表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
58/99

輝くもの

ごく短い節ですが、ここだけは単品で提供することをお許しください。

「アンドロマケー!」

「あなた!お帰りなさい」


 駆け寄ったアンドロマケーを、ヘクトールはその屈強な腕で抱き寄せた。寝床では幼子が静かに寝息を立てている。


「お風呂沸いていますよ。入りましょう」

「ありがとう」


 二人は爽やかな口づけを交わし合う。ヘクトールが戦利品の装具を脱ぐ間、妻は鼻歌交じりに沸かした風呂に色々な香料を撒いた。妻の健康な笑顔を見て、ヘクトールの胸は一層に安らいだ。


 衣服を脱ぎ、浴槽に浸かると、ヘクトールは気持ちよさげな声を零す。


「この世の極楽は、君のいれる風呂に違いない!」

「スカマンドリオスが起きてしまいますよ」


 妻に呆れてこう指摘されると、彼は頭を掻き、おどけて答える。


「おっと、すまない。あんまり心地いいもので」


 浴槽には砂塵が浮き上がり、妻に戦闘の凄まじさを伝えている。終わりの見えない長い戦いが、彼女の心に暗い靄を掛けたことは言うまでもない。美々しい鎖骨に湯をかける夫の髪を梳きほぐしつつ、アンドロマケーは彼を労って言う。


「随分と大変な戦いでしたでしょう。船のそばまで近づいておられたじゃないですか」


「ああ。アカイア勢は途轍もなく手強い。それだけに、今日の内に退いてもらいたかったのだが・・・。また強敵が現れてね。その装具も、その時の戦利品だよ」


 ヘクトールは脱いだ装具を指差して言う。胸当ても兜も、実に見事な代物で、強敵がアカイア勢でも手練れのものであることは、戦場を知らない彼女でも容易に理解できた。それを退けた夫のことを、彼女は誇らしく思いつつも、複雑な心境を胸に秘めながら言った。


「立派な装備ですね。あなたのことを守ってくれればいいのですが・・・」

「これ次第だよ」


 ヘクトールは壮健な腕を叩く。羊毛の中で幼子が寝返りを打つ音がすると、アンドロマケーは我が子に近寄って体制を整えてやり、その小さな指が彼女の指を掴むのを、慈しみながら眺めた。


 ヘクトールはその様子を優しく眺めたが、我が子に触れたいという心を抑えることは出来ず、普段よりわずかに速く風呂から上がると、裸のままでスカマンドリオスの隣に寄り添った。


 赤子の滑らかな素肌に、ヘクトールが身にまとう温い湯気がかかる。その温もりに安心しきった幼子は、鼻を鳴らし、ふくよかな頬を膨らませた。両親が彼の顔を覗き込むと、しばらく鼻をひくつかせたあと、やがて穏やかな寝息を立てて眠る。


「かわいい・・・」

「ふふっ」


 夫婦は愛しい我が子を囲んで、額を合わせて微笑みあった。

 そこには温度があり、表情があった。口をくちゃくちゃと動かしたり、アヒルのように窄めたりする幼子の顔もあった。

 愛するアンドロマケーの沸かした風呂から出た時の、特有ののぼせたような感覚があった。温い温度に酔いしれるように、ヘクトールは互いにつけた額をぐりぐりと動かす。アンドロマケーも負けじと、首を左右に動かして額を押し付け合った。それは全く無意味な行動であった。

 幼子が寝返りを打つ。喃語を唱え、その口から一筋の涎が溢れる。それを柔らかい布で丁寧に拭き取れば、幼子は足を上下に動かして、無意味な挙動をする。


 その全てが、ヘクトールの目には美しく映った。


「アンドロマケー」

「はい」

「楽しいな」

「ふふっ。何ですか、急に」

「いや」


 二人は互いの温度を確かめ合うように、幼子を抱いて、静かに眠りについた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ