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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
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アキレウスの盾

 神々の凄まじい力が戦場に降るとき、イリオン勢の心は既に萎え切っていた。というのも、戦場にアキレウスが姿を見せていたためだ。もし神々が列をなして、イリオン人に助力を申し出なければ、勝敗は決していただろう。パリスは神々の来訪にいち早く気づくと、先頭に立つアレースに向けて跪き、その兜を戦馬の蹄の前に晒した。アレースは高笑いをお上げになりつつ、パリスを難なく飛び越えられると、アフロディーテをパリスの兜の上にお落としになった。


「ィヒィンッ」


 あらぬお声を上げてパリスの頭に転がり落ちたアフロディーテは、髪を取り乱し、アレースの横暴に憔悴した御様子で、パリスにお疲れの滲んだ微笑みをお向けになった。


「パリス。辛い戦に巻き込みましたね。ですが、今日こそはイリオンに平和を齎すべく力を貸しましょう」


「アフロディーテ様、ありがとうございます」


 パリスの輝くばかりの笑みは、笑み愛ずる女神アフロディーテに安らぎを与え、女神は立ち上がられてお召し物の汚れをお払いになった。


「おぉい!アフロディーテ、怪我はないかぁ!?」

「アレース、エスコートありがとう」


 女を喜ばす君(ギュナイコトイナス)アレースは、落としてしまわれたアフロディーテを丁寧に掬い上げられる。乱暴な挙動にどよめきも起ころうものだが、神々のうち愛によって不貞を働いた二柱は、仲睦まじくも互いの美しい御肌をなぞり合っておられた。


 さて、彼らに続いて降られたのは、短きトーガを身に纏われた、男勝りの処女神アルテミスである。御柱は乳繰り合う二柱を呆れてご覧になりつつ、見事な金の矢を幾つもつがえて戦塵目掛けて撃ち込まれた。すると、たちまちに矢は幾本にも増えてアカイア勢に降り注ぎ、神々の前には雑兵と言って差し支えない(つわもの)どもを射殺していく。その立ち姿の勇ましさは、さながら森を統べる熊のよう。


「アルテミス様!熊のような逞しい御姿で、幼い私を助けて下さりありがとうございました」


 パリスがこのように女神に感謝を伝えれば、アルテミスは僅かに頬を赤らめて、以下のようにおっしゃった。


「熊は丸くてかわいいの・・・」


 アルテミスが小声でお答えになるので、パリスは聞き取れずに首を傾げた。とはいえ、神のつがえた矢の凄まじさは、イリオンの勇士達の勇気を再び奮い立たせた。

 さらに、アルテミスの母、レートーが後からいらっしゃった。女神たちは互いに身を寄せ合い、イリオンの勇士らにその豊満な肉体美を望むままに晒されて、心をさらに昂らせた。

 その後、憂いを帯びた表情のアポローンがお降りになる。神々の立つ場には並ばれず、イリオンの弓兵たちに混ざって前線の様子をご覧になった。ヘクトールも含め誰一人、この髪麗しい男神に気づくことは無かったが、パリスだけは目敏くこれに気づくと、輝ける君アポローンに近づいて、謝意を込めて言う。


「アポローン様。我らをお守りくださり、ありがとうございます」

「理不尽な戦は規律にそぐわないというだけだ。もっとも、私の力では父君ゼウスの神意を覆すことなどできまいが」


 アポローンが銀の矢をつがえて戦塵吹き荒れるアカイア勢のもとに打ち込むと、矢は砂塵のうち、地面の上に落ち、アカイア勢の勇士達は溢れる瘴気に悶え苦しんだ。その様を、輝ける君アポローンは無表情でご覧になり、パリスに一瞥をくれた。


「人の苦しみを取り去る最上の方法はな、死に陥れることだ。生とは、それほどまでに辛く苦しいものだ」


「それでも抗うのが、神々に勝るところなき人間という生き物です」


 パリスはそう答えると、アポローンに恭しく頭を下げて、戦列に混ざっていく。弓持つ神はその姿がイリオン人の中に紛れて消えてしまうと、凄まじい戦塵目掛けて矢を放った。


 神々に礼を尽くした後、ヘクトールは盃の代わりに槍を天に突き上げ、イリオン人に訴えかけて言う。


「さぁ、イリオンの勇士達よ!神々のめでたき加護に報いるために、今こそアカイア勢を退けよう!」


 凄まじい鬨の声と共に、イリオン人の勇士達が、戦塵吹き荒ぶ戦場めがけて一斉に駆け出した。弓を放つ神々がアカイア勢にこれを打ち込まんとすると、大地が揺り動かされ、その狙いは僅かに逸れる。その凄まじい鳴動に、アポローンが動揺しておっしゃる。


「叔父君か」


 神々のうちでもクロノスの御子、狡知のゼウスに並ぶポセイダオンは三叉の鉾を手に持って、ケルピーの牽く戦車を操っておられる。この矛を大地に突き立てれば、たちまちに大地は揺らぎ、不動の岩は脆くも戦場に崩れ落ちる。続いて、金の矢が嵐の如く空から降り注いだが、これを牛眼のヘーラーが睨みを利かし、怒りに任せた怒号を発せば、矢は忽ち女神にひれ伏して、アカイア勢のもとに届かない。イリオン人に混ざって戦列を荒らしまわるアレースも、パラス・アテーナーの強大な楯に阻まれて、苛烈な力を齎すことができない。


 黒衣纏うレートーは足を滑らせ、アカイア勢の視界に暗い靄をかけて回るが、たちまち駿足のヘルメイスがその前を駆け抜け、その風に任せて靄を取り払って行かれた。荒れ狂うスカマンドロス河の神、神の内ではクサントスと呼ばれる君が川を荒立てて氾濫を促すと、脚を引くヘファイストスはそこに火を流し込まれ、氾濫を抑え込んでおられる。


 アカイア勢のついた神々が、強固な守りでイリオン勢についた神々からアカイア勢を守るうちに、戦塵同士がぶつかった。パリスは、靄のかかった視界の中に、アキレウスの姿を見つめる。


 怒り心頭の顔は争い(エリス)の如く恐ろしく、復讐(エリーニュス)にも劣らぬ苛烈さを思わせる。しかし、これらの震えあがるような容姿よりも、パリスの心を奪ったのはその装備であった。


 名工(クリュトテクネス)ヘファイストスの手なるその見事な装具は、まさしく神の御業そのものであった。


 盾には、天地空それぞれが描かれ、円盾を囲んでいる。

 天には全てを見晴るかす太陽が瞬き、満ちた月の周りを星座が巡り、空の全てが描かれた。大海に沈むことのない熊座は、オリオン座の様子を窺っている。


 星々の下には大地がある。

 大地に座する人の町は、二つの顔をしている。即ち半分はめでたき婚礼の顔であり、篝火を携えた新婦の一家と、演奏隊が練り歩く様を、娘たちは喜んで眺め、男達は踊り祝う。この町には理性の表情があり、集会場に集った者たちは殺人者の処分を巡って議論を交わし合う。二分された議論を取り仕切るは、錫杖を持つ長老たちであり、彼らの良心に基づいて、私見を述べることになる。

 また一つは悲しみの町であり、二分する勢力のそれぞれについて争っている。一つは都市を奪うものであり、両軍で財宝を分かち合うのも視野に入れる。今一つは抗する者であり、断固として都市の侵略を拒まんとする。そのために、非情の案を巡らせた。即ち、抗する者達は、城壁の上に女子供と老人を立たせて守らせ、人質のように戦わせる。パラス・アテーナーとアレースが、町を出る出征者らを戦場へと導いていく。彼らは伏兵となって敵を騙し打ち、敵に与する牧人達を襲った。

 これをきっかけに激しい戦いが起こり、川を挟んだ槍投げの戦が始まる。両軍に降り注ぐ槍の雨は、数多の勇士らを地に伏せて、とめどなく溢れる黒い血と、悶え苦しむ人々の姿が描かれる。


 さらに大地には肥えた土地の姿が描かれ、農民が耕し、あるいは牧人が獣を従えて歩く。喜びの日に稲を刈る人々と、この稲を束ねる人とが肥沃な土地に共存し、さらに落ち穂を子供達が拾い集める。また、新嘗祭のために女がパンをこね、男が牛を祭壇にくべる。

 たわわに実ったブドウ園は、その地の恵み深さを如実に示す。陽気な若者たちが収穫を祝って歌うのは、豊作の歌であり、夭折した美少年「リノス」を悼む歌である。

 また、牧人達は家畜の牛を追い立てており、犬たちを激励して後を追う。彼らは危難の中にあり、獅子に出くわして牛を食われているところであった。犬たちは懸命に吠えるが甲斐はなく、時には恐怖に駆られて獅子から逃げている。彼らの行き先には牧場があり、羊たちが草を食みつつ、主人らの帰りを待っている。


 また、楯の世界にあって、地上で最も賑やかしいのは踊り場であり、そこでは若者が楽し気に踊り合っている。オリーブ油を衣装に浸してめかしこんだ娘も、娘たちに逞しさを見せようと短剣を帯びた男も、時に円を囲み、時に列なして手を取り合う様は見るも眩しく、彼らを見守る見物人が集っている。


 さらに、天地を囲む縁には、世界の外側まで続く大海オケアノスが描かれる。鋳出された波打つ海の荒々しさは、ちょうど大地を揺るがすポセイダオンの流れる巻き髪そのもの。

 一つの円の中に世界を包み込んだヘファイストスの傑作は、見る者を圧倒するだけでなく、感動さえ呼び起こすほどであった。この盾を、アキレウスは銀の提げ紐で腕にかけている。


 火炎より瞬く胸当ては、アキレウスの身にぴたりと合う。鍛冶の腕において並ぶ者無き足萎えの神は、さらに錫の脛当てを与えて、アキレウスの身に着ける装具の全ては天上の光の如く戦場を瞬かせた。


 パリスの手がつい止まったのを、アイネイアースが呼び起こす。我に返ったパリスは弓を引き絞ったものの、アキレウスの装備はあまりにも眩く、狙いをつけることができない。彼は諦めて別の勇士の盾に潜り込み、その他のアカイア勢を討たんと奮い立った。


 一方、アキレウスの活躍ぶりを止めるため、アポローンはプリアモスの子リュカオーンにお姿を変え、アイネイアースに発破をかけておっしゃった。


「アイネイアースよ、酒の席で言っていた、アキレウスと対決するまたとない機会ではないか?」


 ところが、アイネイアースは苦笑交じりに答える。


「いやぁ、リュカオーン様。一度山で戦った時に懲りましたよ。あれは神業というほかない。更にはアテーナーのご加護までついているとなっては、とても勝ち目がありませんよ。せめて私に神でもついて下されば・・・」


 このように長々と語るので、アポローンは痺れを切らされて、脅迫まがいの凄まじい剣幕でアイネイアースを睨んでおっしゃる。


「神の加護だと?アイネイアース、聞けばお前はアフロディーテの子だというではないか。ならば十分な加護を与えられておろうが」

「それを言うならばアキレウスも女神テテュスの子でしょう」

「テテュスは海神ポセイダオンの御子、一方でアフロディーテは大神ゼウスの御子であらせられる。つまり位階ではお前の方が上だ。分かったら、アキレウスを退けてこい」


 このように発破をかけ、御柱はアイネイアースの胸に勇気を注ぎこまれた。物怖じするアイネイアースも、神の御業の前には抗えず、槍と盾をしっかと構え、ペーレウスの子アキレウスの元に近づかんとする。

 これを受け、牛眼の女神ヘーラーが、目敏くお気づきになって神々を集めておっしゃった。


「ポセイダオン、アテーナー!アイネイアースがアキレウスのところに行きますよ!すぐにあの子を守って差し上げなさい」


 ヘーラーの言に対して、ポセイダオンは矛の柄で大地を突き揺るがしつつおっしゃる。


「落ち着きなさい、女神ヘーラー。あちらの神はいずれも私達より格下の神だろう。ここは人のために神同士で争うのはやめて、代理戦争で済ませようではないか」


 このようにおっしゃれば、ヘーラーも、力ではゼウスに次ぐポセイダオンに抗することも出来ず、仕方なく応じることとされた。


 ポセイダオンは防壁に背を預け、腕を組んで戦争をご覧になる。ヘーラーも、アテーナーを誘って彼に従った。

 イリオン勢に与される神々も、これに気づいて戦列から離脱し、防壁に身を預けて戦争の成り行きを見守ることとされた。


 さて、双方が互いに楯と槍をぶつけ合う戦場にあって、ペーレウスの子アキレウスの躍進は凄まじく、未だ拮抗状態にある両者の睨み合いの中に躍り出て、嵐のようにイリオン勢の勇士の命を奪い去っていく。

 一方、アイネイアースは一直線にアキレウスの元に急ぎ、嵐呼ぶアキレウスの快進撃を阻まんとする。これに気づいたアキレウスは、犬歯を剥きだしにしてアイネイアースに笑いかけて言う。


「覚えているぞ。アイネイアースだな!その勇気で私を討ち取ろうと逸り、ここまで来たのか。だとしたらその名誉でプリアモス王も認めるだろうよ。もっとも、それでお前が王位につくことなどできない。それでも命狩りとる私の槍に立ち向かうというのだな!無謀な奴は好きだ、山であった時のように逃げ帰ったりはするなよ!」


 こう言って挑発すれば、アイネイアースは汗の滲み出る手で滑る盾を握り直し、陽光に瞬く装具を身に着けるアキレウスに対抗して言う。


「アキレウス殿、子ども扱いして下さるな。言い争いも、あなたのおっしゃるように子供っぽいことだし。私は笑み愛ずる女神アフロディーテの子、父は元を辿ればプリアモス王の血にもつながるアンキーセース。あなたは英雄ペーレウスと、海神の娘テテュスの子。育ちも生まれも良いではないですか。ならば口論ではなくて、武勇で示してみましょうよ。いずれの女神が涙を流すのかを」


「面白い!やってみせろよ、アイネイアース!」


 アイネイアースが先手を取って槍を突きだせば、アキレウスは哄笑しながら軽々と盾でこれを退ける。その際、楯を前に突き出して、身から離している様を、アイネイアースは目敏く見つけ、勝機を見出したのであるが、アキレウスの持つ盾は神の手なるもの、人の手で容易に貫くことなどできようはずはない。

 盾は上層の黄金の層と、青銅の層の二層を貫いたが、足萎えの神は青銅を二層、さらに錫を二層と重ねており、僅かに三層を貫いた程度では、動じることではない。アキレウスは剛腕で五層の盾からアイネイアースの鋭い槍を引き抜き、軽々とこれをアイネイアースに投じる。その速度はすさまじく、狙いは盾の縁、即ち盾の最も脆い位置であった。槍は盾を身から離し、身を守ったアイネイアースの肩を傷つけ、大地に突き刺さる。二層貼りの見事な大盾もアキレウスの前には無力で、その力強さに、アイネイアースは再び山間の戦いの恐怖を思い起こした。


 アキレウスは楽し気に剣を引き抜くと、一気に距離を詰め、アイネイアースに襲い掛かる。対して、アイネイアースは大岩を抱き、これを投げ放とうと試みた。


「そんなものではヘファイストスの装具は砕けんぞ」


 ポセイダオンがこの決戦に勘づかれると、すぐさま二人の間に駆けつける。そして、アキレウスの目に暗い靄を掛け、さらにアイネイアースをイリオン勢の後衛目掛けて放り投げた。訳も分からないままに、アイネイアースは青い空に弧を描いて飛び、出撃の支度をする援軍の中に落ちた。ポセイダオンはアイネイアースを追って彼の落下地点まで駆けつけると、器用にその衣服をお掴みになって、衝撃を和らげて地面におろしてやる。


 大地を揺るがす君は眼を回すアイネイアースの襟首を掴み上げ、彼に忠告をしておっしゃるには、


「アイネイアースよ。アポローンに唆されてアキレウスに挑んだのだろうが、貴様は死ぬ定めになっておらぬ。何も罪なきお前が、人攫いのために犠牲になることは無いのだ。分かったらアキレウスに挑もうなどとは思うな。奴が死ぬまでは、逃げるのが良い」


 このように、アイネイアースに諭されると、ようやくお心も安らぎ、ポセイダオンは戦場から防壁の前までお戻りになった。


 ヘーラーは不服そうにポセイダオンをお迎えになると、男神はきまりも悪そうに女神から視線を逸らされる。視線の先には先程の戦場があり、靄を取り払ったアキレウスがきょろきょろと辺りを見回していた。


「おかしなこともあるものだ。アイネイアースはどこへ行ったのだ?まぁ、いずれ戦うこともあるだろう。奴との戦は実に楽しいからな。それよりは報復を優先するのが神の思し召しというわけだな」


 アキレウスは颯爽と道を戻り、アカイア勢と合流して再びイリオンの兵士を次々に討ち取って回った。


 アキレウスの凄まじい猛攻を見れば、イリオン勢の王族たちも何とかせねばと考えるのが当然のことである。輝く兜のヘクトールも同様で、仲間たちの命を守ろうと、アキレウスが戦う前線に向かって勇んでいくのであったが、これにお気づきになったアポローンが、すぐにヘクトールの元に駆け寄り、諭しておっしゃる。


「ヘクトール、何をしている。散々予言を授けてやったではないか。アキレウスと戦えば死ぬこととなるぞ」


 しかし、これに対してヘクトールは抗って言う。


「いかに高名な神のお言葉といえども、聞き入れることは出来ません。仲間を守れぬ矛に意味などありません。すぐにでもアキレウスの猛攻を阻止せねば、イリオンの勇士達が次々に打ち倒されてしまいます」


「ならぬと命じておろうが」


 アポローンは激しくヘクトールを叱責され、その心に恐怖心を吹き込まれた。たちまちヘクトールは死への恐れからアキレウスを避け、別の仲間を助けるべく、軍勢の中を駆けていく。


 一方、アキレウスはオトリュンテウスの子イピテュオン、アンテノルの子デモレオン、ヒッポダマス、プリアモスの若き王子、俊足のポリュドモスを討ち取った。


 プリュドモスは年若い王子であり、プリアモスの寵愛もパリスに劣らず強かった。自らの駿足を頼みに戦場を駆けて仲間を鼓舞したものの、アキレウスの投じた槍に腹を貫かれ、臓物が溢れ出す。止まらぬ吐血と流血に涙を流しながらも、仲間に負傷を隠さんと腸を自らの腹に収めつつ後退する。瀕死のプリュドモスを目の当たりにしたヘクトールは、アキレウスがパトロクロスを討ち取られた時にしたように、強い憎悪の念を燃やして、悲しみに沈む間もなくアキレウスを追う。


「アキレウス!お前の敵はここにいるぞ!」


「来たか、憎きヘクトール!パトロクロスの仇を必ず討ち取ってくれよう!」


 両者は互いに大きく飛び退いて距離を取り、睨みあう。


「どうしたヘクトール、もっと寄って来いよ」

「口論をする気は無い。手前がどのように挑発しようとも無駄だ。私は私の立場を良く分かっている」


 すなわち、ヘクトールは力ではアキレウスに劣ることも、業においても彼に後れを取ることも良く知っていた。しかし、アキレウスを討たねば、必ず悲劇が続くと目に見えていて、民草を守るために立ち向かわない道など、彼に取れるはずがない。


「行くぞ!」


 ヘクトールは槍を投じてアキレウスを射抜かんとする。ところが、そこにアテーナーがご助力を授けられ、アキレウスに向かう槍に息を吹き込まれた。その風圧に力を失くした槍は、道半ばで力尽き、地面に落ちる。

 アキレウスは追い風に助けられて更なる俊足で距離を詰めると、大きく振りかぶってヘクトールに槍を突きだした。


 ヘクトールの無謀を察知したアポローンは、すぐにアキレウスの槍からヘクトールを救ってやり、アキレウスの顔に暗い靄がかかった。

 彼は執拗に槍を突きだし、ヘクトールを斃そうといきり立ったが、四度もアポローンは、ヘクトールの身を庇って逃してやる。これに対して、アキレウスは苛立たし気に怒号を浴びせて言う。


「臆病者のヘクトールめ!アポローンに助けられてまたもや命拾いしたのだな。全く臆病で情けのない男よ!まぁ良い、貴様が逃げたとて、イリオン勢の被害が増すだけだ!」


 このように告げれば、アキレウスは忽ち俊足で戦場を駆け抜け、ドリュオプス、ピレトルの子デムコスを負傷させ、剣で以て止めを刺す。加えて、命乞いをしようと膝に縋ったトロスが、猫なで声で助けを乞うのを、アキレウスは無情の槍で貫いて殺した。愚かなトロスは、アキレウスの気性の荒さ、また元より気の立った状態で立っている戦場において、最も愚かな選択をしたのであった。


 アキレウスの足元には脊椎を切り落とされ、髄の垂れた遺体や、腸を曝け出して倒れる遺体、右目から左足までを貫かれて、膝をついたまま息絶えた遺体などが大地のそこら中を血で染め上げた。この遺体の中を、二体の神馬が牽く戦車が進む。遺体を踏み、車輪に巻き込みながら進めば、地上の血の海から伸びた長い血の轍は、決して血の乾くことを知らぬほど長く伸びている。アキレウスはこの悍ましい血の海さえも眼中になく、無論宝物や装具の類は一つも関心を抱かずに、戦車を牽いてヘクトールを追った。


作品零れ話:


 ギリシャ神話における盾と武器-アキレウスの盾描写に添えて-


 ホメロス著『イリアス』を含め、ギリシャ神話では、やたらと長い盾の描写が見られます。こうした長い描写というのは、それが重要な者であったことを示す二次的な資料ですから、当時の盾が非常に重要なものであったことが示されています。

 一方で、武器の方は素材くらいしか描写がなく、それほど力を入れていないようです。

 つまり、重要度において武器<盾という価値観を、当時の人々が持っていたことが理解できます。

 これは、イリアスを実際に読んでいて目玉が飛び出すほど驚いたのですが、丸々ページを使って、非常に詳細にアキレウスの盾を描写しており、長すぎて前の展開を忘れるほどのこだわり様でした。

 後で調べたところ、これは当時の主要な武器が「槍」であり、木材と僅かな金属で作られ、主に投げ槍として、飛び道具のように用いられていたのに対して、盾は素材も動物の皮や大量の青銅など、相対的に高価な品であり、一子相伝の品であることが多いそうです。また、素材面だけでなく、当時の基本陣形である密集陣形ファランクスは、盾半分で自らを、もう半分で隣接する仲間を守るため、戦争において盾が二人の命を左右する重要な装備であったことが理解できます。

 これと関連して、最も強い者が右半身が露出する右端の役割を担うというのが当時の常識であったようです。逆に言えば、中央部には守られるべき最も弱い者が配置されていたということで、これを逆手に取った戦術を取った事例もあるようです。

 こうした当時の戦術や価値観を踏まえて作品を読むと、また違った世界が見えるかもしれませんね。

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