが、アキレウスは話せばわかる男だった。戦場にあってはそうではないだろうが」


 プリアモスが小さな声でこう語りかけるのを、慰めたのはパリスであった。彼は父の前に進み出て、そしてその手を優しく包み込む。柔和な笑みを浮かべた彼は、兄の眠る荷台の上を見た。


「父君・・・。今は兄君と再会できたことを素直に喜びましょうよ」


 静かな寝顔であった。その命が失われたのだとは思えないほど、艶やかで若々しい顔立ちを保っている、これはまるで、遠視射る君アポローンが、銀の矢で苦痛を取り去ったかのよう。老王は感極まって、拭い去れぬ悲しみをパリスの胸にぶつけて涙を流した。尽きぬ悲しみの中、ヘレノスが老王のもとに進み出る。


「アカイア勢は休戦を許したのですか。葬儀をする時間を与えられたのですか」

「ああ、12日間だ。別れの時間は十分にある」


 老王が答えると、ヘレノスは頷き、再び沈黙した。彼は、この12日を用いて、アカイア勢に奇襲を掛けられないものかと思案を巡らせたのであるが、アキレウスが猛り狂うことを考えれば、その先の滅びがかえって早まるだけのようにも思われた。偉大な兄と比べて、ヘレノスは正々堂々とした男というわけではないのである。


「悪だくみしているのね、ヘレノス」


 カサンドラーは予言で結末を知っているので、ヘレノスを諫めて言う。二人の予言者は各々の眼で未来を確かめると、どのようであれ避けられぬ滅びを見て、異口同音に大きなため息を吐いた。


「さて、お前たち。優しい兄君を、寝台で休ませてやっておくれ」


 率先して動きだしたのはデーイポボスであった。集められた歌い手たちと共に、あばらの浮き出た腹を抱き上げると、とめどなく溢れる涙を拭い、鼻を啜りながら彼を寝台へと運ぶ。パリスはヘレネーと共に、庭先で育てた美しい花々を籠に入れて持ち込み、王子の周りを馨しい花弁で彩った。


 ヘレノスはアカイア勢が攻め込んできてはならないと、触れ役の伝令に親書を認めさせ、英雄アキレウスに謝辞を述べる。そして、ヘクトールは無事にイリオンに帰り、丁重に弔うこととなったことを記した。


 ヘクトールの周りは華々しく彩られた。黒いキトンを身に纏った人々が、偉大な王子の姿を見ようと城山を登って宮殿を覗き込む。誰もが涙で衣服を濡らし、輝く兜持つヘクトールの顔を見た。


 デーイポボスと共にヘクトールを安置した歌い手たちは、神々が足を止めるほど、見事な挽歌を歌う。別れに際して悲嘆に暮れるしめやかな歌を耳にした時、誰もが最期の別れを理解して涙を流した。


 普通泣き女などが雇われて、死者に取り縋って泣くのだが、優れた長兄には誰もが恩義を感じたので、女たちはむしろ率先して彼の遺体を抱いて涙を流した。


 まずは生涯の良き妻アンドロマケーが、心の底から湧き出す涙で声を震わせて語り掛けるには、


「ねぇ、あなた。寡婦にはしないでと、息子のことを思って生きてと言ったのに、どうして亡くなってしまったのですか。私達は、いいえ、イリオン中の女たちは皆、あなたに守られてこれまで生きてきたのです。私達はこれからどうやって生きていくというのですか?この子も・・・きっと長くは生きられないでしょう。あなたを亡くして空虚な時間を過ごす私も、アカイア勢に連れ去られて、我が子を庇うことも出来ずに惨めに望まぬ男の(めかけ)となるのです。あなたと共に生きるうちに聞いた、何気ない言葉ばかりが蘇る。あなたはこれまで、いつまでも忘れられぬような一言を下さらなかったのに。一つ残らず思い出すことができてしまう。ねぇ、あなた。私は・・・」


 アンドロマケーは耐えきれず、嘆く我が子を胸に抱き、夫の腹に涙を零した。その身を強く握りしめると、馨しい花弁と、オリーブ油の香りが彼女の鼻を掠める。それは酷く鼻の奥を刺激し、涙がとめどなく零れ落ちた。


 次に母ヘカベーが、最愛の息子に別れの言葉を投げかけて言うには、


「かわいいヘクトール。あなたは私の最も愛する息子です。ですがあなたは、そう、神々にも愛されていますね。これまで死んでいった我が子たちは、砂塵に塗れて姿も見えぬか、生きていても遠い海の向こうに売られて行ってしまいました。しかし、あなたはここにいてくれる。どこまでも親孝行な子。今はただ静かに休んで、私達のために祈っておくれ。私達もお前のために祈るから」


 さらに、パリスの妻ヘレネーが、別れの言葉をかけて言う。


「トロイアに来て20年が経ちました。私はすっかりトロイア人のよう。それなのに、あなたからは酷い言葉を少しも聞きませんでした。滅びの御子と呼ばれたパリスのことも、その妻でまさに滅びの因果となる私のことも、冷ややかに接するものは沢山おりました。それなのに、あなたは私によくして下さった。酷い言葉をかけられたときは、和やかな場を作って下さったし、あなたご自身が誰それの悪口を口にされる姿さえ見ませんでした。多くの優れた御兄弟がいる中で、あなたほどの人格者は他にありません。だから・・・私はあなたが生きていてくれたらと、ずっと嘆いているのです。あなたのためだけでなく、卑しくも私のためにも・・・」


 こうして女たちが代わる代わるヘクトールに泣きついて、その様に、人々は慟哭を抑えられなかった。パリスは溢れる涙を腕で乱暴に拭うと、彼の隣に戻ったヘレネーの手を強く握った。


「僕が、イリオンを、守るよ。兄さんの守ろうとしたものを」


 ヘクトール亡きその後、彼に勝る者などイリオンにはいなかった。パリスもそれを分かっていて、それでもアカイア勢を追い帰す覚悟を固めた。


 長い送別の後、老王プリアモスは、群衆たちに語り掛けて言う。


「イリオンの民よ、アカイア勢からは12日の休戦を取り付けている。火葬のための薪を集めて、ヘクトールに墳墓を作ってやりたいのだ。どうか力を合わせて、火葬の日までにありったけの薪を集めて欲しい」


 群衆たちはヘクトールのことを思い出し、彼のためにありったけの薪を集めた。誰もが悼む気持ちは同じであった。集めた薪は荷馬車を用いて運ばれ、神々にも見えるように天高く積み上げられた。

 九回も(ニュクス)(ヘーメラー)が空を巡った後、十日目の暁の中、人々の目ほど空の色が染め上がっている。イリオン中の人々が、積み上げられた薪の周囲に集まり、最後の別れを惜しんでいた。

 この中を、アポローンに仕えるクリュセーイスを先頭に、兄弟たちが兄の遺体を運んでいく。彼を飾った美しい花々の数々は、パリスの心からの弔意であった。天高く聳える薪の最も上に、ヘクトールの遺体を安置すると、薪に火を点けた。


 空に薔薇色の指持つ君(ロドダクテュロス)エーオースがのぼり来て、暁色に空を染め上げて行かれると、ヘクトールの周りに集った民の目に、暁色の炎が映る。それは彼らの弔意たる薪を黒く染め上げて、美しい花々で飾られたヘクトールの遺体を、優し気に包み込んだ。

 そして、アイデスの門を叩くヘクトールに肉体を返し、神々にその香りを捧げて、そこには白い骨だけが残った。


 兄弟たちは薪の中から兄の骨を拾い集めると、これを黄金の壺に収め、紫色の布で包む。高貴な色に守られたトロイア最高の英雄は、土の中に収められて、人々が心を込めて塚を積み上げた。


 見事な塚が出来上がると、人々は宮殿へと集い、悲しみと食事を分かち合ったのであった。


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