輝くもの
ごく短い節ですが、ここだけは単品で提供することをお許しください。
「アンドロマケー!」
「あなた!お帰りなさい」
駆け寄ったアンドロマケーを、ヘクトールはその屈強な腕で抱き寄せた。寝床では幼子が静かに寝息を立てている。
「お風呂沸いていますよ。入りましょう」
「ありがとう」
二人は爽やかな口づけを交わし合う。ヘクトールが戦利品の装具を脱ぐ間、妻は鼻歌交じりに沸かした風呂に色々な香料を撒いた。妻の健康な笑顔を見て、ヘクトールの胸は一層に安らいだ。
衣服を脱ぎ、浴槽に浸かると、ヘクトールは気持ちよさげな声を零す。
「この世の極楽は、君のいれる風呂に違いない!」
「スカマンドリオスが起きてしまいますよ」
妻に呆れてこう指摘されると、彼は頭を掻き、おどけて答える。
「おっと、すまない。あんまり心地いいもので」
浴槽には砂塵が浮き上がり、妻に戦闘の凄まじさを伝えている。終わりの見えない長い戦いが、彼女の心に暗い靄を掛けたことは言うまでもない。美々しい鎖骨に湯をかける夫の髪を梳きほぐしつつ、アンドロマケーは彼を労って言う。
「随分と大変な戦いでしたでしょう。船のそばまで近づいておられたじゃないですか」
「ああ。アカイア勢は途轍もなく手強い。それだけに、今日の内に退いてもらいたかったのだが・・・。また強敵が現れてね。その装具も、その時の戦利品だよ」
ヘクトールは脱いだ装具を指差して言う。胸当ても兜も、実に見事な代物で、強敵がアカイア勢でも手練れのものであることは、戦場を知らない彼女でも容易に理解できた。それを退けた夫のことを、彼女は誇らしく思いつつも、複雑な心境を胸に秘めながら言った。
「立派な装備ですね。あなたのことを守ってくれればいいのですが・・・」
「これ次第だよ」
ヘクトールは壮健な腕を叩く。羊毛の中で幼子が寝返りを打つ音がすると、アンドロマケーは我が子に近寄って体制を整えてやり、その小さな指が彼女の指を掴むのを、慈しみながら眺めた。
ヘクトールはその様子を優しく眺めたが、我が子に触れたいという心を抑えることは出来ず、普段よりわずかに速く風呂から上がると、裸のままでスカマンドリオスの隣に寄り添った。
赤子の滑らかな素肌に、ヘクトールが身にまとう温い湯気がかかる。その温もりに安心しきった幼子は、鼻を鳴らし、ふくよかな頬を膨らませた。両親が彼の顔を覗き込むと、しばらく鼻をひくつかせたあと、やがて穏やかな寝息を立てて眠る。
「かわいい・・・」
「ふふっ」
夫婦は愛しい我が子を囲んで、額を合わせて微笑みあった。
そこには温度があり、表情があった。口をくちゃくちゃと動かしたり、アヒルのように窄めたりする幼子の顔もあった。
愛するアンドロマケーの沸かした風呂から出た時の、特有ののぼせたような感覚があった。温い温度に酔いしれるように、ヘクトールは互いにつけた額をぐりぐりと動かす。アンドロマケーも負けじと、首を左右に動かして額を押し付け合った。それは全く無意味な行動であった。
幼子が寝返りを打つ。喃語を唱え、その口から一筋の涎が溢れる。それを柔らかい布で丁寧に拭き取れば、幼子は足を上下に動かして、無意味な挙動をする。
その全てが、ヘクトールの目には美しく映った。
「アンドロマケー」
「はい」
「楽しいな」
「ふふっ。何ですか、急に」
「いや」
二人は互いの温度を確かめ合うように、幼子を抱いて、静かに眠りについた。




