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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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プリアモス、一世一代の賭けに出る

 かつて夜のイリオンには賑やかさもあったが、今は静まり返っている。ついに滅びを覚悟して、都市を後にする者や、ヘクトールを悼んで神々に供物を捧げるものなどが町に溢れている。美しい声の葬送歌がアポローンの祭壇から響き、人々はその並々ならぬ美しい歌声に皆一様に涙を零した。


 宮殿の玉座に座るプリアモスは、辱められた息子のことを思い、悲嘆に暮れるのであった。今は宮殿に咲く花々も、白く浮かぶアスフォデルスで、揺れ動くたびにヘクトールの魂が帰ったのではないかとプリアモスが振り返る。そこには何もなく、ただ不気味な花が揺れているばかりであったが。


 さて、プリアモスの憔悴した様子は、多くの側近達や彼の子達にも、王のもとに赴くのを躊躇わせた。機嫌を損ねればすぐにでも自ら命を絶ってしまいそうな危うさがあり、遠くから注意深く見守るしかなかった。

 宮殿はこのような有様であり、もはやイリオンには希望などなかった。


少なくとも、(ニュクス)が空に迫り来る中でこの地にお降りになったイーリスには、そのような光景に見えたであろう。側近たちには目もくれずに、女神はプリアモスの前へとお降りになった。狂人のように体をぶるぶると震わせて嘆くプリアモスは、咄嗟に人影が現れたので、涙に歪んだ顔を即座に女神に向けた。


「ヘクトール・・・!?」

「ではない」


 冷静にお言葉を返されたイーリスを見て、プリアモスは再び顔を擡げた。


「おお、女神よ・・・。今、私は悲しみのためにあなたのお言葉さえ耳に届くか分かりません。心に暗い靄がかかってしまい、夜毎幻覚に苦しんでいるのです」


「どうしてそのように思うのだ。幻覚はどのように言うのだ」


「幻覚は、我が最愛の子ヘクトールなのです。亡霊のように半透明で、白い霧のように空に浮かんでおります。その子がこのように訴えるのです、『私を弔って欲しい』と」


 イーリスはお返事をなさらず、庭先に目を向けられる。不気味に咲くアスフォデルスが、居所を求めるように惨めに揺蕩っている。


「それならば、プリアモスよ。お前に良い報せがある。すぐに馬車の中に宝物を満載し、アキレウスの元を訪ねると良い。アキレウスは直情者だが誠実な男だ、誠意をもって接すれば、お前の息子の願いを叶えてやることも出来るだろう」


 イーリスがお告げになると、プリアモスははらはらと涙を流し、王を見守る側近達を呼びつけた。


「お前たち!宮殿にある至宝をとにかく目一杯集めておくれ!儂が自ら赴き、アキレウスにヘクトールを返して貰うように願い出るから」


「陛下、お気を確かに!」

「確かであるぞ。ここにおわす女神のお言葉であれば、信用できぬはずはない」


「そうだ、プリアモスよ。お前と御者役の年老いた伝令だけで行くのだぞ。奇襲を疑われてはならぬからな。それに、丸腰であれば誠意も伝わるであろう」


「女神イーリス様、有難うございます。私はこれより、アキレウスのもとに赴く決意を致しました」


 プリアモスはイーリスに自らの持つ宝飾品を捧げると、宮殿の納戸へと入っていく。彼は今生の別れかもしれぬと思い、妻を慰めて言う。


「ヘカベーよ、お前には辛い思いをさせてしまったな。すぐに私が、アキレウスからヘクトールを返して貰いに行くから。どうか暫く辛抱しておくれ」


 しかしヘカベーは、彼の言葉を聞くなり驚くほどの大音声で嘆いて言う。


「ああ、何てことですか!神々は私から、ヘクトールだけでなく夫まで奪うのですか!?あの化物(アキレウス)がまともにあなたの願いなど聞き入れてくれるはずありません!ヘクトールばかりが才を持ったばかりに、あなたの聡明な父が狂ってしまわれましたよ!」


「そう言うな。確かに私は殺されるかもしれんが、その時はヘクトールを抱いて共に死んでやろう。そうすれば息子も寂しくはない。それに、他ならぬ神のお言葉であるから、きちんと遺体を返してはくれるだろうと思う」


 プリアモスはごく冷静に答えたが、既に失いつくしたヘカベーは、嘆きの声でこれをかき消した。プリアモスは覚悟に勝算が得られないことを悲しんだ。さらに、不安げに自分を見守るトロイア人達に杖を振り回して威嚇する。


「お前たちは黙って何を見ておる!そんなに私や妻が嘆く姿が面白いのか!?どうにせよヘクトールを失くした今、お前たちなどすぐに殺されてしまうだろう。イリオンの希望がこの世から消え去ったのだからな!だが神は息子と会うことをお許しになった。お前たちよりはよっぽど見たい顔だわ!」


 追い立てられた従者たちは、慌てて宮殿から逃げていく。こうして一人になり、荒野を渡るうちに彼に従者がつかないように気を配った。

しかし、王を不憫に思ったデーイポボスが、王のもとに進み出て言う。


「父君・・・どうか落ち着いて下さい。そのような姿を兄君は望みませんよ」


 そういうデーイポボス自身の声が震えている。拳を握りしめた息子が声を振り絞るのを見て、王は悲しみが転じた苛立ちを演じて杖を振り回した。


「何をしている!お前たちはすぐに荷物を運ぶのだ!それらを荷台に積まんか!どいつもこいつも役立たずだな。お前たちが死んで、トロイーロスやヘクトールが生きていればよかったのに・・・!」


 こういったプリアモスは、反抗的なデーイポボスやヘレノスを素通りして、同情的に涙ぐんだパリスの頭を杖で叩いて続ける。


「おい、役立たずのアレクサンドロス!お前は力もなくて他の無能共の役にも立たんから、さっさと先程の歌声に合わせてそのあたりで踊っておれ!ほら、お前たちは宝物を積むのだ!」


馬車や荷台の支度のために、慌ただしく従者が動き出し、王の心を汲んで息子たちが宝物を運んだ。ヘカベーはプリアモスのために金の盃に酒を注ぎ、老いた従者と共に献杯をできるように老王へと与えた。


「あなた、せめてゼウスに、あなたの無事を祈って献杯して下さい。このまま何もせず、アキレウスに殺められたら、私の心が壊れてしまいます」

「分かった。おい、清水を並々注いで来い」


ヘカベーに付き従う女中が、慌ただしく水を汲んでくる。老王は黄金の盃に指の跡さえ残らないよう、入念に手を濯ぎ、妻から盃を受け取った。プリアモスは短い礼を述べると、並々に注いだ盃の中を覗き込む。苦悶の表情をする自分の顔が映ると、プリアモスはこれを天に掲げて、息子たちに心の内を悟られないようにゼウスへと献杯をして言う。


「世で最も強く、偉大な父神、イリオンの希望、ヘクトールを御守りくださったゼウスよ。我が息子に恩寵を授けて下さった時のように、アキレウスが私を温かく迎え入れて下さるように、どうかお導き下さい。そして願わくば、あなたの従者たる鷲を、私の右方に遣わしてくださいますように。そうして、私をお助け下さいますように」


プリアモスは感激し、水面に映る黄昏色の光と共に、酒を飲みほした。

そして、支度を整えると、老王は馬車へと乗り込み、即座にスカイア門を潜ろうとイリオンの町を駆けていった。


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