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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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兜輝くヘクトール

 アキレウスが獅子の如く追い、ヘクトールが窮鼠の如く逃れる間に、パラス・アテーナーは百総もあるアイギスを胸に当て、アキレウスの前にお降りになった。そして、浮ついたご様子で、アキレウスの耳元に語り掛けておっしゃる。


「アキレウス、鬼ごっこは終わらせてしまいなさい。ヘクトールの運命は、もはやアポローンにも覆せはせぬ」


 これを聞き、アキレウスは喜んで歩速を緩めた。続けて、パラス・アテーナーはヘクトールのもとへ行かれ、その瞼を(そそのか)してしまわれた。

 たちまち、ヘクトールの前には、デーイポボスの姿が現れる。デーイポボスは兄を呼び止めると、自慢の力こぶをヘクトールに晒して語り掛ける。


「兄君、俺が来たからには、簡単にアキレウスに勝たせはしません。槍をたくさんお運びしました。どうですか、ここで雌雄を決するというのは」


 ヘクトールがアキレウスの方を見れば、アキレウスは汗を拭い、とねりこの槍によりかかって立ち止まっていた。彼の従者は二人の俊足について来ることができず、完全に逸れているように、ヘクトールの瞼には見えた。


「デーイポボスよ、来てくれたのだな。お前を危ない目に遭わせたくはなかったが・・・」

「水臭いですよ。父君に母君、それに戦友たちも俺を引き止めてくれましたが、兄君のこととあっては、俺の命も同然。幼い頃からともに助け合ってきたではないですか」


 このように、デーイポボスのように見える者が言うと、ヘクトールは胸を熱くして、心に勇気が湧きたつのを感じた。そして、アキレウスを睨んで声を上げる。


「逃げるのはやめだ!兄弟でお前を迎え撃とうと思う!」

「正々堂々と勝負する気になったか。お前なぞ、槍の一投で殺めてやろう」


 アキレウスとヘクトールは距離を詰める。互いに拳を交わし合い、奮い立つ心に任せて決闘の契りを交わさんとする。


「神々がご覧になっているのだから、互いに辱め合うのはやめよう。いずれかが敗れ死した後にも、それぞれが故郷の者たちに弔われるように、見事な戦利品と引き換えに、遺体を返すことを誓おうではないか」


 これは、ヘカベーのことを慮ってのことでもあったが、ヘクトールの瞼には、その隣にデーイポボスがいる。兄弟は自信満々に、アキレウスの装具をイリオンに持ち帰ろうと胸を高鳴らせた。

 しかし、アキレウスは、訳知り顔でヘクトールと、並び立つデーイポボスを睨んで言う。


「誓いだと?馬鹿にするな。戦友たちが貴様の槍の餌食になったのだ。私とお前は水と油、いがみ合い憎しみ合い、全力で相手を屠るだけの仇敵だよ」


「・・・寂しいな。私はあなたの強さを良く知っているが、あなたは私のことを山羊ほども大事には扱ってくれぬのだ」


 ヘクトールとアキレウスは、互いに距離を取り、槍を大地に突き立てて睨みあう。一陣の風がアキレウスの背からヘクトールの腹へと流れていくと、アキレウスはさっと槍を掴み上げ、ヘクトールめがけてこれを投じた。輝く兜のヘクトールは、身を翻してこれを躱し、お返しとばかりに槍を投じる。


「アキレウス、口先ばかりであったのか?私が力を籠めて投じる槍は、果たしてお前に届くだろうか。そうすれば、イリオンの戦友たちはきっと喜ぶだろう!私達にとっては、お前ほど恐ろしい者も他には居ないからな!」

「神がいずれの槍を助けるか、今に分かることだろうよ」


 アキレウスはこう答え、ヘファイストスの手なる見事な楯で迎え撃った。槍は盾を貫くことは出来ず、天地空遍く世界が描かれたその盾に跳ね除けられる。


 さながら、世界がヘクトールの命を拒んでいるが如くに。


「デーイポボス!槍の準備は・・・」


 勇気爛々としたヘクトールは、次の槍を手に取ろうと、後ろを振り返った。しかし、白い盾を持つデーイポボスの姿はなく、手に取るべき槍の姿もない。動揺したヘクトールがアキレウスの方を向き直ると、アキレウスの背後には、百総持つアイギスを抱く、戦女神の姿があった。


 先ほどアキレウスが投じたとねりこの槍を持つ女神は、口の端で微笑まれると、ヘクトールは自らの命運を悟った。


「ヘレノスの予言は真実であったか。狡知のゼウスが運命を変えて下さったとばかり思っていたが、デーイポボスは幻であったのか」


「残念だったな、ヘクトール。お前を助けてくれる勇気ある者はイリオンにはいなかった。どれも役立たずの臆病者だった。そんな都を守ってどうなる?所詮お前は、神にも人にも利用されただけの憐れな男だよ」


 アキレウスが嘲笑を込めて言う。その声は、吹雪届けるオデュッセウスの唇よりも冷たく、また、瞋恚に狂うアガメムノンの唇よりもはるかに悍ましい。絶望に打ちひしがれたかに見えたヘクトールが、背負った剣を引き抜いた。


「それでも、私は守るよ」

「何故に、そんなに強情なのだ。お前を助けてくれない屑どもを庇う意味などないだろう」

「助けてくれない?お前は馬鹿だな、アキレウス」


 アキレウスもアテーナーも、意味を解しかねて片眉を持ち上げる。怯え切ったヘクトールはカタカタと鎧を揺らし、手に持つ剣の柄は汗ですっかり濡れている。顎を伝い滴る汗が、海の味がする恐怖の涙と合わさって、遥かな大地に滴り落ちていく。


 それでも、ヘクトールは武器を構えた。その目は、数多の槍を脇に置き、アテーナーが助けるアキレウスを兜の下からぐっと睨み上げる。


「アキレウス、先に言ったが、私はお前が怖いよ。アイアースにも勝ったためしがない。怖いよ。この剣と全身の震えを見れば一目瞭然。ヘクトール一人では、お前どころか、アカイア勢の名だたる強者誰一人さえ、討ち取る前に逃げおおせていただろう」


 これは真摯な言葉であった。ヘクトールの装具は震えあがる身体に合わせて金具をぶつけ合って音を立て、滅びの運命を恐れているのだから。


「ところがどうだ?私は今お前の前に立っている。眼裏にいるデーイポボスが勇気をくれたからだ。アイアースを何度も退けた。グラウコスにアイネイアースが助けてくれたからだ。パトロクロスを討てたのは、エウポルボスの武勇のお陰。そして、オデュッセウスにディオメーデスを退けたのは、正確に矢を射かけたパリスのお陰だ。そして、こんな私に、イリオンを守る理由をくれたのは、アンドロマケーとスカマンドリオスだ」


 助けてきたとばかり思っていた。その全てが、男の背中を押す。


「今、死の運命(さだめ)が来たというこの時になって分かるのだ。私の背中には多くの人々の助けがあったのだと。助ける甲斐のない不名誉な死に様など見せたくはない。イリオンの第一王子の名を背負って、後世にまでその国の名を、栄華を語り継ぐ者として華々しく散ろう」


 アキレウスは、ヘクトールの立ち姿に、戦友パトロクロスの影を見た。しかし、アテーナーが咄嗟に暗い靄を心に掛け、アキレウスの心を覆い隠してしまわれる。胸のざわつきに表情を曇らせつつも、アキレウスはその手で槍を取り上げて、ヘクトールの兜めがけて言葉と共に投じた。


「だが、結局、お前の戦友たちは、誰もここに来てはくれなかった!プリアモスもヘカベーも、お前の身を案じていると言いながら、どうせここに送り出したではないか。ヘクトール、憐れな身の上を取り繕おうと足掻いても無駄だ。お前がイリオンを守ることも無駄で、運命は定められていて、そしてお前は今ここで私に討たれる。一人でな」


 槍はヘクトールの兜に当たったが、途中で風を受けたため、それは穂先ではなく柄であった。アキレウスはアテーナーが槍をお運びになるよりもなお早く、一心不乱にヘクトールに槍を投じる。アキレウスの兜に立つ、黄金の馬毛が揺さぶられて乱れる。燃え盛るような胸当ては、アキレウスにぴたりと寄り添い、苛烈な瞋恚で上がった体温を伝えてアキレウスの身を焼いた。見事な錫の脛当ては、攻め来る敵の攻撃から身を躱すことを阻み、大地に足を釘付けにする。世界を描く盾はアキレウスの腕に縋り付き、重石となって圧し掛かった。


「試してみようじゃないか、アキレウス。私の名が、後世に残るのか否か」


 アキレウスの言葉を跳ね返すように、ヘクトールは荒々しく英雄に飛び掛かった。

 ヘクトールは鋭い剣を振り上げて、アキレウスの兜を割らんとする。アキレウスの手元には槍がただ一つ。パラス・アテーナーが苛立ちながら槍を拾っている。足速き英雄アキレウスは、ヘクトールの兜と胸当ての間、胸と頸、顎との隙間、喉笛に槍を突きたてた。


 一陣の風が吹く。高い高い空に向けて、ヘクトールの顔が持ち上がった。槍は喉から引き抜かれ、どくどくと血が流れ落ちる。


「試すまでもない。お前はパトロクロスを討って得意になった、馬鹿で愚かな男だよ」


「どうだろうな・・・。誓いを受け取ってくれると助かる、とだけ・・・」


「誰がするか。これはお前の罪に対する罰だ。犬どものもとに放り込んで、食い散らされたその肉片が汚く腐乱しながら朽ちていったその後に、見るに堪えない姿のお前を数多の黄金と共に交換せよと言っても応じるつもりはない。お前は一人孤独に死んでいくのだよ。どうせ滅びゆくイリオンのために、多くの無駄な命を枯らした、愚かで罪深い男としてな」


「アキレウスは、何を背負って、生きるのだ?神々に見放されて死ぬときが来る、憐れな男になるなよ・・・」


 この言葉を最期に、ヘクトールの魂は肉体から零れ落ち、アイデスの館へと降っていく。アキレウスは、命無き亡骸となったヘクトールを、乱暴に地面に落とし、血染めの穂先を大地に向けながら、悲しげな声で零した。


「神がその時を告げたならば、お前のように意地汚く抗う事などしない。私は運命と共に散ろう」


 アキレウスはヘクトールの胸に槍を突きたてると、声高らかに勝利の鬨を上げた。


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