ゼウスの執り成し イリオン勢の大攻勢
では、狡知のゼウスの元へと向かわれた二柱の神はどのようであったのか。女神よ、遠矢射る君アポローンが、イーデー山に降り立ったその時より、語らせたまえ。
イーデー山には雷霆の落ちた痕跡があった。土の上に大きな焦げ跡ができ、草木が燃え尽きている。その様子をご覧になったアポローンは、戴いた月桂冠を整え、先に狡知のゼウスの足元に跪かれた。
ゼウスは紫雲を身に纏い、その上に腰を下ろして寛いでおられる。紫雲からは馨しい香の香りが漂い、これは煙を上げる地上の焦げ跡をかき消すほどの甘美なものであった。
「父君、馳せ参じました」
既にイーリスはその場で指示を受けておられ、ゼウスも心持ち穏やかなご様子で親し気に神慮をお伝えになった。
「というわけであるから、イーリスよ、くれぐれもポセイダオンの横暴を止めて、大人しくしておれと伝えろ。さもなくば、この命育むオケアノスの大海に、滅びの雷が轟くことになるぞ、とな」
「承知いたしました。すぐに神慮をお伝えいたしましょう」
その俊足、風の如きイーリスに否やはなく、イーデー山の草木が燃え上がるほどの速さで山を駆け下りていかれる。爽快な風がアポローンの頬を撫で、麗しい金の巻き毛を揺らすと、ゼウスは紫雲から僅かに前傾姿勢をお取りになって、聞き分けの良い我が子に語り掛けておっしゃる。
「さて、輝ける君アポローンよ、お前が聞き分け良く、優れた儂の子であることは周知のことだ。しかし、お前が儂の言う事を聞く気があるならば、先ずは共にイーデーの山からイーリスが伝令を伝える様を、共に見るのが上策だろう。お前はポセイダオンのことを好いておったからな」
「・・・昔の話です」
斜に構えた君アポローンがお答えになるのを、クロノスの子ゼウスは喜び、手を叩いて大笑なされた。アポローンは父に恭しく頭をお下げになり、イーデー山から戦場の方をご覧になる。一直線に海岸線へと向かう砂埃が、きらきらと色彩を変えながら舞い上がっている。
やがて、ポセイダオンの元に行かれたイーリスは、頂点に玉輝く錫杖を取り出され、ポセイダオンに跪いておっしゃった。
「大地揺るがす君ポセイダオン様。狡知のゼウスがおっしゃるには、戦いから手を引くか、お前に手ずから制裁を加えるかを選ばせてやろう、とのことです。どうか賢明なご判断を」
「何だと!?いいか、イーリス!ゼウスと私は血を分けた兄弟であり、三界のうち一つの統治者である。つまりは私もゼウスも同じ権勢の持ち主であって、ゼウスの指示に従う部下などでは断じてない。私はこれを止める気は毛頭ないぞ」
このように仰せになるので、イーリスは恭しく頭をお下げになって、ポセイダオンを御諫めになった。
「では、ゼウスがあなたに手ずから制裁を加えることを、認可するわけですか。そのように、お伝えしてもよろしいのですか」
「致し方ない。業腹だが、ゼウスの願いを聞いてやろう。ただしな、イーリス、私からもゼウスに伝言があるぞ。約束通りにアカイア勢の勝利とならなかった場合には、世界の半分を統べる神々がお前から離反するだろう。つまりはかわいいアテーナーに、白い腕の女神ヘーラー、ヘファイストスにヘルメイス、さらにはお前に地位並ぶ私もだぞ。必ずやよくよく伝えておくように」
こうお伝えになって、ポセイダオンは大海の中へと戻って行かれる。その様をしかと見届けた狡知のゼウスは、頬杖をついてにやりとお笑いになって、我が子アポローンを見おろしておっしゃった。
「・・・今度はお前の番だ、アポローン。ヘクトールに再び勇気と力を分け与えよ。お前が面倒を見てやるのだ」
このように神意をお伝えになると、ゼウスは雷霆で大地を突き、百総のアイギスを拾い上げて、アポローンにお授けになった。これを確かに賜った輝ける君アポローンは、改めて恭しく頭をお下げになると、短く「確かに承りました」とだけおっしゃって、イーデーの山を降って行かれる。
イーリスが荒々しい嵐であれば、アポローンはさながら優美な戦馬のよう。その美しい巻き毛を風に揺らされつつ、颯爽と山を駆け下りる様は、ちょうど風に靡く草原を駆る馬が、心地よく風を掴んで草葉をほしいままに揺るがすよう。
斯様に優美な様子でヘクトールの元へとお降りになったアポローンは、薄っすらと目を開け、まさに起きようとするヘクトールを見おろしておっしゃった。
「豪勇ヘクトールよ。目を覚ませ」
「・・・どなたか高名な神でしょうか。あなたがいらっしゃらなければ、アカイア勢の内でも武勇優れたアイアースに蹂躙され、イリオン勢は惨めに大地に突っ伏していたことでしょう。勿体ないお言葉、確かに受け取りました」
ヘクトールは身を起こし、まさに戦場に繰り出さんとする。遠矢射る君アポローンは、ヘクトールの前に歩み出て、弓弦を一つ爪弾かれた。たちまちにヘクトールに力が戻り、勇気を取り戻したヘクトールが戦場へと戻っていく。
「輝く兜のヘクトールよ。お前とイリオンの民を、私は嫌いではない。どのような結末になろうとも、お前たちのことを守ってやりたいと思っている」
ヘクトールが前線まで一気に駆けだすと、名だたる勇士らの前になす術もなく蹂躙されたイリオン勢の戦士たちが、希望を見出して盾を前に構える。すると、英雄たちに混ざって居丈高に振舞っていたアカイア勢の戦士たちは忽ち怯えて逃げおおせ、大将たちが前に歩み出た。青銅の兜眩いヘクトールは、最前線へと躍り出ると、先ず盾の裏に隠れたパリスを労い、続いてパリスを守るアイネイアースの武勲を称える。
「良く守ってくれた。アイネイアースはイリオンの誇りだ」
「いやぁ、今に始まったことではないですがね」
その様子をご覧になったアポローンは、怯えて背中を見せるアカイア勢の勇士たち目掛けて、銀の弓を引き、黄金の矢をお放ちになった。たちまち敗残者たちは傷を受け、その傷口から蛆虫が湧きだす。口からは白カビが吐き出され、カビは無惨にも黒の血に染まっていた。
ヘクトールがすかさず敵の中へと躍り出ると、槍を突きだし、アカイア勢の勇士らを次々に討ち取っていく。勢いづくイリオン人の中で、パリスは、ヘクトールを背中から帰り討たんとする勇士を見つける。
「兄君!」
咄嗟のことで弓を射かけることができず、手近にあった血濡れの武器を突き出せば、ヘクトールは辛くも黒い死から逃れることができた。
パリスはこの時自らの手を見て、慄き震え上がる。手ずから人を突き刺す感触が、槍越しに伝わったためであった。そして、自らの手を見れば、それは黒く固まった血で汚れている。咄嗟に掴んだ槍はダナオイ勢の名も無き戦士のもので、大地に突っ伏し、戦塵に塗れて虚ろな瞳でパリスを睨んでいた。
まさにアイデスに捧げられたばかりの命に触れ、パリスは恐怖に駆られ、震える手で髪をかき乱し、悲鳴を上げる。これに気づいたヘクトールが、発破をかけて大声で言う。
「アレクサンドロス!お前のお陰で私は生かされたぞ!今も生きているぞ!」
すると、パリスの手の震えが自然と止まり、その手を美しい男神の手が包む。輝ける君アポローンの長い睫を、船上の風が揺らす。
「・・・震えは止まったか」
パリスは静かに一つ頷いた。
「芸術の神、治療の神、預言の神、光明の神、畜産の神・・・。どれほど麗しい言葉で着飾ろうとも、私の本質は災いを齎す者、流行病の神だ。悲しいかな、お前の力にはまるでなれないな」
「そんなことはありません。アポローン様がお守りくださったことは、イリオン人ならば誰しもが知っている事。まして、私は何も捧げられないのに、たくさんの恩寵を授かりました」
アポローンは神にも見紛うパリスから御手を離し、再び矢を御射掛けになる。パリスに手ずから注ぎ込んだ同情に、酷い恥じらいを覚えて隠そうとされたのであった。
アポローンは、鶉に化けたゼウスと女神レートーの不貞の子でもあらせられる。ヘーラーは嫉妬に駆られただけでなく、この穢れた生い立ちのアポローンを酷くお疎みになった。御柱は自ら呪いを吐き出すかのごとく、秩序立ち、規律正しく、芸術に秀でた神であろうとなされた。自らでも、自らの求める物事をご存じでいらっしゃらない。外の者の望みは良く知る神であらせられるのに。
射掛けた矢はアカイア人の兵士に当たり、その者は様々な病に侵されて地に臥せった。死屍累々の戦場を、末端のイリオン人は喜び武具を剥ごうと試みている。
(人間などどれも同じだ。何と醜いことだろう)
斜に構えた君は、冷ややかに遺体に群がるイリオン人を睥睨なされた。その瞳の中に、今まさに盾の裏に隠れて、必死にヘクトールを助けようとするパリスの姿は映らなかった。
「イリオンの勇士達よ!今はどうか、アカイア人を退けるために力を使ってくれ!君たちの労苦には必ず報いるから!」
ヘクトールの声が後方に響き渡る。これをお聞きになったアポローンは、はっと我に返られると、前線へと視線をお戻しになる。そこには、砂塵に塗れて敵に抗うヘクトールや、狼狽えながら矢を射るパリスの姿があった。
アポローンは自ら進み出て、一息で防壁までお進みになる。そして、いともたやすく強固な防壁を蹴落とされた。すると、イリオン人がこの中へと続々と侵入していった。
ヘクトールが前線に立ち、続々とイリオンの勇士らが続く。老ネストールの子らや、大アイアース、テウクロス、小アイアースらがイリオン人の大軍をそれぞれの船から退けようと試みる。それを嘲笑うかの如く、黄金の矢が逃げ惑うアカイア人を次々に射殺していく。
アイアースの船の間際までヘクトールが迫る頃、パリス率いる弓兵たちは、この屈強な男を何とか弱らせようと、一斉掃射を試みる。空を覆う矢の雨が、アカイア勢の船に襲い掛かり、アイアースも矢傷を受けて負傷した。
ゼウスへ祈る声があちこちの船から聞こえる。最早アカイア勢はイリオン人を押し留めることすら難しい有様となった。
この時、パトロクロスは、エウリュピュロスの傷を癒し、物語をして心を慰めているところであった。激しい掃射の音が甲板に響くのを聞くや否や、パトロクロスは物語を切り上げて、アキレウスの元へと急いだのであった。
神様紹介コーナー:
ポセイダオン
ゼウス、ハデス(拙著ではアイデス)と並ぶ三兄弟で、海を司る神である。
ティタノマキアではキュクロプスから三叉の鉾を得て、これを用いて活躍し、これによって海と大地を揺るがす神格を得た。
地震もつかさどる神であり、アトランティスを治める統治者でもある。
トロイア戦争では、ゼウスに謀反を起こそうとして失敗し、トロイアでの労働を命じられた際に、その対価を受け取れなかったことに怒り、終始アカイア勢に味方する。
なお、トロイア人がしきりに籠る防壁は、まさにこのポセイダオンの労働によって築かれたものである。
また、例に漏れず好色家であり、かなりの女性と関係を持っている。
拙著では、荒々しく、強い憎悪を募らせる神として描いている。ただし、理性的な部分も垣間見えるような成熟した人格を意識して描いた。




