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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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ヘクトールの遺体をめぐる議論

 パリスは、城壁の歩哨路から、組み上げられた薪が生贄と共に燃え上がる様を、ただぼんやりと眺めていた。掴み取った勝利を誇る、アカイア勢の面々は、パトロクロスの葬儀をしめやかに執り行っている。供物の肉を喰らい、アイデスへの遣いとして捕虜を薪の中に組み入れていく。パトロクロスを囲む供物の数々は、アキレウスによって捕らえられたものだ。


 肉の焼ける臭いがパリスの鼻腔まで届く。悲しいかな、晒し上げられたヘクトールは、アキレウスの戦車に足を括り付けられたままで、怒り心頭としたアキレウスは、昼夜を問わずこの遺骸を牽き回していた。

 襤褸布のように体中に擦り傷を負った兄の姿が視界に収まると、パリスはぼろぼろと大粒の涙を零した。

 パリスは、ただ、ぼんやりと、アカイア勢の執り行う葬儀を見守った。張り裂けそうな胸を抱えたまま、頬を伝う涙が風に当てられて身を冷やすのを感じている。零れ落ちた雫は城壁の下に零れ落ちたが、すぐにどこへ落ちたかもわからなくなる。それは丁度、雨粒が泥土を作ったにもかかわらず、どの土と混ざり合ったのかが最早わからぬ様と同じである。パリスの涙も誰それの零した水と分からず、また、日の照る内に蒸発し、消えてしまう。ただ異なるところといえば、雨水は時期が過ぎれば跡形もなく消え去るというのに、パリスの涙は消え去ろうとも、胸の内に残る悲しみは取り払うことは出来ないということだ。


 葬儀を終えると、アカイア勢はアキレウスの戦利品を巡って葬送競技を始める。アキレウスを主催として、アガメムノンやオデュッセウス、アイアースなどが続々と名乗りを上げ、誇りを賭けて競技を楽しむ。

 一方で、静まり返ったイリオンの町には、苦悶の涙に溢れている。嘆くことにさえ疲弊したイリオン人達は皆やつれた顔をしている。宮殿から種が零れ落ちたのか、道端にアスフォデルスが生えている。闇の中に浮かび上がったような白い花弁が、道端で不気味に揺れていた。しかし道行く者たちは、その予兆さえ気に留める元気もなく、首を垂れながら街路を彷徨い歩いている。

 ヘクトールにせよ、他のイリオン人にせよ、神々の予兆を悉く軽視するので、彼らの滅びはやむを得えぬものだろう。


 パリスは城壁に突っ伏して塞ぎ込んだ。最早滅びは避けられぬ。脳裏を過る兄の言葉の数々が、無力な自分に与えた力を奪い去っていくようであった。

 そのまま幾時間か過ぎ、怒りを収めたアキレウスによって、アガメムノンにも戦利品が授与されたところで、宮殿からイリオンの町を降ってくる集団が城壁へと向かってくる。


「おやめください、陛下!」

「ええい、止めてくれるな!せめて息子だけでも弔ってやりたいのだ!」


 パリスが振り返れば、悲しみに顔を歪ませたプリアモスが、押し留める従者たちを振り払って門を潜ろうとするところであった。


「陛下!どうか、御心を鎮めて下さい。せめて神託を下されるまでお待ちになって下さい。そうしなければ、もし万が一アキレウスの琴線に触れようものなら・・・」


 兵士は自らの口から零れた名に震え上がった。誰もがその名を耳にするなり、身を竦ませる。プリアモスも身を竦ませ、彼を諫めた従者に寄りかかって身を預けた。


「あぁ、ヘクトール・・・戻っておいで。神々よ。何とか、何とかして、私の息子をせめて正しく弔わせておくれ。家族を失う悲しみを、これ以上私に背負わせないでおくれ・・・」


 従者たちは慌てて彼を支えたまま、宮殿へと運び込んでいく。パリスはその様を見送ると、静かに遥か遠方のオリュンポスの峰へと視線を向け、神々へ向けて切に願った。


「どうか、父君の願いを叶えて下さい・・・」


 パリスの願いは天を飛び、神々の御座まで届けられた。



 さて、イリオン人が悲壮の中に沈んでいる時、天におわす神々は、彼らの心を汲み取るべきかについて議論を交わしていらっしゃった。


 アキレウスは連日ヘクトールの遺骸を辱め、怒りに任せて砂塵の上を牽き回していたが、彼の心は、再び勝利の幸福を覆い隠す悲しみで包まれてしまった。例えヘクトールを討ったとて、パトロクロスを失った悲しみは消えずに、込み上げてきた怒りに任せて日毎ヘクトールを辱めては、夜の闇の中で陣屋に座り、月を見上げてただ涙を零すばかり。


 連日の牽き回しをご覧になった輝ける君アポローンも、御心を痛め、天の御座に神々をご招致なさると、献杯の後にこのようにおっしゃった。


「神々よ。どうかヘクトールをイリオンに帰してやってはくれませんか。何も魂までとは言わない。規則に則り、肉体だけでも弔ってやらねば、あまりにも不憫に思えるのです。元々、ヘクトールはパリスが齎した災厄の尻拭いを任されたようなものでしょう。ならば、彼には相応の礼儀があっても許されるのではないでしょうか」


 ところが、神々の女王、白い腕の女神ヘーラーは、憐れな男の気持ちを晴らすべく、声を上げておっしゃるには、


「私は、少しでもアキレウスの悲しみを癒してやりたいと思っています。そのためには、やはりヘクトールは彼の手の内にあるべきかと存じます。アポローンのご意見に不足はございませんが、しかし、ヘクトールにはパトロクロスを討った報いを受けて頂かなければ」


 ヘーラーは、目敏きアポローンへと刺すような視線をお向けになった。見かねた狡知のゼウスは、アポローンに気を配ってお尋ねになった。


「輝ける君アポローンよ。お前はヘクトールの遺骸に目に見えぬアイギスを被せてやったな。あの神馬らに引き摺られて、まさかあの程度の傷で済むとは思えまい」

「確かに、そのようにしました。過剰な罰は秩序に悖る行為です」


「ふむ。ではお前は、ヘクトールを憐れに思い、助けてやりたいと申すのだな。どのように助けてやろうというのだ」


 すると、知恵深き輝きの君は、彼の友であり弟であるヘルメイスを示してこのように提案なさった。


「かのアルゴス殺しの神に、遺体を奪わせてはいかがでしょうか」


 このご提案に対し、多くの神々が賛同の声をお上げになった。ヘルメイスも頭を掻き、サンダルを結び直して支度をお始めになる。

 しかし、ヘーラーは血相を変えてお怒りになり、また、神々の女王の肩を持つ二柱の神、ポセイダオンとアテーナーが以下のように反論なされた。


「これはイリオンの王子であり代表者、パリスが齎した罪である。ならばイリオン人は全て報いを受けるのが当然であろう」


「ヘレネー誘拐は、自由人から財産を奪う、許されざる行為ではないですか。それを許容することなど、断じて許されてはなりません」


 このように、二柱の力ある神々が糾弾なさるので、輝ける君は怒りに打ち震え、ご神意を訴えて以下のようにおっしゃった。


「では、ヘクトールが我々に齎した多くの供物、肉や、見事な防具、それに衣服に至るまで、これらの敬虔は無視しても問題ないということですか。神は契約も厚意も無視し、全てを心のままに、ほしいままに操ることが出来るべきだと言うのですか」


 さらに、静まり返った神々に畳みかけるように、アポローンはこのように直訴された。


「沈黙は同意と同義。では、アキレウスのように、怒りに任せて、仇敵を、戦友の墓の前で二度も三度も牽き回すことが正しいことだというのですね。確かに人には心がございますから、運命の女神が運ぶ過酷な運命に病むことは避けられぬことです。ですが、それを耐え、乗り越えるようにお創りになったのではないですか。では、感情のままに猛り狂うアキレウスの姿が、果たして人間としてあるべき姿であるのか、よくよく考えてみるべきです」


 このように言いきった時、息を切らせたアポローンは、我に返られて、ようやくご着座なされた。普段通りに粛々とお座りになるアポローンに、ヘルメイスとアルテミスが同情の視線をお送りになる。今まさに感情に任せて怒らんとされるヘーラーであったが、アポローンの訴えを受けて更なる怒号を浴びせておっしゃる。


「お前は神の血多きアキレウスと、ヘクトールがまさか同格だと訴えるのか!?神々の血はそのような低俗な人の血と同じではないだろう!所詮は浮気女神の御子ですから、どこまでも悪人とつるむのがお好きなようですね!」


 白い腕の女神ヘーラーは、猛りながら地団太をお踏みになった。地上は大きく揺るがされ、人の子らが住む石の町も激しく揺さぶられた。

 あまりの癇癪に耐え兼ねたゼウスは、ヘーラーの髪を乱暴に掴んでお怒りになる。


「言葉が過ぎるぞ、ヘーラー!儂の妻だからと言って、何でも思い通りになるわけではあるまい!良いか、ヘクトールのことを好いておったのは別にアポローンだけではないぞ。何せあの男は儂にも相当の供物を捧げて楽しませたのだからな。イーリスよ、水底で嘆くテテュスをここに呼び、アキレウスを説得するように申し伝えよ!」

「あなた、イーリスは私の伝令ですよ!」

「ええい、黙れ!」


 ゼウスはお嘆きになるヘーラーを乱暴に椅子の上に押し込まれると、イーリスに凄まじい形相をお向けになった。


 これを受けて、イーリスはオリュンポスの峰から弧を描くように駆け下りて行かれ、数多色持つ虹の足跡を空に描いて行かれた。

 イーリスは海原に辿り着くと、この深い淀みの中へと降って行かれる。それは大船から降ろされた錨の如くに、凄まじい速度で水をかき分けて行かれた。海の色が深くなるに従って、イーリスの耳を覆う海水が、水音を防ぎ、御身体に纏わりつく。魚共が女神の旋毛の上を、泡を避けて泳いでいく。

 そうして水底まで降られたイーリスは、洞穴の中から響いてくる嘆きの声をお聞きになった。洞窟は冥府のように暗く深く、人の訪れ得る場所ではない。その奥深くには、悲嘆に暮れるテテュスの御姿があった。その周りには数多の海の女神たちがいらっしゃる。

 俊足のイーリスが銀の足持つテテュスにお近づきになると、女神たちは道をお明けになる。イーリスが涙を零す足元に跪かれておっしゃるには、


「銀の足持つ女神テテュス様、ゼウス様がお呼びです。どうぞオリュンポスまでいらしてください」


 しかし、息子の死を受け入れられずに、ひどく目の周りが赤く腫れてしまわれたテテュスは、疑い深くイーリスを見上げてこのようにお返しになる。


「そのような偉大な神が私などにどのような御用ですか?今、私は息子のことで頭がいっぱいで、とても手助けをすることは出来ません」


「その息子のことなのです。どうかお力添えください」


 このようにイーリスがおっしゃると、テテュスは暗色のヴェールをお召しになり、海と混ざる涙を、海底に浸してイーリスと共にオリュンポスへと昇って行かれる。テテュスの御神意に応じて、海は二柱の女神の足を取らぬように身を引いていたので、イーリスがお降りになる時よりもずっと速く、二柱の女神は海から陸上へとお登りになった。


「アキレウスのことをゼウス様が案じておられるのですか。それとも、イリオンのことを案じておられるのですか」


 テテュスがこのようにお尋ねになるのを、イーリスは風を切る音で遮ってしまわれる。その仕草で、ゼウスがイリオンのことを案じておられると悟られたテテュスは、再び強く慟哭された。


 オリュンポスまでイーリスがお導きになると、テテュスをご覧になるなり、ゼウスは隣席の肘掛けを指で叩いてお示しになる。これを受けて、パラス・アテーナーはテテュスに席をお譲りになり、暗いヴェールで顔をお隠しになったテテュスもお礼をお返しになって着座なされた。


 水底ではとても視認できぬほどであったが、テテュスのお召し物は殆ど青黒いものであり、息子の死を先んじて悼んでいるようであった。


「よくぞ来たテテュスよ。儂きっての願いなのだが、お前の子、あの勇猛なアキレウスに、ヘクトールの遺体をイリオンに帰してやるように説得してやってはくれまいか。どうにも凌辱が過ぎるので、少し彼の心を慰めてやらねばならぬ」


 ゼウスがこのように仰せになると、銀の足持つテテュスは俯きがちにお答えになる。


「アキレウスはケイローンのところでもよく学んでいるはず、分別のつかない子ではありません。きちんと誠意をもって接してやれば、ご神意に沿う結果になりましょう」


 そのお声は憔悴しきっており、涙で枯れてしまっていた。神々もテテュスに同情されて、献杯を手配してもてなされたり、御身体に障らぬようにと暗色のひざ掛けをおかけになったり、色々と配慮なされた。しかし、息子の死が近いと知っておられる女神の心が晴れることなどありはせず、ゼウスのご神意にお答えになると、すぐに尽きぬ涙を大地にお零しになった。


「イーリス。プリアモスに、相応の宝を持ってアキレウスを訊ね、ヘクトールの遺体を交換せよと伝えてこい。ヘルメイス。夜道は心細かろうから、プリアモスについて行ってやりなさい」


「プリアモス王の御気持ちお察しいたします。私も、死すべき御子を授かったのですから」


 テテュスは悲嘆して枯れた声でこのようにおっしゃると、膝の上に臥せってお嘆きになった。人都を守る主神(ソシポリス)ゼウスも心を揺るがされ、麗しい女神を宥めておっしゃった。


「テテュス、惨いことを言うようだが、お前の息子を説得してやってくれぬか。儂はアキレウスのことを信頼してはいるが、色々の宝物ごときで、まさか親愛なる友を失くした悲しみが消えることはあるまい。怒りに任せてプリアモスまで殺めることの無いように、息子を支えてやってくれ。もちろん、アキレウスの名誉については安心して良いぞ。あのイーリスがプリアモスに伝えてくれるのだからな」


 悲しみに沈む母は神意を酌まれて席をお立ちになると、力なく分厚い山肌を踏みしめて、アカイア勢の陣屋へと降って行かれた。


 かくして、神々は、ヘクトールの遺体を弔うために、それぞれ御動きになったのであった。


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