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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
67/99

真夜中の貴公子

 老王プリアモスがスカイア門を潜ると、茫漠たる荒野の中に、朧げな月光が照り付けていた。右方を旋回する鷲の姿を確かめつつ、老王は砂塵の中を急ぐ。

 静まり返った戦場には大地に染みついた血の跡が点々と続く。池のように黒く固まった血痕の中には、犬どもに喰われた勇士達の遺体があちこちに倒れ伏していた。その異臭と言えば、嗚呼。不壊なる者たちでさえ恐れ戦くほど、夥しい戦死者の数に、プリアモスは胸を痛める。そして、息子たちがこの中で必死に抗ったことを改めて認めると、イーリスの言いつけを守るために、追い帰してしまった息子たちのことを思い出し、吹き荒ぶ砂塵と同じほど、涙で視界を歪ませた。


「あの子たちにとっての私の最期の思い出が、あれでは・・・」


 プリアモスは代償を考えていた。神々が手を尽くして下さるのだから、何らか大きな捧げものをしなければならないだろう。神は私で十分と、そう思って下さるだろうか。よもやヘクトールの遺体や、息子たちの魂を連れて行ってしまわれないだろうか。堂々巡りの思案は荒野の道半ばまで続き、王は晴れることのない懸念を振り払ってイロスの塚まで辿り着いた。

 やがて、空の中心まで(ニュクス)が巡り来る。年老いた伝令が満載の荷馬車を操りながら、王に声を掛ける。老王も尽きぬ悩みに憔悴しており、伝令の心配りを有難く受け止めた。


「陛下、一休みしましょう。夜風が御身体に障っては大変です」

「イダイオス、気遣いに感謝する。お前の言う通りにしよう」


 老王は車を降りると、イロスの塚に近づいて、小川の水を汲む。赤く腫れた自らの目を見て、再び悲しみに沈み、命の水を飲んだ。無防備な老王のために周囲を警戒するイダイオスは、暗い闇の中に人影があるのを見つけた。


「陛下、お気をつけて下さい。何者かが居ります」


 闇の中から浮かび上がるように現れたのは、年若い貴公子であった。年の頃は16、7。輝くばかりの美貌を持っており、ぎらぎらとした瞳と薄っすらとした笑みは、闇の中では不気味に目立っていた。


 イダイオスが老王を庇って前に進み出る。プリアモスは気も動転し、というのも、アカイア勢の何某かではないかと疑った為であるが、身を竦ませている。

 ところが、若者はイダイオスの脇を素通りし、老王の手を取って尋ねる。


「おや、お爺さま方。こんな夜更けにどうして馬と驢馬を駆っているのですか。今まさにここは戦場ですよ。アカイア勢が恐ろしくはないのですか?」


 和やかに声を掛ける若者は、プリアモスに人好きのする笑顔を見せた。僅かな間をおいて、若者に応えて言う。


「引くに引けない事情があってね」


 こう答えると、若者はプリアモスが来た方角を遠く眺めて、年老いた王に尋ねる。


「ふぅん・・・。では、その宝物は誰かへの贈り物ですか。それとも、イリオンの方から見えたから・・・。もしや都市を捨ててお逃げになるのですか?」

「滅多なことを言うな、若者よ!」


 イダイオスが怒りに顔を赤くして歩み出るのを、プリアモスは宥める。


「やめなさい。事情を知らない者同士ではそういう事もあるだろう」

「ヘクトール殿がご存命であれば、色々と望みも持てたに違いないのに。全く悲しいことです。それでお逃れになるのであれば、致し方ないことなのかも・・・。ああ、失礼。ご反応を見るにそういう訳ではないのでしたね」


 若者は丁寧に謝罪をし、川縁で草を食む驢馬たちを撫でてやる。その姿は如何にも美しく、涼やかな笑みも手伝って男達が彼を襲うのではないかと身を案ずるほどであった。

 若者の育ちの良さを感じ取ったプリアモスは、年若い貴公子にこのように尋ねた。


「明らかに育ちの良い御仁、あなたは一体何者なのですか。なぜ、私の倅のことを知っておられるのですか」


「さすがは目敏い、陛下。私はミュルミドネスの一人、つまりはアキレウスに仕える者です。私は裕福な家庭で育った七男で、お察しの通り、一般に育ちも良い。ヘクトールの武勲を知らないアカイア勢は一人としておりませんが、私はその勇姿をこの目でしかと見ましたよ。どれほど優れた御方であったのか、よく存じております。うん、それで、私はアキレウスに咎められて一時は戦場を出なかったわけですが、今となってはアカイア勢の将軍が手を焼くほど、勢いづいた勇士達は戦を求めています」


「アキレウスの従士!では、聞かせておくれ、ヘクトールは今も五体無事でアキレウスの手の内にあるのか?それとも、既に獣の餌にされてしまったのか?


 プリアモスは貴公子の腰に縋り付き、遺体の安否を尋ねる。この世のものとは思えない美貌の貴公子は、苦笑交じりに答えた。


「いや、今は五体無事に揃っておりますよ。獣に喰われたとも、鳥に啄まれたとも聞きません。十二日も経つというのに、傷も塞がり、綺麗な御姿のままです」


「ああ、ヘクトール!お前が良い子に育ったお陰だぞ!ありがとう、ありがとう神様!私や息子たちが敬虔に捧げ物をしたことを、きちんと覚えて下さっていたのですね・・・!君もありがとう。どうかこの盃を受け取って、私とアキレウスを・・・何より倅に私を会わせておくれ」


「おっと、それは受け取れません。私はアキレウスの従士、アキレウスへの贈り物をこっそり受け取って、後でひと悶着あっては大変ですからね。ですが、お望みは叶えましょう。子のことを思う父親、素晴らしいではありませんか。私もあなたのことを故郷の父親のように思いますから」


 若者はこのように答え、プリアモスを励まして手を回した。プリアモスは感涙に咽び、まだ年若い艶やかな貴公子の胸に抱きつく。貴公子は苦笑交じりに老王をあやし、警戒するイダイオスにも人好きのする笑顔を向けた。


 イダイオスが威嚇をする間もなく、貴公子が馬車に飛び乗ると、プリアモスに手を差し伸べた。プリアモスが迷わずに手を取る。イダイオスは訝しみながらもこれに続いた。貴公子は手綱を握ると、凄まじい力を馬と驢馬とに振りかけて、大地が硝子に変わるほど車輪を牽かせる。たちまちに馬車がアカイア勢の陣屋まで辿り着くと、貴公子は二匹の蛇が絡みついた錫杖を振るう。陣屋を守る守衛たちは即座に眠りに落ち、その場に座り込んで寝息を立てた。


「なっ!?」

「シィーッ、ですよ」


 貴公子は悪戯坊主のような無邪気な笑顔をして、唇の前に人差し指を立てる。呆気にとられる老人達に構わず、彼は大地に足をつけ、発条の様な身のこなしで助走をつける。一息に防壁の上に飛び上がると、そのまま内側の閂を抜いて、門戸を開いてみせた。


「君は、一体・・・?」

「さぁ、さぁ。私のことは良いから。ご老人方、どうぞお足もとに気を付けて・・・」


 かくして、プリアモスは眠りにつく守衛の横を堂々と通り抜け、アカイア勢の陣地へと赴いたのである。


 彼の目には、アカイア勢の陣屋は決して豊かには見えなかった。確かに至る所に明かりが灯り、見事な防壁を築いたものだと感心させられたが、中はと言えば、石造りの都市に住むイリオン人からすれば、急ごしらえの木造の兵舎や、引き揚げた船の上で体を休めるのは辛い境遇に思われた。


 貴公子の案内に従って、老王と従者はアキレウスの休む陣屋まで至る。この陣屋は、他のものより見事な造りで、樅木を切り出して造られていた。長い陣屋暮らしにも耐え得る快適な建物には杭を巡らせた中庭まで設けられ、流石のプリアモスもその見事さに感激を受けた。


「さて・・・」


 アキレウスの陣屋の前に至ると、貴公子は突然立ち止まり、体を解し始める。罠を悟ったイダイオスが、プリアモスを庇って前線へと躍り出た。


「何を企んでおる。王には指一本触れさせぬぞ」

「いやぁー、ここの閂はね、とても重いのですよ。三人がかりでやっとって具合でしてね」


 貴公子はこういって笑いかけると、思い切り力んで大きな樅材の閂を引き抜くと、大粒の汗を拭って爽やかに笑いかけた。


「ひぃ、大変、大変。荷物もお運びしましょう」


 こう言うと、彼は荷馬車ごと、荷物をアキレウスの陣屋へと運んでいく。老人が手を付ける間もなく、彼は見事な品々を室内へと運び込んだ。


「私の仕事はここまでですかね?」

「おお、ありがとう。アキレウスの優しい従士よ」


 プリアモスが感涙しながら貴公子の若い手を皺だらけの手で包み込む。温い握手には老体が背負った艱難辛苦が籠っていた。


 握手を終えると、貴公子は肩に錫杖を掛け、悪戯坊主のように無邪気に笑いかけて言う。


「このヘルメイスが手を焼いてやったのだから、見事に交渉を終えてこい。人と人の交渉に、神を持ち込むのは野暮も過ぎるだろうしね」


「おお、なんと・・・!人助けの神、ヘルメイス様!本当に、なんとお礼を申してよいものか・・・!そして、これまでの不躾な言動を、どうかお許し下さい」


「良い、良い。私は人が好きだからね。ほら、行きなさい。アキレウスは案外冷酷ではないよ。きちんと礼を尽くして頼み込むことだ」


 貴公子の姿をしたヘルメイスは、このように気さくにプリアモスにおっしゃると、黄金のタラリアで大地を蹴り、一息にアカイア勢の陣地を後にされた。


 プリアモスは改めて、静まり返ったアキレウスの陣屋と向き合う。イダイオスが彼の隣に寄り沿い、その顔を窺うと、王は不退転の覚悟を胸に宿し、最上の従者に向けて深く頷いた。


「イダイオス、このプリアモスに力を貸しておくれ」

「もちろんです、陛下。必ずや、ヘクトール王子の遺体を返して貰いましょう」


 年老いた二人は、仇敵の屋敷に足を踏み入れた。


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