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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
68/99

それは誰の父か

 陣屋の奥にアキレウスの座が設けられている。座の前には、今まさに終えた食事の跡が、食卓の上に並べられていた。数多の兵士らが彼から離れて仕事をこなしている中、アキレウスは二人の従士、名をアウトメドンとアルキモスと言う、彼らを侍らせて身の回りの世話をさせていた。


 長く明るい色の髪を灯火で照らし、逆光の中に鋭くなった眼光をぎらつかせるアキレウスは、無防備に座に胡坐をかき、真っすぐに入り口の方を睨んでいる。


「イダイオス、お前まで失えば一生の悔いとなる。お前はヘルメイス様が運び入れて下さった荷馬車を守っていてくれ」

「ご武運を・・・」


 二人の老人は恐れを抱きながらも、それぞれの持ち場についた。

 老王は、二人の従者がアキレウスの周りを甲斐甲斐しく動き回る隙間を縫って、アキレウスの脛まで近づいていく。

 アキレウスは音もなく我が身に縋り付くプリアモスの姿に驚き、二人の従者も彼を引き離そうと群がった。しかし、アキレウスは、老人が見事な装具も命奪う剣や槍さえ持たずに陣屋に訪れたことを認めると、従者を止め、老人の為すがままに任せた。彼はアキレウスの手を取り、皺の寄った細い指を重ねて、アキレウスの手に接吻をする。そして、涙ながらに語り掛けて言う。


「アカイア勢の勇士、アキレウス様。どうかこの老人の願いを聞き入れて下さい。もし、あなたがご自身の父君のことを大切に、また、老いさらばえる様を痛ましく思われるのであれば、私の大事な息子、イリオンの希望であったヘクトールの遺体を返して頂けないか。たんまりと宝物を荷台に積んでここまで参りました、これは全てあなたへの身の代でございます。心ある御方よ、どうかヘクトールの身を引き渡して、私達親子に最後の別れをさせておくれ」


 プリアモスの手は蝋のように細く弱弱しく、アキレウスの大きな手を包み込んで離さない。血管の浮き出た、枯れ枝の如き手を優しく包み返し、瞼から零れ落ちる涙で手の甲を濡らした。

 アキレウスが思い起こしたのは父のことである。10年もの歳月をイリオンの地で過ごし、長い間顔も見ずにいた父のことを、プリアモスの姿に重ねたのである。今自分はこうして健康そのもので暮らしてはいるが、いずれは死に、またその時に父が生きているかも知れぬ。その時取り残された父のことを思えば、心ある英雄が感情を揺さぶられない筈はなかった。

 さらに、プリアモスは言葉を続ける。


「私には50もの倅が居りました。私の妻が腹を痛めたのが19、側妾たちが生んだのが残りです。この度の戦で、その多くを亡くしました。まだ年端も行かぬトロイーロスもです。アキレウス。あなたはそれ程に精強で、誰も敵わぬのです。そのような有り余る力に、こんな非力な老いぼれが取り縋り、我が子の血濡れの指に接吻して、その愛する子の遺体を引き取りたいというのです。どれほど苦しい心持ちか、分かって頂けるでしょう」


「・・・父は」


 アキレウスは我が身に縋るプリアモスを起こして、その弱々しい手を握り返す。遠くギリシャの地で帰りを待つ父のことを思い、さめざめと涙を流した。そして、目の前の老人がパトロクロスの仇であるヘクトールの親であることを思い起こし、パトロクロスとの長く穏やかな時間のことを思い起こしてさらに涙する。プリアモスは額を床につき、アキレウスに縋りついて泣いた。二人は各々の深い傷を慰め合うように、陣屋全体にまで響くほど、長い間慟哭した。互いに涙が枯れるまで泣きつくすと、アキレウスは低い声で、噛み締めるように語り始めた。


「私の父は、神々から良い恩寵を授かったお方です。世の中には善きものを集めた桶と、悪いものを集めた桶があり、神はいたずらにこれを人に振り分けるのです。そのうちの多くの善いものを、つまりは精強な体、善い妻、善い子供・・・父は多くを授かりました。しかし、神は悪いものも振り分けたのです。この戦、そしてそこで私が死にゆくという運命です」


 アキレウスの言葉に感化され、プリアモスは枯れたはずの涙を目の端に溜める。アキレウスは穏やかな笑顔を向けて、子が祝いの席で父親にするように、優しく涙を拭ってやった。


「しかし、私は父を幸せ者だと思います。神は自らが憂いを知らぬくせに、こうして善きこと悪しきことを振り分けるのですが、それでも、父は多くの素晴らしい時間を過ごしました。女神テテュス、私の母との思い出や、健やかに育つ我が子のことを見守る時間、それにうら若き頃の父自身の記憶も・・・。そうでしょう?それは、ご老人、あなたも同じように幸せではないですか?多くの優れた子を設けた、あなたも。そして、あなたのもとに生まれたヘクトールも、幸せ者です・・・」


 このようにアキレウスが語り掛ければ、プリアモスもそう思いたい気持ちに駆られた。せめて我が子や彼自身が、幸せ者であったと思いたかった。そして、後世の人々が、幸せに生きたイリオンの人々を、世々を越えて語り起こしてくれるように願った。


「一休みしませんか。飯を出しましょう。心躍る美味い羊です」


「私への気遣いを有難く思います。ですが、今すぐにでも息子の顔を見せて欲しい。そうでなければ、私の心が解けぬのです。今の不幸な我が身の上を思うと・・・」


 プリアモスは何とか早くヘクトールを返して貰おうとアキレウスに頼み込んだ。しかし、老人は見るからに憔悴している。ほとんど一睡もできていないように見えたし、また食事も喉を通らないほどの日々を過ごしたに違いないことが一目でわかるほどであった。

 アキレウスは、今ある命を蔑ろにするプリアモスを諫めて、先程より強い口調で言う。


「ご老人よ、あまり私を怒らせないことだ。ヘクトールの遺体は私の手元にある。あなたが健康であればこそ、きちんと息子を弔ってやれるのだ。ご自分の体を蔑ろにしたいようならば、私が手ずからあなたの喉を裂き、その身を牽き回してやることも出来るのですよ。先ずは身に力をつけて、それから丁重に弔ってやりなさい」


 アキレウスの言葉は尤もであったが、プリアモスはすさまじい剣幕に恐れが勝り、アキレウスの言葉を受け入れた。

 足速きアキレウスはさっと立ち上がると、すぐに喉を切り、血抜きをした羊の皮を剥ぎ、その肉を焼かせてプリアモスに振舞った。また、アウトメドンが籠に入れたパンを持ち込み、アキレウスは食べやすいように切り分けて振舞う。プリアモスは豪勢な振る舞いにいたく感動したが、それでも喉を通る気はしなかった。

 見かねたアキレウスは、二人の従者に声を掛ける。


「先に荷台の宝物を受け取ろうか。ヘクトールの遺体と引き換えにな」


 そう言えばアウトメドンとアルキモスに否やなどあろうはずもなく、心優しきアキレウスと共に、荷馬車から荷物を運び出した。


 そこにイダイオスが番をしていたので、アキレウスは彼に声を掛けて老王と共に食事を摂るように勧める。イダイオスはアキレウスの穏やかな様子に心を許し、荷物を彼に託して老王との時間を分かち合うことを選んだ。


 さすがは足速きアキレウス、手際よく荷ほどきを終えると、瞬時に荷馬車に満載した宝物を運び出した。


 そして、アキレウスは空になった荷馬車から離れて、暗い陣屋の一室へと赴いた。


 そこには、牽き回されたヘクトールの遺体があった。不思議なことに外傷は少なく、刺し傷も癒えていた。憎い仇の顔を見るなり、アキレウスの頭には血が上ったが、先刻のプリアモスの姿を思い起こし、小さく首を振った。


「お前にも家族があるのだよな・・・」


 アキレウスはヘクトールの肉体にそう語りかけると、丁寧に身を清めながら語り掛けた。


「お前よ、怒りとは何なのだろうな。お前も私に怒りを抱いたか。私もお前に怒りを抱いたぞ。この虚しさをどこに連れ去ってくれようか。なぁ、ヘクトールよ」


 オリーブ油を取り、丁寧にヘクトールの体に塗って死に化粧を施してやる。そして、その身を二つの外套と衣服で包んでやり、寝台に寝かせて荷台へと運び込む。


「パトロクロス・・・。お前が先に旅立ってしまったから言うが、ヘクトールを弔ってやったイリオン人や、それを許した私に、どうか怒ってくれるなよ」


『それでいいのですよ、アキレウス』


 アキレウスは目を見開き、声の主を探す。どこにも見つけることが出来ない、いるはずのない声の主を。


 どこにも見つけられないまま、アキレウスは締め付けられる胸を掴み、さめざめと涙を流した。


「はははぁ・・・。優しいなぁ、パトロクロスは」


 アキレウスが戻ると、老人たちの肌から、蝋が溶けていた。老王はようやくヘクトールの遺体が自分の手元に戻って涙を流しながらパンを食み、自らの糧とする。その様子を、イダイオスはいたく感動して眺めていた。


「心ある英雄アキレウスよ、あなたには感謝しなければならないな。私はずっと、寝ることも食べることも出来ないでいた。あなたのお心遣いのお陰で、ようやく張りつめた心を解すことができるよ」


「それで、ご老人。ヘクトールの葬儀には何日を要するのですか。私がその間に、アカイア勢が戦を休むように手を尽くしましょう」


「ヘクトールは、私達の希望であった、イリオン最高の英雄なのです。ですから丁重に弔いたい。9日のうちに薪を集めて火葬の支度を整え、その間に民草と送別会をして、10日に火葬をし、12日には墳墓を築いて埋葬できましょう」


 プリアモスがこう答えると、アキレウスは太腿を叩いて立ち上がる。


「確かに承った。12日間、ヘクトールの葬儀が終わるまで戦はしない!ご老人よ、せめて御子息との最期の時をゆっくり過ごしてください」


 こうして、約束を交わした二人は、互いに身を休めるために床につくこととした。アキレウスは二人の老人の体を労って、柱廊の下に即席の寝台を作る。紫色の敷布を敷き、その上に、毛布と布団を幾つも重ね合わせ柔らかい寝床を作った。老人たちはアキレウスに深く礼を言い、強張った体を解すために身を休めた。

 アキレウスはこれまでにないほど穏やかな心持ちで、ブリセーイスとともに添い寝をした。


 ところで、これに困ったのはヘルメイスである。というのも、明朝までにプリアモスを陣地から逃がしてやらなければ、その様子を誰かに見られてしまうからである。ヘルメイスは遠く巡り来る明星を眺めつつ、錫杖で肩を解されながら色々と頭を悩ませておられた。


「うーむ、起こすかぁ」


 人助けの君はあまりに平穏な寝顔を見せるプリアモスの姿に多少ためらいを感じられたが、結局はご自身の懸念を拭えるだけの時間休ませたのち、老人たちを起こすことになさった。


「おーい、おじいちゃん。アキレウスが心を許したとはいえ、ここは敵陣ですよ。きちんと挨拶をして、ほら、戻るよ」


 ヘルメイスがプリアモスとイダイオスを起こされると、老人たちにアキレウスとその従者らに別れの挨拶をさせたのち、明け星が空に浮かぶより速くに、陣地を脱出されたのであった。


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