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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
61/99

瞬く滅びのシリウスよ

 濃い霧が周囲に立ちこめている。遁走するトロイア勢の兵士達は、スカマンドロス川に足を滑らせ、渦巻く川の中で悶えている。


 彼らの後ろには死そのもの、アカイア勢の猛将アキレウスが迫っている。神馬を駆り迫り来るアキレウスから逃れようと、互いの頭を掴み川から這い上がろうと試みる。みるみるうちに迫るアキレウスの戦車に注意を向けながら、ついに這い上がったトロイアの戦士の脇腹を、鋭い槍が貫いた。


 憐れ、逃れた戦士は川の中に沈み、渦巻く川の流れに任せて流されていく。魂はアイデスの元へ送られ、肉体だけが肉を食む魚を喜ばせた。

 こうして、アキレウスは這い出した兵士を続々と突き殺していく。川縁には腸がひり出され、無惨に大地に零れ落ちている。


 牛眼のヘーラーはその様をご覧になってお喜びになり、益々濃い霧で川沿いを覆われた。

 視界が狭まる恐怖の中で、アキレウスは見知った男が川から這い出すのを目にした。男は、装具の一切も脱ぎ捨てて、川から逃れるためだけに身一つとなっていた。無防備なその様は、無花果園で目にした男によく似ていた。


「貴様、プリアモスの子リュカオーンか。奴隷として売り渡された身で、何故こんな所におるのだ」


 アキレウスの凄まじい声を聞くなり、リュカオーンは、身をびくつかせ怯える。恐ろしい剣幕で迫るアキレウスに、しかし、リュカオーンは膝に取り縋った。


「奴隷として売られた後、さらに売り飛ばされ、金を払って何とかイリオンに逃れてきたのです。神に愛された子アキレウスよ、どうかわたしを見逃しておくれ。私はヘクトールとは腹違いの子で、同じ血が流れた者ではないのだよ」


 このように必死に取り縋ったが、アキレウスはリュカオーンを蹴飛ばし、額に青筋を立てて怒鳴り散らした。


「お前の生い立ちなど興味がない!プリアモスの子であるだけで、殺すには十分だ!パトロクロスでさえ、私でさえ死ぬのだぞ!最早お前如きに情などあろうものか!」


 猛り狂う声は天高く響き、濃い霧を取り払ってしまう。アキレウスの悍ましい剣幕を目の当たりにしたリュカオーンは、恐怖のあまりに尻もちをつき、すぐにでも逃げようと這い出した。

 しかし、俊足のアキレウスから逃れることなどできはしない。一突きで胸を貫かれ、灰から空気が全てもれだすと、その場に倒れ伏した。


 アキレウスの凄まじい攻勢に、川は真っ赤な血で満たされ、澄んだ水は赤黒く染められた。陽の光も当たらぬほど血の色に覆われると、見かねたスカマンドロス河の河神が、アキレウスを追い返そうとお考えになった。


 河神クサントスが思案されるうちに、アキレウスは川の中にあったペレゴンの子、アステロバイオスに襲い掛かる。咄嗟にクサントスはアステロバイオスに勇気を吹き込まれ、アキレウスに立ち向かわせた。二本の槍を器用に使うアステロバイオスは、これをアキレウス目掛けて投げ放つ。一方は世界を描く盾に阻まれ、一方はアキレウスの腕を掠めた。アキレウスはとねりこの槍を投げ放つが、これは狙いを外れ、対岸に深く突き刺さった。

 間髪入れず、アキレウスは剣を引き抜くと、その俊足に任せてアステロバイオスに襲い掛かる。アステロバイオスは川の中で溺れる戦士の腕から槍を奪い取ったが、アキレウスの剣捌きに対抗できず、無惨にも臍を貫かれた。その目が暗闇に覆われ、耳が水音の中に沈みゆくうちに、アキレウスは死にゆくアステロバイオスにこう吐き捨てた。


「河神クサントスの加護は見事だが、私の祖父はゼウスの子。生まれの違いがありすぎるだろうよ」


 この言葉をお聞きになったのは、アステロバイオスだけではない。クサントスは強い憤りを抱かれて、川中の渦巻く水流を益々激しくさせた。苦しむトロイア兵が激しく流され、それらに当てられてアキレウスも水流に飲まれ始める。アキレウスはスカマンドロス河から逃れようと岸辺を目指したが、クサントスは逃すまいと威勢凄まじく、黒々とした高波でアキレウスを押し戻そうとされる。流石のアキレウスも神の力には敵わず、高波に押し込まれて対岸へ泳ぐことができない。彼はトロイア兵を一人でも多く打ち倒そうとなおも川中へ降ろうと逸っていたが、クサントスの怒りは、無意識にトロイア人を守るために用いられ、存命のトロイア兵の前で大波に襲わせ、凄まじい水流で何度もアキレウスの脚をすくわせた。

 たまらず、アキレウスは喚き声を上げて言う。


「ゼウスよ、どうしてトロイア人を擁護なさるのですか。私はこのまま、河中で力尽きるというのですか!ヘクトールを討ち取る前に!」


 このように叫べば、見かねたポセイダオンとパラス・アテーナーがアキレウスの元に赴き、手を差し伸べておっしゃる。


「アキレウスよ、お前はこのような場所で死ぬ定めではない。ヘクトールを討ち取るまで、私達が力を貸そう」

 さらに、アキレウスが大地を揺るがす君ポセイダオンとパラス・アテーナーの手を取ると、牛眼のヘーラーが悲鳴のような大音声で、我が子を呼び寄せておっしゃる。

「ヘファイストス!スカマンドロス河を干上がらせてしまいなさい!」


 たちまち天から振るい落とされた鍛冶の炎は、スカマンドロス河を包み込み、スカマンドロス河は焦熱の地獄と化した。トロイア人の戦士は熱湯に茹で上がり、悶え苦しむ。河神クサントスでさえ苦しみに耐えかねてヘファイストスに屈する。河川が細く流れも穏やかになると、アキレウスは対岸に飛び退いて、燃え上がる河川が縮まっていくのを眺めた。やがて、炎も収まり、河川も穏やかな水流を取り戻したが、その間、戦場は神々のものとなっていた。


 パラス・アテーナーはアレースと雌雄を争い、激しく槍を交えている。百総のアイギスでアレースの攻撃を躱されたアテーナーは、尖った石をアレースめがけて投げ放たれた。石はアレースの頸を打ち、荒々しい争いの神は大地に突っ伏すと、パラス・アテーナーがその上に足をおかけになっておっしゃるには、


「何度やっても無駄だ。知恵を持たぬお前が私に勝てるはずなかろう」


 倒れ伏したアレースを庇うように、アフロディーテが手をお貸しになって、神々から離れた戦場へと導こうされる。それに目敏くお気づきになった、白い腕の女神ヘーラーは、アイギス持つ女神アテーナーにむけておっしゃった。


「アテーナー、アレースを追いなさい。アフロディーテがアレースを人々の戦場へと導こうと企んでいます」


「しかと承りました」


 戦女神に否やなどあろうはずもなく、アテーナーは天駆ける神馬を駆り、アフロディーテへと迫ってお行きになる。戦車は愛慕の帯でアレースの傷口をお庇いになりながら、人の戦場へ逃れようとなさるアフロディーテにたちまち追いついてしまわれた。アテーナーは槍の一薙ぎでアフロディーテの腕から帯を取り払われ、息もつかせぬ間に槍の柄でアフロディーテの背を激しくお打ちになる。

 アフロディーテはアレースを庇いながら大地に落ちてしまわれた。土に美しい衣も汚されて砂塵の中で突っ伏した。

 アレースともどもアフロディーテを打ったアテーナーは、屈辱の日を思い起こしつつ、勝ち誇ったご様子で、このようにおっしゃった。


「あばずれ女、アフロディーテ。あなたにはその汚れ姿が良くお似合いです」

「お前、調子に乗りやがって!俺の女に・・・」


 アテーナーに怒号を浴びせるアレースの喉を、女神は槍で串刺しになされた。喉から緑の血が溢れ出し、アレースは力なく項垂れてしまわれた。戦女神は神々の女王ヘーラーの元へと、戦車を駆って去って行かれた。


 女神の戦いあらば、男神の戦いもあり。イリオンに因縁ある二人の男神が、砂塵塗れの戦場で向かい合って睨みあっておられた。


「輝ける君アポローン。賢しいお前なら私の言うことが分かるだろう。イリオンの民はあの防壁づくりにも、お前の羊飼いにも手を貸さず、また賃金も支払わなかった。神に対価も支払わぬ愚か者だぞ。なぜお前は彼らに与するのか?胸に手を当てて考えてみよ。納得がいかぬというならば、お前から私に立ち向かってこい。若いお前に先手を譲ってやろう」


 三叉の鉾持つ大地を揺るがす君は、巻き毛の男神を諭すようにおっしゃった。イリオン人の神へ対する不敬に関して、知らぬはずもないアポローンは、しかし遠矢を静かに下ろされ、武器を構える叔父君へ向けて、聡明なお言葉をお返しになった。


「叔父君よ。あの時の労働は我々へ対する罰であったはず。贖うべき罰に対価が与えられるはずもないでしょう。それに、挑めとおっしゃいますが、神が憐れな人如きのために争うことのどれほど愚かなことでしょうか。ましてクロノスの子、狡知のゼウスの御兄弟であらせられるあなたと戦って、果たして私に勝ち目がありましょうか。・・・それが分からぬほど愚かな神ではございません」


 そうおっしゃると、アポローンは踵を返してイリオンの城壁へと戻って行かれる。ポセイダオンは不服そうに顔を顰めて、三叉の鉾を収めてしまうと、アポローンの背をこのように御諫めになった。


「聞き分けのいい男だが、つまらぬ男だな!白カビの君アポローンよ!」


 すると、アポローンと入れ替わるように、迫ってこられたのは、その姉君であらせられるアルテミスであった。アルテミスは、武器を収めてイリオンにお戻りになるアポローンを叱責なされた。


「逃げるのか、卑怯者め!!」


 アルテミスは偉大なポセイダオンの前に躍り出て、勢い凄まじく弓弦を弾かれた。

 ところが、この弓を、牛眼の女神ヘーラーがお取り上げになったのである。左手で両手を拘束し、右手で弓矢をお取り上げになり、その弓でアルテミスの耳を何度も打たれたのだ。神々の女王は嗜虐的に微笑みを零され、レートーとゼウスの御子である、短き御衣の女神に責め苦を与えつつ、煽りながらおっしゃる。


「ゼウスに甘やかされ、女を殺すなり獣を討つなり、何でも好き勝手に許された小娘。貴女は自分より強い御方と争ったこともないのでしょう。ほら、ほら。私から弓矢を奪い返し、それで私を痛めつけてごらんなさい。昔から甘ったれた貴女が気に食わないのですよ。ほら、ほおら」


 このように何度もアルテミスをいたぶり続けるので、流石のアルテミスも涙ながらに身を捩って逃れ、ゼウスの元に逃げ帰って行かれた。

 ヘーラーは奪い取った弓矢を地面に放り、これを足蹴にして踏み躙る。遠ざかる若い女神の御姿が、高い山麓の方へと逃れて行くのを、勝ち誇ったご様子でご覧になった。


 さて、激しい戦いを繰り広げる神々の中にも、実に冷静なご様子の神がいらっしゃった。輝ける君アポローンにも並ぶ、聡明で美しいヘルメイスであった。


 レートーと遭遇されたヘルメイスであったが、何せヘルメイスは世渡り上手の旅の神、おどけてこのようにおっしゃった。


「レートー様、そんなひどい剣幕で睨んでくださいますな。ゼウスの妻でもあらせられるあなたと戦うなど、その後どうなることか。恐ろしくて私には出来ませんよ。それより姉君・・・アルテミスお嬢様の身を案じておられる方が、あなたの魅力が引き立つものかと存じます。娘や息子にお優しいなど、世の男が黙っていられませんからね」


 ヘルメイスはケリュケイオンをお振るいになって、レートーに敵意のないことを示された。これに安堵された双子の母は、娘が落として逃れて行かれた矢を拾い上げながら、ゼウスの待つ屋敷へと戻って行かれた。


 イリオンに与する女神の二柱が、これにてゼウスの元へと追い帰されると、ヘルメイスは取り上げたケリュケイオンを肩に掛けられ、呆れたご様子で山麓をご覧になった。


「やれやれ、面倒な戦になったものですねー。兄君も大層苦労なされるわけだ」


 さて、青銅敷き詰めた輝く屋敷に逃げ込んだアルテミスを見るなり、ゼウスはおろおろとしつつ、愛娘を胸に抱いてお尋ねになった。


「おぉ、アルテミス。一体誰がお前に酷いことをしたのだ。父は可愛いお前の味方だぞ」

「ヘーラーです!お父様の酷い妻ですよ!」

「あの女は相も変わらず迷惑ばかりかけるな。全く愛想の悪い女よ。よしよし、アルテミスよ。暫く父の膝の上で休むがよい。どうやらレートーも戻ってきたようだからな」


 このようにおっしゃると、ゼウスは先妻のレートーとその娘の双方を抱き慰めつつ、凄まじい戦争の狂乱を眺望なされる。狡知のクロノスの御子は、神々の争いから大きく距離を置き、イリオンの城門の前へとお戻りになる斜に構えた君アポローンの御姿を目敏くお見かけになると、微笑を零しつつその様子をご覧になった。


 斜に構えた君アポローンの心は逸っておられた。アキレウスの攻勢が凄まじく、またポセイダオンにヘーラーと、ご自身よりも力ある神々がアカイア勢に与しておられたからである。少しでもイリオン人を城壁の中に匿おうと思慮された末、アゲノルという男に勇気を吹き込んでやりつつ、自らは木陰でアキレウスの動向を探ることにされた。


 神意の趣く通り、はじめスカマンドロス河畔でプリアモスの名によって開かれた城門を目指していたアゲノルは、俊足のアキレウスが凄まじき瞋恚に駆られて迫り来る様に、逃れられぬ命運を悟ると、逃げていくイリオン人の中から翻って、アキレウスの前に立ちふさがって言う。


「アキレウス、イリオンの町を落とさせはしないぞ。お前がどれ程手強くとも、私は故郷を守るだろう」


 アゲノルは均整の取れた盾を前に構え、勢い良く槍を投げ放つ。怒りに任せて攻め来るアキレウスは、砂塵を巻き上げて直進し、アゲノルの槍を脛当てで受け止めた。しかし、錫製の脛当ては傷一つなく槍をいなし、槍はそのまま跳ね返って戦場に突き立てられた。

 アポローンは十分にアキレウスが近づき、アゲノルを標的に捉えたことをお確かめになると、即座にアゲノルを暗い霧の中にお隠しになり、そのままイリオンの城壁の中へと運び込んでいかれた。そして、霧の晴れぬうちにアキレウスの元へとお戻りになると、自らアゲノルの姿を騙って、アキレウスから逃げる素振りを見せる。こうして、アキレウスの注意を逸らしたアポローンは、イリオンの城壁がイリオン人を飲み込み、扉が閉ざされるまで、アキレウスの駿足に合わせてお逃げになった。


 かくして神々の戦いは、アカイア勢の優位のまま進められる。


 ところが、ゼウスは天秤を取り出され、そこにアキレウスとヘクトールの魂をお乗せになったのである。ついに、逃れられぬ運命の時が訪れたのであった。


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