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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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報復と応酬

 アカイア勢への応戦の最中、アキレウスの鬨の声がパリスの耳に届く。両陣営とも戦いの手を止め、パリスは瞳を揺らして呆然と立ち尽くした。


「兄さんが・・・?」


 イリオンの兵士達が平野に視線を送る。胸に槍を突き立てられ、力なく項垂れるヘクトールが、大地に倒れ伏し、アキレウスに足蹴にされている。誇らしげな佇まいのアキレウスのもとに、嫌味な笑顔を浮かべたアカイア勢が続々と押し寄せてくる。

 パリスは我に返り、防壁から身を乗り出すと、兄の名を叫んだ。


「ヘクトール兄さん!ヘクトール兄さん!」


 アカイア勢が続々とヘクトールを取り囲み、アキレウスは槍を引き抜く。ほくそ笑むアカイア勢に対して、アキレウスは槍を手渡した。


「さぁ、この男の罪深い行いに、パトロクロスやお前たちアカイア勢の勇士らを討った世にも恐ろしい所業の数々に、存分に灸をすえてやるがいい」


 アキレウスの手ずから最も手頃な槍を受け取ったアカイア勢は、ヘクトールの脚に、槍を突き刺す。その槍はアカイア勢の手から手へと次々と渡っていき、腿に、腕に肩に、額に、顎に、頸に、腹に、背中に、耳朶に、頭蓋に、次々にヘクトールに突き立てられる。激しい砂嵐が起こり、砂塵が防壁からの視界を霞ませる中、パリスは甲高く悲痛な声で喚き立てた。


「うわぁぁぁ!やめろ、やめろ、やめろ!兄さん!兄さん!」


 激しい憤怒に打ち震え、歩哨路を飛び降りたパリスは、乱暴に分厚い門扉を叩き、取っ手に手を掛ける。武器は弓と矢のみで、楯も無ければ槍もない。遠視射る君アポローンは、今にも門扉を開かんとするパリスの襟首を引っ張り、激しく諫めておっしゃる。


「アキレウスとアカイア勢に単身突撃するなど言語道断だ。お前はイリオン人の中でも最も弱いと言って差し支えない男だぞ。少しは冷静になってはどうだ」


「だって、ヘクトール兄さんが!アポローン様、どうして助けて下さらなかったのです!どうして、ずっと護って下さったのに!もう兄さんは用済みというのですか?兄さんは、イリオンの希望で・・・僕の大事な家族なんだぞ!」


 一匙の涙も持たぬアポローンは、自分の胸に爪を突き立てて暴れるパリスに、その心の赴くままに身を預けておられた。それは当の御柱にとっては不思議な感覚であって、胸が軋むような痛みを感じておられた。目頭が自然と熱くなったが、ただ、それだけであった。


「パリス。アキレウスが憎いか?」

「何を、当たり前のことを言うのですか?」


 パリスはその場に泣き崩れ、アポローンの爪先に涙を零す。美貌神にも見紛うパリスであったが、崩れた表情はさながら猿のよう。パリスの言葉を受け取ると、アポローンは一つ頷き、踵を返してオリュンポスへとお登りになった。


 さて、何も嘆き悲しんだのはパリスばかりではない。我が子を失くした両親の深い悲しみは、どれ程深いものであろうか。防壁の内で怯えていたヘカベーは、ヘクトールが討ち取られ、砂塵に塗れて辱めを受ける様を見て、髪を掻き毟って金切り声を上げる。

 さらに、老王プリアモスは、絶望に打ちひしがれて膝をつき、呆然と嘆いたのち、意を決し、歩哨路から降りていく。


 パリスと異なり、兵士に阻まれたプリアモスは、しかし悲しみに打ち震えながらも、兵士を諭して言う。


「お前たちの気遣いは嬉しい。しかし、私は倅の遺体を引き取らなければ、我慢がならぬ。イリオンの誰もが全幅の信頼を置いた、英雄ヘクトールは、人の子プリアモスの愛する子なのだ。この手で弔ってやりたいのだ」


 さらに、ヘカベーが嘆息をしながら言う。


「ああ、ヘクトール!私は惨めな母となってしまった!私の自慢の子、愛する我が子が、このように死んでしまうなんて!!せめてその顔をもう一度見せて、お別れを言わせてちょうだい・・・!」


 この時、三脚釜に満杯の湯を汲み、白い湯気立つ風呂を覗いたアンドロマケーは、その出来栄えに喜んでいた。その手には赤紫色に染め上げられ、見事な花の刺繍を施した服地が握られている。これはアンドロマケーの手による刺繍で、愛らしい花弁が見事な布地に華やぎを添えた。

 しかし、ヘカベーの嘆きの声は、城山の、高き宮殿にまで響き渡った。パリスの嘆く声を耳にし、アンドロマケーは胸のざわつきを抑えられずに飛び出した。素足のまま、冷たくとがった石のある街路を降る。女中らが彼女を慌てて追いかけ、遥かなイリオンの丘を降り、防壁の隅に立つ櫓を登った。


 その時、アキレウスは、神馬に牽かれる戦車に飛び乗って、ヘクトールの首を高らかと掲げて、その遺体を戦車に結わえて牽きながら走る。遺体は鋤のように体を砂塵に預けている。その様を一目見れば、アンドロマケーの胸は張り裂けんばかりの悲しみに襲われ、着飾った額の輪や髪留めや、ヘクトールとの婚礼の、思い出が詰まった結納品のヴェールを投げ捨てた。

 そして、女中らに支えられたものの、櫓の壁上で崩れ落ち、とめどなく溢れ出る涙で裾を濡らしながら言う。


「あなた!私を置いてどうして先に行ってしまうの・・・?もう、スカマンドリオスは、あなたの逞しい腕に抱かれて、抱き上げられたり、手遊びで喜んだりすることができないの。私を寡婦にしてしまって、あなたの子、皆の中でアステュアナクスと呼び親しまれたあの子が、今度は孤児として、異邦人の、両親もある幸福な子らに罵倒されつつ惨めに暮らすことになるのでしょう。こんなことになるならば、大切な夫を失うのであれば、私はいっそ生まれて来なければよかった!」


 このように嘆き悲しむアンドロマケーを、女中らはなんとか慰めようとするが、彼女達もヘクトールから受けた恩が忘れられずに、結局彼女と共に泣き崩れてしまう。

 女たちの嘆きの声は、遠い戦場にまで響き、戦車に括り付けられてアキレウスに運ばれていくヘクトールの亡骸を送り出してしまった。


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