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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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ゼウスの裁定

 逃げるアポローンと追うアキレウスは、城壁からはるか遠くにまで離れていった。そのうちに、アキレウスはアゲノルに中々追いつかぬことに違和感を抱き、怪訝な顔で追う速度を緩めた。すると、これを察したアポローンは、ぴたりと足をお止めになって、お顔を覆うアゲノルの似姿を取り払ってしまわれた。


「今まで気づかなかったか、アキレウスよ。なぜ私を追ったのだ?」

「斜に構えた君アポローンよ、私を騙したのですか。全くあなたは酷い御方だ。こうして注意を逸らし、私を城壁からはるか彼方までお導きになるとは」


 アキレウスは怒りに任せてアポローンを諫めると、アポローンは眉目を一つも揺るがさずに、冷徹な眼差しでアキレウスを睥睨なされた。アキレウスは長い髪をかき乱し、「くそっ!」と激しく天に吐き捨てると、早速踵を返してイリオンの城壁へと急いで駆けてゆく。


 荒々しく猛りながら、城壁に迫るアキレウス。では、アキレウスに追われたイリオン勢はどのようであったのか。


 イリオン勢は城壁の中へと逃れ、喉の渇きを癒し、反撃の支度を整える。汲みだした井戸水は瞬く間に飲み干され、兵士達の荒い呼吸はただならぬ相手の到来を想起させ、町の娘子達も震え上がった。


 戦線から素早く離脱し、後衛の兵士と共に城門を潜ったパリスは、老王プリアモスの子らを父王の元に集めて父を慰めようと、門を潜った兵士達の中に飛び込んで家族の顔を探す。プリアモスには元々多くの子があったが、負傷したヘレノスとデーイポボスを除き、そのほとんどを見つけることができないでいた。


 焦燥極まったパリスは、門の外まで響くほどの大音声でその名を叫ぶ。


「ヘクトール兄さん!リュカオーン!ポリュドロス!」

「パリスか、無事だったか!」


 城門のすぐ入り口に、ヘクトールの姿があった。安堵に胸を撫で下ろしたパリスが近づくものの、その他の子らの姿は見られなかった。パリスは両の手で自らの肩を摩り、凍えるように身震いする。

 その様子を見て、ヘクトールはパリスの背中を摩り、優しげな声で労って言う。


「よく頑張ったな。兄はまた会えて嬉しいぞ」


 兵士達が心身を整えて、ようやく気落ちした心を取り戻す頃、歩哨路に登っていた老プリアモスが、遠くから迫り来る砂埃を目の当たりにした。

 それは鈍色に輝く装具を身に纏う、まさしくイリオンの滅びの化身。半神にして女神テテュスと英雄ペーレウスの御子であり、怒りに任せてなりふり構わずプリアモスの子らを殺す、タナトスの剣。足速きアキレウスその人であった。


「シリウスが迫ってくる・・・!」


 老プリアモスが狼狽え、輝く装具のアキレウスから距離を取ろうと歩哨路を降っていく。パリスとヘクトールを見つけると、父は勇敢な長子に縋り付いて願う。


「どうか行かないでおくれ、ヘクトール!アキレウスは草木枯らす猛暑の星、シリウスの如く迫ってきている。見れば頼れるリュカオーンも、ポリュドロスの姿もないではないか。お前は私の希望だ、ヘクトール。アキレウスに挑むなどと言ってくれるな。倅が次々と死んでいき、デーイポボスもヘレノスも傷つき、行方知れずの子らはアイデスの館にあるのか、アカイア勢の手元にあるのかも分からない。もうアカイア人のために家族を失いたくはないのだ。ヘラクレスの時のようにはなって欲しくはない。町の子供も娘たちも、お前が生きているならば、まだ滅びの運命から逃れる術はあると、幾らか心を慰めることができるだろう。どうか頼む、ここに残っておくれ、大切な倅よ!」


「父君・・・」


 父の懇願は息子たちの心を捕らえた。言葉を失くして押し黙るパリスの隣で、ヘクトールは黙って首を横に振った。人の子老プリアモスは、戦士が命乞いをするときのようにヘクトールの脚に取り縋って涙を流す。


「この老いぼれが!どうしてぼけもせずしっかりと意識を保っておるのか!?倅の死に目を見続けることに耐えろなどと、神は何と惨いことをなさる!?ヘクトールが私の言う事を聞かぬなら、すぐにでもこの白髪を毟り取って、心を失くした痴呆者となってしまいたい!」


 このように取り乱し、髪を掻き毟る老王プリアモスの姿は、ヘクトールの心を変えるには至らなかった。頑なな意思で戦友たちを守ろうとするヘクトールは、やはり、静かに首を横に振るばかりであった。

 そこに、ヘクトールの母、ヘカベーは、涙ながらに現れて、自らの胸を抱き示して諭す。


「ヘクトール。あなたはね、このヘカベーの腹を痛めて産まれ、このヘカベーの乳を飲んで育ったのですよ。抗戦を止めることは出来ぬというならば、せめてもう一度私の胸に抱かせて、弔わせておくれ。城壁の外で討たれれば、私はあなたを弔うことすらできなくなってしまうのですよ」


 母の言葉に胸を打たれつつも、ヘクトールは父母の手を取った。


「それでも、行かなければなりません。私か、私に並ぶ者のうちの誰かのいずれかが。アキレウスの足止めを出来るのは、もうそれしかないのです」


 ヘクトールは、兜を輝かせ、父母の手の温もりを感じ取る。凄まじい砂埃は、もう目前にまで迫っていた。

 親子は抱き合い、冷たい胸当てと温いキトンを重ね合う。そして、ヘクトールは、マントを翻して、戦場に向かって歩き出した。


「ヘクトール兄さん・・・」

「アレクサンドロス、背中は預けたぞ」


 ヘクトールは振り向きざまにこう言うと、兵士をかき分けて「門を開け!」と怒号を発する。イリオンの勇士に否やはなく、重厚な門扉を開け放つ。輝く兜のヘクトールは、マントを翻し、一目散に駆けだした。それに続いて門扉を開け放った兵士が防壁から踏み出さんとするのを、ヘクトールは激しく叱責して言う。


「来るな!お前たちは、イリオンを守れ」


 パリスは涙を拭い、歩哨路の上へと駆け上がる。これに続いて兵士達が、弓を持ち、石を持ち、ありったけの武器を手に手に取って歩哨路へと駆け上がった。


「ヘクトールッ!」

「アキレウスッ!」


 互いの怒号が重なり合い、戦場に響き渡る。ヘクトールは門扉の前に立ち、楯を前に槍を構える。対してアキレウスは肩の高さで槍を振り回し、憤怒に任せて駆けつける。

 互いに見誤らぬ距離まで近づくと、ヘクトールは突然、防壁の周りをぐるぐると周回し始める。アキレウスが槍を放てば、槍は虚しく神々の手なる防壁を突き、カラカラと音を立てて大地に落ちる。


「アキレウスを狙い打て!」


 パリスの言葉であった。

 イリオン人の誰もが聞いたことのない繊細な男の大音声を合図に、防壁から矢の嵐が降り注ぐ。しかし、雄々しい馬毛戴く兜も、煌めく錫の脛当ても、5層の盾を射抜くことも敵わない。アキレウスの歩みを僅かに遅らせることしか出来ない。


 パリス決死の策も、アキレウスの力には遠く及ばない。パリスは唇を噛み締めて、涙ぐむままにただ矢を射かけた。アキレウスは構わずにヘクトールを追う。これほどの妨害があってなお、ヘクトールよりわずかに足の速い男である。彼は額に青筋を浮かばせて、美々しい顔を歪めて叫ぶ。


「逃げるな!卑怯者!」


 ヘクトールはなおも走る。アキレウスを攪乱しようと、狭い監視所を通ってあらん限りの荷物で道を阻み、かつてリュカオーンが捕らえられた野無花果の木々の間をジグザグに進んでアキレウスの動きを遅らせた。なおも迫るアキレウスを防壁から引き離そうと、商い人が馬の蹄で踏み固める道を駆け抜け、スカマンドロス河の源流である二つの泉にまで至った。泉にはイリオンの女どもがおり、彼女らは器量よく洗濯をしていたのだが、アキレウスはこの時は女に目移りせず、女を蹴飛ばしてヘクトールを追う。戦友の仇を討つ、アキレウスの尋常ならざる執念の証である。


 ヘクトールは防壁付近まで戻ってくると、ちょうどその時に、パリスと兵士達が矢の調達を終えたところであった。見事時間を稼いだヘクトールが、防壁の周りを再び一周し始めると、牡牛のようなアキレウスが防壁の前に現れる。パリスは再び狙いを定め、弓矢構えるイリオンの兵士達に大音声を上げて叫んだ。


「射て!ありったけ射て!」


 パリスの掛け声は天にまで届き、降り注ぐ矢の雨はアカイア勢の腕を、脚を、首を、兜を射抜いた。しかしアキレウスには全く無力で、パリスは、今度は防壁を囲まんとするアカイア勢のために、弓弦を引くことを迫られた。


「僕では駄目だ、兄さん・・・!」


 パリスはぼやける視界はそのままに、アカイア勢に矢を放つ。並び立つ盾はパリスの矢を弾いたが、別の矢がはみ出した腿を射抜く。戦列が内側から崩れると、すかさず穴の開いた戦列を補って、徐々に詰めていく。長大な敵の列は、それまでにも増して途方もない数に思われた。


 そして、ヘクトールは、パリスがアカイア勢への攻勢に転じるや否や、再度アキレウスを防壁から引き離す。先程と同じように監視所、野無花果の園、二つの泉などを抜け、これを三度も繰り返した。

 アキレウスも、ヘクトールの陽動にしびれを切らし、一気に町沿いにまで近づくと、ヘクトールが防壁へ近づき仲間たちの援護射撃に期待することができぬように、平野へと追い立てるようになる。仇敵が遂に策を見抜いたとみるや、輝く兜のヘクトールは、照り付ける陽射しの下へと逃れて行き、天見晴るかすゼウスの鷲が飛び交うのを追った。


 その様子を、娘を抱きながらご覧になっていた狡知のクロノスの御子ゼウスは、ヘクトールに憐みを抱きつつ、嘆息をしておっしゃる。


「ああ、儂が目にかけていた男が、今まさにアキレウスに討たれんとしている。しかし、ヘクトールは儂に牛の腿も、見事な装備も捧げてくれたものだ。さて、救ってやりたいところではあるが」


「お好きになさっては?私は大いに反対致しますが」


 アテーナーが呆れながらおっしゃった。ヘーラーが怒りで大地を揺るがさんとするまでの刹那の内に、ゼウスは慌てて取り繕っておっしゃった。


「そう言うな。愛娘を無碍にはせん」

「私はヘクトールを助けたい!」


 ゼウスの膝に取り縋るアルテミスに、娘愛ずる父は猫なで声で諭されて曰く、


「そうだな。これは困った、困ったぞ」


 ゼウスは思案の末、黄金の秤を取り、御広げになった。そして、ヘルメイスに神意を伝えておっしゃる。


「ヘルメイス。アキレウスの死とヘクトールの死の魂を持ってこい」

「ただいまお持ちします」


 ヘルメイスは有翼のサンダルを足に結わえると、すぐさまアキレウスとヘクトールの死すべき魂をお運びになる。これを受け取った狡知のクロノスの御子は、それぞれを秤の上に乗せ、その重さを比較なさった。


 すると、ヘクトールの魂は先に大地へと近づき、即ちアイデスの館の門へと近づいていったのであるが、未だ健壮のアキレウスの魂は死の嘆きが未だ遠く、軽々と秤が天に近づいていったのである。これは、死の運命近きヘクトールの魂が、アイデスに捧げられるに足ることを暗に示していた。


 ここに、ヘクトールに関する最期の神意が決せられた。パラス・アテーナーは喜び勇んでアキレウスのもとへと降って行かれ、助産する君(オルシロキア)アルテミスはゼウスの膝に取り縋ってお嘆きになった。

 静かにその様子を眺めておられた輝ける君アポローンは、顔を擡げ、音もなくオリュンポスの御座を降って行かれる。最早いかにゼウスの膝に縋ろうとも、ヘクトールの死は決定的となったのである。


「ならば、この目に死に様を焼きつけようではないか」


 アポローンは悲壮な覚悟を抱かれて、イリオンの防壁へと向かって行かれた。


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