パトロクロスの遺体を巡る争い
パトロクロスの死に真っ先に気づいたメネラーオスは、その遺体を引き渡してはならぬと、気後れしつつもイリオンの大勢の前に立ちはだかる。はじめメネラーオスに対峙したのは、若き勇士エウポルボスであり、パトロクロスの仇の一人であった。
「それは俺の戦利品だ。返して貰おう」
「断る。欲しければ倒して奪う事だな」
「ならば、ついでに兄弟たちの敵討ちだな!」
「道理の分からぬ若造が。馬鹿は嫌いではないが・・・」
短い言葉の応酬を経て、エウポルボスはメネラーオスに飛び掛かる。彼は溌溂とした力を振るい、槍を突きだしたものの、見事な楯に阻まれて、これを破ることができない。体勢を立て直そうと飛び退いた矢先、メネラーオスは盾と槍のほんの僅かな隙間をついて、槍を突きだした。槍は若いエウポルボスの喉を貫く。兜が落ち、美しい体は膝をついた。
メネラーオスは穂先を引き抜くと、この憎らしいほど美しい若者を地面に叩きつけ、冥府の王へと捧げる。戦利品の武具を剥ぎ取れば、その美しい肉体の見事な全容が露わとなった。続いてメネラーオスの元へ駆けつけたヘクトールは、メネラーオスの逡巡する様を見るや否や、大音声で叫ぶ。
「メネラーオス!エウポルボスはイリオンで弔わせてもらう!」
この時、メネラーオスが逡巡したのは、パトロクロスの遺体を守るべきか、神の加護あるヘクトールから退くことを優先すべきか迷った為であったが、結局、彼は槍と盾を構え、ヘクトールに対峙する。しかしメネラーオスは、ヘクトールの苦手とする相手を良く分かっていた。
「テラモーンの子アイアースよ!私と共にパトロクロスを守ってくれ!攻めてアキレウスに届けてやりたいのだ!」
「いいだろう!俺を暴れさせてくれ!」
メネラーオスと肩を並べる巨漢のアイアースを見て、ヘクトールは一歩退く。それを見逃さず、グラウコスがヘクトールを呼び止めて言う。
「ヘクトール殿!サルペドンの時のように、またエウポルボスも見捨てるのですか!」
ヘクトールは、グラウコスに向き直り、このように答えた。
「いや、装具を変えてくる。グラウコス、少し踏ん張ってくれ」
さらに、ヘクトールはトロイアの勇士らに発破をかけると、アキレウスの装備を運ぶ戦車目掛けて駆けていく。その様を見送って、グラウコスを中心とするリュキエ勢の面々と、トロイア勢の両軍が、パトロクロスの遺体を守るアカイア勢、ひいてはダナオイ勢らの勇士達と対峙する。
アキレウスの装備を身に着けるヘクトールをご覧になった雷を愉しむゼウスは、呆れたご様子で、死の間際にあるヘクトールへ力を授けて、独り言を呟かれた。
「悲しいかな、ヘクトールよ。お前の役目も間もなく終わる。力は授けてやるが、最期の輝きを期待するでないぞ」
ゼウスの神意をまるで解することも出来ず、ヘクトールは輝く兜を除いてアキレウスの装備を身に着け、トロイア勢とそれに味方する諸部族たちを励まして回る。これは偽りではあったが、アキレウスを討ったと知ったトロイアの勇士達が勢いづくのは当然のことである。まして、彼らの中で最も優れた指導者であるヘクトールがこれを身に着けていれば、尚更心を励まされた。
こうして多勢を集めたヘクトールは、アイアースを指差して味方達をこのように鼓舞する。
「私がパトロクロスを討ったように、アイアースのその手から、パトロクロスの遺体を手に入れた者には、相応の褒美をやろう!何せ、あの勇猛なアイアースから、戦利品を獲たのだからな!」
こういえば、トロイアの勇士達が一斉にアイアースに襲い掛かる。アイアースは容易くこれをいなして見せたが、それでも、これでは津波に襲われるようなもの、アイアースはメネラーオスに声を掛けて言う。
「増援!増援だ!」
ここに至ってようやく、メネラーオスは大音声で仲間を呼び、アカイア勢の勇士達がずらりと並び立つ。その壮観は、ちょうどオリュンポスの神々が、その神獣を一挙に御前に並べるようなもの。はじめこそ勢いで勝ったイリオン人たちも、アイアースの前には殆ど無力と言って差し支えなく、まともに戦えるのはアイネイアースかヘクトールくらいであった。
しかし、多勢に無勢ではパトロクロスの遺体を運ぶことも叶わない。しかもゼウスが、最期の慈悲としてヘクトールに力を貸し、アカイア勢の投げる槍全てがイリオン人には届かず、イリオン勢の勇士達が放つ槍は皆アカイア勢に当たるという有様で、アイアースさえ根を上げて嘆く。
「ゼウスよ!何故我らを見捨てるのか!せめて視界から靄を取り除いて、手応えだけでも得られるように状況を好転させてはくれまいか!?」
アイアースの訴えに、ゼウスも更なる被害を期待して、アカイア勢の視界から靄を取り払って下さった。続けて、アイアースの願いに応じて、メネラーオスが老ネストールの子アンティロコスを戦塵の中から探し出して願い出る。
「アンティロコス、パトロクロスの遺体を運ぶから、先にアキレウスに訃報を届けてくれ」
これを受け、アンティロコスは即座に踵を返し、アキレウスの待つ陣屋へと駆け戻っていく。その間に、アカイア勢は束になってイリオン人を抑え込み、盾で苛烈な攻撃を躱し、徐々にパトロクロスの遺体を後方へ、後方へと送り出していく。
遺体を運ぶための担架が届いたころ、アカイア勢の船陣から光が昇り、イリオン勢の勇士達の目をくらませる。
「イリオンの蛮族どもがぁ!」
凄まじい怒号が光の中から響き、頭を割らんばかりの大音声に、イリオン人は身を竦ませて狼狽えた。
「わが友パトロクロスに、その汚れた手で触るというなら、この場で腕を切り落としてやろう!」
発せられる声が、イリオン人の記憶の奥底にある恐怖を駆り立てた。腸にまで刻み込まれた冷たい恐怖が、熱射の如きさざめきから響く声により呼び起こされる。
「この怒りは必ずや、災いとなって貴様らの元に戻って来るであろう!よく覚えておけ!」
その声の主は、紛れもなくアキレウスのものであった。涙を呑んだ枯れた声には、暗い怒りが滲んでいる。その恐ろしさたるや、まさに、ヘーラーの怒り、アテーナーの持つ盾そのもののようであった。
イリオン人はこの怒号に狼狽え、敗走状態に陥る。一方で、アカイア勢は容易にパトロクロスを運び出すことができるようになった。やがて戦列の最後列まで遺体を運び出すと、彼らは体勢を立て直したイリオン勢の投げる槍や石の礫から素早く逃れるように、踵を返して逃亡し始めた。
この日の戦闘はここに終わり、夜が空に巡り来る。




