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イリオンの矢  作者: 民間人。
不和の林檎
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老王の昔語り・二柱御高談

 王宮に迎え入れられたパリスは、都市の中枢までの道を、祝福と警戒と共に進んだ。デーイポボスの不信感に満ちた表情と、カサンドラーの殺意さえ感じられる視線が彼に纏わりつく。一方で、市民は王子の復帰を祝福し、善き王プリアモスもまた彼を祝福した。


 小劇場と聖域の内側にある、二柱の神が造られた都市をぐるりと囲む堅牢な城壁を進むと、石造りの絢爛な建物が林立する。色彩豊かな石像に彩られた、これらの政治の中枢であるアクロポリスの悠然たる佇まいは、パリスの住む侘しい住まいとは比べるべくもなかった。四つの支柱に支えられた部屋からなる大広間(メガロン)はいずれも広く快適であり、控えの間とメインホールの二つの部屋が、隣り合うように建てられている。

 幾つかのメガロンのほかには、海を臨むことの出来る北東の果てに、美々しきアテーナー神像を祀る神殿があり、女官や神官らがイリオン繁栄の為に仕え、祈りを捧げていた。


 プリアモス王は再会した幸福のあまりに感涙に咽びつつ、パリスに王宮を案内していく。


「私達はね、都市の守護を祈るために、戦神のアテーナー様には毎日供物をささげるようにと、指示を出しているのだよ」


 神官の元に、よく肥えた羊や牛が運ばれていく。女官達が紡いだ煌びやかな織物も、牛達の積み荷として運び込まれていた。それらは織物を司るこの処女神の像を飾り付けるために捧げられている。パリスはアテーナーの荒々しい操車を思い出しつつ、凛として佇む神像を前に跪いた。


「王は、アテーナー様を特別に奉じておられるのですか?」

「イリオンは、アポローン神も良く奉じておるが、父君は女神に特別な思い入れがあるのは事実だ」


 デーイポボスが、脇からそのように答える。アポローンの名を聞き、カサンドラーは人知れず苦い顔をする。牧人として生涯を過ごすべきパリスは、意図を解しかねて首を傾げた。

 プリアモスは苦い記憶を回顧して、再び目尻に涙を溜める。


「英雄ヘラクレスを知っているかな。古い話になるが、私は若い頃にこの獰猛な英雄の捕虜となったことがある。父君が報酬の馬を渋ったばかりに、報復を受けたのだよ。姉上、ヘーシオメーが私を選んで下さらなければ、私も兄妹同様に殺されていただろうが・・・」


 プリアモス王は荒れ狂う神、アレースの恩寵を受けた我が子の肌に触れる。供物の羊が喉を裂かれ、悲鳴を上げる声が祭壇の上に響き渡った。パリスが丹精を込めて育てた羊もまた、そのように捧げられたのであろう。プリアモスは我が子の両耳を優しく塞ぐと、額を抱き寄せて囁いた。


「残されるのもまた、悲しいものだよ・・・」

「はい・・・」


 パリスの耳に、羊の悲鳴が届く。その音はくぐもって響き、臓物と肉を炎に投じられていく。人はそれを喜び喰らい、神と共にその恵みを御身に摂り入れようとした。アテーナーは既に、滅びゆくイリオンに見向きなどしないというのに。


 神々のうちでも名高き光明の君、輝ける君(フォイボス)・アポローンは、同じゼウスの子たるアレースと共に、その様を眺めておられた。頭には冷冷たる月桂冠を戴いておられる。アポローン自身がお建てになった不朽の城壁に座し、側壁へと足を投げ出されたアレースと隣り合い座っておられた。


「父君が仰せられた通りに、牛になってやったのは正解だったぜ。父君はよくよく俺を認めて下さるだろうし、あの娘。カサンドラーは好さそうな女だ」


「やめておけ。あれはお前を振るぞ」


 アポローンは冷徹におっしゃると、アレースに向けて蛸の入った水瓶を放った。塩水は良く冷えており、蛸の軟体がアレースの頭に纏わりつく。アレースは乱暴にそれを取り払われると、市壁の外に蛸を放り投げられた。


「そうなのか?どうしてそう思う」

「思うのではない。見えるのだと言っているだろう」


 静けさの中、天翔ける鷲がイリオンの上空で羽ばたく。神々は各々に反応を示された。まず、アレースは鷲に向けて高々と手を振られ、父君が願いを叶えて下さるようにと大仰に目立とうとされた。一方、アポローンは沈黙され、世に名高き竪琴を取り出された。その音色はイリオンの市中に遍く響くに留まらず、神々を見晴るかすゼウスのおわすオリュンポスの峰にまで響き渡った。

乞うような音色を耳にされた大神は、鷲の瞼をこじ開けられ、心地よく響く竪琴の音色の出所を探られた。眩い金髪の神アポローンが、イリオンの市壁に座り奏でられる様をご覧になると、ゼウスは不機嫌そうに頬杖をつかれた。


「あの時も問うただろう。何を抗えると思うのだ。お前が、無欠の儂に」


 アポローンは虚しく竪琴の音が余韻と共に消え去ると、カサンドラーの旋毛を見おろされ、憎々しげに顔を顰められた。


「父君の思う所が見えぬ以上は、賛同いたしかねます」


 アレースはアポローンが彼を出し抜く気かとお思いになったのか、輝きの君の気を逸らそうと、あろうことか彼の耳元で、大音声で名前を呼ばれた。アポローンはますます不愉快になってしまわれ、アレースに水瓶の中にあった残りをおかけになると、竪琴を仕舞われて市壁を降りていかれた。


「これはどういう事だ?俺にはまるでわからん!」


 アレースも彼に続き市壁をお降りになる。捧げられた供物の良い匂いに任せて、王子復帰の祝宴が、合わせて執り行われた。


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