パトロクロスの最期
女神よここに知らしめよ、ペーレウスの子アキレウス、その愛しき友パトロクロスの、最期の物語を。
パトロクロスがアキレウスの装具を身に纏い、勤勉なミュルミドンらを従えて、アキレウスに出征することを告げると、アキレウスは背中を向けて咽び泣くばかりであった。しかしパトロクロスが立ち去ろうとするその時、耐えかねたアキレウスは友の手をしっかと握り、殆ど懇願するように言うには、
「パトロクロス。お前と私だけが生き残ればそれでいい。アガメムノンが、私に少しでも心づかいの出来る男であったなら、このような結果にはならなかったはずだ。だから、私はお前以外のものに関心はない。ダナオイ勢の如何なる男が、お前の助けを求めても、またトロイアの如何なる勇士が、お前に戦いを挑んでも、真に受けることなどないのだからな。全て一蹴してでも帰ってこい。トロイア贔屓のアポローンにも、絶対に近づくな。お前がするべきはそれ、それだけだ」
パトロクロスの見事な装具は、とねりこの槍を除いて全てアキレウスのものであった。銀の留め金を用いた脛当ては、美々しい脚によく馴染み、星の装飾を施した胸当ても、見事な逸品である。青銅製の大きな太刀は、パトロクロスにはやや扱いづらいほど大きいが、これも並ぶ者無き英雄アキレウスの見事な装具の一つ、兜は高く伸びる馬毛を飾り付けたもので、身につければ、心優しいパトロクロスも荒々しい猪のよう。何より、力無き者にはとても扱えぬ、体の倍もある大盾である。
さらに、パトロクロスの手に馴染む、二対の見事な槍を取り上げると、パトロクロスは船の外へと飛び出した。
船の外には、イリオン人が群がってまさに船に火を点けようと勇んでいた。先陣を切るのは青銅の兜眩いヘクトールで、彼が船から船へと飛び回り、太刀を用いて英雄たちの槍の穂先を次々と切り落としていく。テラモーンの子大アイアースも、もはやこれまでと逃れようとするが、船の上にある限り、火を点けようと試みるイリオン兵達を薙ぎ払うより仕方がない。軍勢の中、縮こまって矢を射かけるパリスの姿は、パトロクロスからは視認できないほどであった。
それ程の大勢、町、国、全土を巻き込んだ防衛への意気込みに、パトロクロスでさえ思わず固唾を呑む。
しかし、パトロクロスは、彼が心を許したアウトメドンに、手綱を託して戦車へと乗り込む。この戦車こそ、イリオン人を恐怖に陥れたアキレウスの神馬クサントスとバリオスが牽く恐るべき戦車であり、この二頭の神馬を補助する、死すべき馬ペダソスと共にパトロクロスを運ぶ。
戦車は先ず、宿営をするミュルミドンらに出征をすることを告げて回る。アキレウスは彼らを奮い立たせて回り、勤勉なミュルミドンらはこれに応えて雄々しく立ち上がった。彼らは五隊に分かれ、パトロクロスが牽く戦車に従った。
「私の戦友たちよ!今こそ立ち上がり、敵を討つ時だ!お前たちは私に向けて、怒りを抑えて戦うべきだと口々に言っていたな!ならば、今ここでその力を発揮せよ!敵は大勢!我らは寡勢!なるほどお前たちが望む通りに、武勇を示せる場ではないか!」
アキレウスの翼ある言葉に、ミュルミドン達は鬨の声で応じる。これを聞いたイリオンの戦士たちが、思わずその凄まじい声に身を強張らせたのは一瞬のこと、滅びの予兆さえ見逃して、憎き大アイアースを討つべく火を放った。
ミュルミドンらは隙間などないほどしっかりと密着し、長大な隊列を足並み揃えて歩み出る。アキレウスは、母テテュスより賜った、何よりも煌めく盃を櫃から取り出すと、これを硫黄と清流で清め、また自らの極めて均整の取れた美しい手を洗い流すと、ゼウスに向けて献酒をして祈る。
「我が領ペラスギコンを守り、ドドネの神域と天見晴るかすオリュンポスの御座とにおわす大神ゼウスよ!わが友パトロクロス及びその率いるミュルミドンらを守り給え!願わくば、パトロクロスが見事に戦火を退けて、美々しい肉体からその装具に至るまで、健壮そのものの出征の出で立ちのままで、帰還せしめるように計らい給え!」
このように言って一思いに酒を仰げば、その盃の輝くのに似て澄み切った酒は喉に優しく、ゼウスの神慮を見事にアキレウスに聞かしめた。
「なるほどお前の望む通りに、戦火の方は見事に退けてやろう。善き戦友を持ったことを誇りに思うがよい」
このように滑らかに喉を流れる清酒が告げれば、アキレウスは戦争の始終をしかと目に留めようと、盃を仕舞い、陣屋に出向いて様子を窺った。
パトロクロス率いる軍勢は、勇猛にトロイアの戦士に襲い掛かり、次々に敵を打ち倒していく。遠目にはアキレウスに見える軍の将を認めれば、震え上がらぬトロイア人などあろうはずはない。その上、パトロクロスは大音声で、仲間を奮い立たせて叫ぶ。
「さぁ、己が武勇を示せ!そうして将をこき下ろした、アガメムノンに目にものを見せてやるがいい!」
勢いづいたミュルミドンらがイリオンの兵士達を横からなぎ倒していくと、トロイアの戦士は「アキレウスだ!」との叫び声を合図として、皆生き残ろうと遁走を始める。パトロクロスは二対の槍の内一つを軽々と投げ、敵将の一人を見事突き殺すと、その見事な槍捌きにより、イリオン人は、ますますアキレウスの参戦と見誤り、皆船列から逃れて行く。
激戦の中、降り注ぐ矢の雨を盾で防ぐ大アイアースに向けて、ヘクトールは太刀を引き抜いて相対する。槍を折られ、盾も矢を防ぐために用いらざるを得ないアイアースは、苦渋の表情を浮かべて勇士ヘクトールを睨む。ヘクトールはアイアースの強固な盾を払いのけ、その内側へと屈み込むと、剣を振り上げてアイアースの兜に叩きつけんとする。その時、鋭い穂先の槍が、矢の雨に紛れてヘクトールの脳天を狙って投げられた。咄嗟のことで、ヘクトールは辛くも黒い死を逃れたものの、その身に擦り傷を受ける。どこからともなく放たれた槍の軌道を辿れば、そこはまさに、パトロクロスが悠々と戦車を駆り進むところから放たれたものであった。
「アキ・・・レウス!?」
ヘクトールでさえ思わず肝が冷える。アイアースはその隙をついて戦線を逃れたが、その様子は今まさに脱兎のごとく逃れようとするイリオンの戦士たちそのもの。ヘクトールは舌打ちをし、防壁の切れ目から逃れるのさえままならない遁走ぶりのイリオン人をかき分けて、パトロクロスの元へと向かう。
見事な馬三頭に牽かれた戦車を駆りながら、パトロクロスは槍を投げるか、あるいは突き出して、イリオン勢の勇士達を次々と討ち滅ぼしている。ヘクトールのみが先陣を切って戦い、それでもイリオン勢は防壁からあふれ出るように逃れ、町と陣屋の間、即ち川と海の境の大地を踏みしめたのであった。
パトロクロスがこれを追いかければ、ヘクトールもさらにこれを追う。
一方で、ゼウスがむずがゆそうに鼻の頭を掻き撫でつつ、パトロクロスの動向をご覧になっておられる。その様子を牛眼の女神ヘーラーが、冷ややかな視線を浴びせておられた。
ゼウスはすさまじい惨劇の場となった戦場を物憂げにご覧になりつつ、眉尻を下ろして一人呟かれた。
「嗚呼、我が子サルペドンの死に目を見るのはあまりに物悲しいな。掬い上げてリュキエに戻してやるべきか・・・?」
これをお聞きになり、ヘーラーは嘲笑されつつおっしゃった。
「運命司る大神ゼウスともあろうあなたが、何をおっしゃっておられるのですか。死すべき人に情が移るなどと。いいえ、お気持ちはわかりますが、それではほかの神々に示しがつかぬではないですか。アテーナーがオデュッセウスをお助けになり、あるいはアイネイアースをアフロディーテがお助けになるのと同じことです。そのような身勝手は秩序に悖るものです。お分かりになって?」
「お前の意見が正しい・・・」
このように冷酷におっしゃればゼウスはこれを受け入れ、僅かばかりの情けとして、地上に向けて血の雨をお降らせになった。
「リュキエ勢よ!勇気を出して戦え!」
このように叫ぶサルペドンに向けて、パトロクロスは無情の蹄を向けて歩み寄る。まずは従士に槍を投げて的中させ、その腸をひりだして引き抜くと、続けて将軍が一人サルペドンに冷え切った眼差しを向ける。二者は睨み合いを続け、サルペドンが先んじて槍を投げれば、狙いを逸らして死すべき馬ペダソスに当たる。ペダソスは右肩から血を零し、もがきながら力尽きた。補助馬を失くして左右それぞれに逸れて走ろうとする二匹の神馬を、アウトメドンはペダソスと軛を切り離すことで整え、戦車は見事に均整を取り戻した。
続けざまにサルペドンが投げた槍は、パトロクロスの肩を掠めたが、そのまま空を裂き大地に突き刺さる。僅かな血が肩から滴り落ちたものの、パトロクロスは表情一つ変えずに槍を持ち上げた。
サルペドンが身構える隙も与えず、構えた槍を瞬く間に打ち出すと、見事パトロクロスの槍はサルペドンの心臓を貫き、ここに狡知のクロノスの御子、ゼウスの子であるサルペドンは、昏き死に視界を覆われた。
「グラウコス・・・リュキエ勢と、私の遺体を頼む・・・」
「サルペドン!」
これを受け、共に胸壁を打ち壊したグラウコスは、戦友の遺骸に駆け寄ると、心臓を貫いた槍を引き抜く。どろどろと黒と緑の混ざりあった不気味な血が傷口から溢れ出すと、彼は戦闘で負傷した腕で、張り裂けんばかりの胸を掻き毟り、ゼウスを呪って嘆き叫ぶ。
「天見晴るかすゼウスよ!あなたの御子サルペドンをなぜ守って下さらなかったのです!?嗚呼、治癒齎す君アポローンよ!どうか憐れなサルペドンを守るために、この傷を癒し、痛みを取り去って下さいますように!」
「容易いことだ」
治癒齎す君アポローンが即座に歩み出てグラウコスの腕の傷を拭い取られば、たちまちグラウコスから痛みを取り払われた。グラウコスは神に深く感謝の祈りを捧げ、胸に灯った勇気に任せて、リュキエ勢を前進させ、各地の大将たち、プリュダマスやアゲノル、アイネイアースやヘクトールに救援を呼びかける。
「ヘクトール!イリオン人ではないからといって見捨てずに、どうかサルペドンを助けてくれ!せめて亡骸が辱めを受けることの無いように、遺体をアカイア勢から守ってくれ!」
「分かりました!行くぞ、アイネイアース!」
このように叫べば、ヘクトールはアイネイアースを伴ってパトロクロスの前に立ちはだかった。
「ヘクトールですか・・・」
パトロクロスは兜の中に憐み深い顔を隠し、静かに呟く。その様子に、アキレウスの雄々しさを感じられず、驚いたヘクトールが目を瞬かせると、パトロクロスは落ち着き払った様子で槍を持ち上げ、腹に貯めた空気を一杯に用いて大音声を上げて言う。
「テラモーンの子、さらにオイレウスの子アイアース!私に力を貸してください!」
「!?」
ヘクトールが怯むほどの大音声を上げたパトロクロスは、一歩戦車を退かせ、体勢を立て直した両アイアースの後ろに控える。大アイアースは、ヘクトールに不敵に笑いかけて言う。
「さっきは良くもやってくれたな、ヘクトール!サルペドンの武具は、戦利品として預かろう!」
「そんなことはさせるものか・・・」
ミュルミドンと両アイアースの率いる精鋭たち、そしてヘクトールとアイアース、グラウコスらの勇士が率いるイリオン勢が、ゼウスの御子の遺体を囲んで相対する。天を黒雲が蔽い不気味な雷鳴が周囲に響き渡った。両軍は隙間なく盾を連ねて戦列を作り、両者同時に掛け声を上げて突撃する。
はじめサルペドンの遺体に手を伸ばしたのは、ミュルミドンの中でも優れた勇士エペイゲウスであった。彼は駿足をほしいままに用いて風を駆り、我が身も顧みずに遺体に飛び掛かった。すかさずヘクトールが大岩を投げると、大岩はエペイゲウスの兜に重くのしかかり、兜伝いの振動が、彼の頭に襲いかかる。視界が歪むほど激しく鳴動した兜は、大岩の振動で凶器と化し、たちまちエペイゲウスは頭を割られて黒い死に身を預けた。
パトロクロスは親しいエペイゲウスの名を呼び、戦車を一気に前進させてイリオン人と激突する。彼が槍を人薙ぎすれば、たちまちイリオンの戦士たちは払いのけられ、数多の犠牲を負って後退した。
一方グラウコスは、戦列に並んで後退をしたものの、振り向きざまに槍を突きだし、アカイア勢の勇士も討ち取った。
アイネイアースもメリオネスを討たんと気負ってアカイア勢に槍を投げたものの、狙いは外れて大地に槍が突き刺さった。
「あら、外した!」
悔しがるアイネイアースに向けて、メリオネスが煽って言う。
「神の血を受けた子とは言え、所詮は人の子、あなたとて全ての猛攻をしのぎ切ることは出来ないでしょう」
このように大見得切ったメリオネスを、パトロクロスは落ち着いた声で諫めて言う。
「おやめなさい。アイネイアースに失礼でしょう。戦場は口論の場ではありません、まさか煽ればイリオンの勇士らがご遺体から退いて下さるわけではないでしょう」
「これはごもっともなご意見。失礼した」
パトロクロスの諭す言葉を聞き入れて、メリオネスは得意になるのをやめ、戦車に従って進む。やはりアキレウスとは異なる言葉遣いに、ヘクトールは違和感のあまりに眉を顰めた。
一人の遺体を中心に巻き起こった戦闘は、最早その遺体を巻き込んで数多の槍と矢が降り注ぐ騒然とした様相を呈した。サルペドンの遺体は無惨にも槍の雨に射当てられ、地面に黒い血だまりを残している。
その様子を、イーデー山の頂からご覧になったゼウスは、戦局を読み、地上に突っ伏して蝿や野犬の餌となった死体の数を数えられ、一言「足りぬな」とおっしゃった。
そこで、ゼウスはヘクトールの心に臆病風を吹き込まれ、これを受けたヘクトールは戦車に戻って後退を始めた。
「イリオンの勇士達よ!一度城壁の前まで退こう!」
このように叫べば、アキレウスを前にする兵士達に否やはなく、踵を返して後退を開始した。
取り残されたサルペドンの遺体をご覧になって憐れみを催したゼウスは、この悲惨な有様の遺体を指差してアポローンに語り掛けて言う。
「アポローンよ、サルペドンをリュキエに戻してやりたい。どうか川で傷口を濯いでやり、アンブロシアで死に化粧を施して、タナトスとヒュプノスにリュキエまで遺体を運ばせてはくれぬか」
心ある神のお言葉に、若干の不満を抱きつつも、輝ける君アポローンは、渋々といった風に一息に飛び、矢の雨降り注ぐ戦場の中心にある遺体を抱き上げて、運び去ってしまわれた。
先ほどまさに願いを聞き入れられたグラウコスは、神慮の恵み深さに感銘を受けて祈る。
「輝ける君アポローンよ、あなたのお陰で様々な艱難辛苦を乗り越えることができました。改めて、偉大な御柱に感謝申し上げます」
御柱は、川でサルペドンの体を清め、アンブロシアで装束を整えた上で、サルペドンの遺体をタナトスとヒュプノスにお預けになる。二柱の神はサルペドンを受け入れると、その腕を引き、リュキエまで送り返した。
サルペドンの遺体を巡る争いが終わり、苛烈な戦いはアカイア勢の優位に傾く。眩き輝きの神が一時戦場を離れたことも一因であったが、戦の疲労を受けていない、英雄パトロクロスの活躍のためもあった。
ところが、無情なる狡知の神はパトロクロスの躍進を許さない。
パトロクロスは後退するヘクトールを追って戦車を駆る。これはアキレウスの忠告を無視したものであったが、イリオンの戦士たちをこれほどまで追い詰める成果であった。それ故に過去を振り返ることを怠ったのは、致し方ないことであった。
戦場の熱に浮かされたパトロクロスは、イリオンの軍勢を恐怖と敗走に陥らせたが、遂にトロイアの城壁にまで押し戻していた。
アポローンが戦線に参加するときには、パトロクロスは既に防壁を這い上がる最中であった。投げ落とされる大岩を片腕で薙ぎ払い、降り注ぐ矢の雨を器用に躱しつつ、パトロクロスは歩哨路に手を掛ける。すかさずアポローンがその手を払いのけると、パトロクロスは半ばほどまで落ち、再び爪を立てて城壁を這い上る。神は矢を用いて、三度パトロクロスを退けたものの、未だ城壁を攻略することを諦めさせるには至らなかった。そこで、アポローンは直截的なお言葉で、パトロクロスを叱りつけておっしゃる。
「パトロクロス、イリオン攻略はお前の宿命にはなっておらぬぞ。アキレウスが成し遂げるべきことと定められている。これを破らんとするならば、秩序に反することとなるぞ」
この言葉を受け、パトロクロスは改めてアキレウスの忠告を思い起こし、アポローンから距離を取って飛び退いた。
その頃、ヘクトールはスカイア門の前で逡巡していた。アキレウスの装備を身に着けた男が現れた時から、形勢が一気に覆ったためだ。再び籠城し仲間を守るべきか、或いは今は犠牲を払ってでもかの男を退けるべきか。
「ヘクトールか」
「あぁ、叔父君ですか」
留まることを知らぬ戦争の狂乱の中、ヘクトールが見かけたのは武装したデュマス、ヘクトールの母ヘカベーの兄弟であった。浮かない表情で思案するヘクトールに向けて、デュマスは古い装具をカタカタと鳴らし、問いかけて言う。
「浮かない表情だな。戦いに迷っているのか?いずれにしても、この門を守れなければイリオンは落ちる。籠ったところで、アキレウスへ対する攻め手が減るだけ。今の彼ならば対応できないでもないと思う。迷う必要などないと思うが」
デュマスがこう諭せば、ヘクトールは美々しい頬を平手で打ち、意を決して槍と盾を手に取る。そして、自らの戦車に飛び乗って、暴れ狂う神馬目掛けて突撃した。
‐今のアキレウスは、アキレウスの強さではない‐
言葉遣いから所作の細部に至るまで、アキレウスに比べて優美なその男は、その強さもまた礼節に富んだ奥ゆかしさがあり、宛ら従者のように思える。ヘクトールはデュマスの言葉に確信を得て、アキレウスの装具を身に着ける男に立ち向かうことを決意した。
その様を見送ったデュマスは、自らの顔を撫でる。すると撫でた位置から麗しい金髪の巻き毛と高い鼻、絹のような滑らかな肌が現れる。それは、輝ける君アポローンであり、見紛うはずもなかった。
「アキレウス!」
戦車は、遂に射程にアキレウスを捉えた。その男は戦車より飛び降りると、ヘクトールの戦車目掛けて石を投げる。石は御者であるプリアモスの妾腹の子であるケブリオネスに的中し、その額を割った。御者を失くした戦車は忽ちに制御を失い、ケブリオネスの骸を砂上に振るい落とす。
「見事な曲芸、ご苦労様でした」
パトロクロスは右手に取った槍で空気を揺らし、ヘクトールを挑発する。頭に血の上った男が、正常な判断を失うのは不思議なことではない。ヘクトールもまた、我が身を守る戦車から飛び降り、ケブリオネスの遺体を回収しようと駆けつけた。
パトロクロスが僅かに速く、ケブリオネスの脚を掴んだ。ヘクトールも負けじと頭を掴み、互いに遺体を自らの手元に置こうと逸って引き合う。
「あなたは以前、味方に叱責しておられたではないですか!!それとも自己と他者の分別もつかぬということですか!」
掴んだ頭を取り返そうと、ヘクトールが引く。そうかと思えば、パトロクロスは常人であれば片足が抜けるほどの力を籠めて、遺体を引き返した。
「見事な曲芸でしたので。いや、私もそのような御仁を味方に引き入れたかったのですよ」
パトロクロスの目には、アキレウスのような激情は燃え上がっていない。静かに、丁寧に敵を討ち取らんとする理知的な瞳が、ぎらぎらと輝いているばかりだ。これはさながら月のようにほのかな光で、燃え盛る炎の明かりを受けて、瞬く巨星そのものである。
ケブリオネスの遺体を巡って、戦いは再び激しさを増す。アカイア勢が槍を投げ、イリオン勢の勇士らが盾を構える。そうかと思えば、仕返しと言わんばかりの矢の雨が、アカイア勢に降り注ぐ。
アカイア勢は攻勢を強め、イリオンの勇士らを続々と討ち取っていく。日も傾き始めるころ、黄昏色の砂塵が吹き荒ぶと、滲んだ汗が落ち、目を細めるヘクトールの隙をついて、パトロクロスがケブリオネスの遺体を強く引っ張り上げる。ヘクトールは思わず頭を手放し、勇士の遺体はパトロクロスの戦利品となった。
その後、三度もパトロクロスは戦場と後衛を行き来する。何故なら、それほど彼の力は強力で、イリオン人の勇士を次々に討ち取ってしまったからだ。
ヘクトールが力を尽くして追えども、パトロクロスの力にはまず勝ることがなく、その脚力で距離を取られ、次の標的を守れずに臍を噛むこととなった。
しかし、英雄パトロクロスの命運もここに尽きる。彼は次の標的に近づき、討ち取らんと逸っていた。そのあまり、背後から迫るアポローンに気づくことができなかった。遠矢射る君アポローンは、パトロクロスの頭上で作った両手の拳を振り上げ、その兜を叩き割った。神の力を前にしては、流石の名工の兜もパトロクロスを守るには至らず、真っ二つに割れ、旋毛からは血が迸った。
バランスを崩したパトロクロスは、不屈の精神で立ち上がったが、その身にうら若き勇士エウポルボスの槍を受ける。才能ある若輩者の槍は急所を逸れ、パトロクロスは辛くも死を免れた。弱ったパトロクロスはとねりこの槍を引き抜き、仲間の元へと退こうとしたものの、朦朧としてふらつき、その脚力を生かすことができない。そこに駆けつけたヘクトールが脇腹を突き、生身でこれを受け止めたパトロクロスは力尽きた。
「ここまでですか・・・」
「理知的なあなたの口調、まるでアキレウスとは似つかわしくありません。もしやアキレウスに唆されたのですか。『ヘクトールを討ち取るまで、帰ってくることは許さぬ』と。それとも激情に抗えないアキレウスに、イリオンの女どもを根こそぎ攫ってこいとでも言われたのですか」
ヘクトールは槍を引き抜き、穂先の血を拭い去った。パトロクロスの脇腹からは腸が零れ落ち、血だまりが砂塵の上を黒く塗らす。
パトロクロスは脂汗に塗れた額に手を置いて、遠く天に目を細めながら、力なく答えた。
「アキレウスは・・・ああ見えて優しい人ですよ。今はヘクトール、あなたが、いいえ、あなた方が勝利を喜ぶ時でしょう。しかし、人は黒い死から逃れられない。ヘクトール、それはあなたも同じことです。アキレウスに討たれて、私と同じように大地に突っ伏して力尽きることになるでしょう・・・」
「あなたは、私の運命を知っているのですか・・・?」
答える前に、パトロクロスの視界を黒い死が蔽った。ヘクトールは遺体を砂塵の上に倒したまま、御者アウトメドンを追う。しかし、神馬は瞬く間にヘクトールから距離を取り、アウトメドンは辛くも死を振り払った。




