ゼウスの瞋恚は果てもない
イーデー山で空を撫でる、偉大な主神ゼウスがお目覚めになった時、その眼下には戦線を固めるイリオン勢の姿があった。立ち向かうのは凄まじいダナオイ勢の猛将達、即ち両アイアース、老イドメネウス、そしてアトレウスの子メネラーオス。対するは、汗を滲ませて矢の嵐を請け負うプリュダマス、凄き眼光でアイアースと槍を交えるヘクトール、細腕に筋肉を浮かび上がらせ弓弦を引き絞るパリス。多くのダナオイ勢が防壁から外に出て、堀を囲む戦車の中で息も絶え絶えに項垂れている。そして、アカイア勢の中に紛れて、発破をかけて回るポセイダオンの御姿があった。
ゼウスがお眠りになった雲の隣には、細目を開けて微笑みをお零しになるヘーラーの御姿がある。戦列の右から、左から襲い来る鋭い槍の穂先を辛くも避けるヘクトールも、アイアースの強き槍を受け止め切れるはずもない。人の限界を遥かに超えた大攻勢を全て受け止めたヘクトールは、血反吐を吐きながら、殆ど失われつつある意識を、冷たい地面の上に晒した。
みるみるうちに頭に血を上らせたゼウスは、黒雲から雷霆を取り出すと、凄まじい怒号をお上げになった。
「ヘェェェラァァァァ!謀ったなぁ!」
びくり、と肩を竦ませる白い腕の女神ヘーラーを、ゼウスは雲の上から投げ落とされた。女神はイーデーの木枝に肉体を傷つけられながら大地へと落ち、やがて山頂の最も大きな岩に首を叩きつけられた。落命できぬばかりに、首に深い傷を負われてのたうち回るヘーラーに跨り、その首筋に雷霆を突き付けられたゼウスは、その深い彫りのあるお顔に憎悪を滲ませて、荒々しい吐息を妻に浴びせられた。
「前の時のように宙吊りにされたいか・・・。いいや、もっと酷いものをだな。貴様の下らぬ謀が、その身を破滅に導くのか、それともその身を助くのか、答え合わせをしてやろう・・・」
しかしながら、牛眼の女神ヘーラーは、痛みと恐怖に身悶えされつつも、自らの謀の最も強かなところを、見事に主神に披露されるべく怯え切った笑みを零されておっしゃった。
「あなた、何を勘違いなさっているの?ポセイダオンはきっと、御心のままに、つ、つまりはあなたがギリシャの子供達を酷い目に遭わせることに思う所があって、あのような行動に出たのですわ。さっきも言ったとおり、私は初めから、あなたと臥所を共にする気など毛頭ありませんでしたのに。どうしてこんな酷いことをなさるの・・・?」
ゼウスは喉の奥から僅かな吐息を零されると、間もなく冷静になられて、襟元をお正しになり、妻に猫なで声でこのようにおっしゃった。
「そうかぁ・・・。ではヘーラー。お前はここにアポローンとイーリスを連れてこい。アポローンはその名高い弓を用いて、ヘクトールを再び前線で戦えるように助けてやるよう、イーリスには、ポセイダオンに、すぐさまオケアノスの底に帰り、私の言うようにおとなしく待機しておれ、と厳しく諭すようにとな」
これに応えてヘーラーは、先ず煌びやかなお召し物を取り払われ、オリュンポスの峰へとお戻りになる。
ゼウスの玉座を囲む神々は、帰還されたヘーラーを讃えて献杯をお捧げになる。神々のうち、掟を統べるテミスがヘーラーにお声掛けされた。
「ヘーラー様。ご気分が優れないようですが、何事かあったのですか?」
他の神々の献杯は殆ど無視され、ヘーラーがテミスから盃をお受け取りになっておっしゃった。
「聞かないでちょうだい。ゼウスの気性が粗いことはあなたも良く知っていることでしょう?全く強情なお方です。私もお心を動かそうとなどと、愚かなことをしたものですが・・・」
ヘーラーが献杯を無視されるので、他の神々は顔を見合わせ、渋々といった風に椅子にお掛けになった。一方で、一人塞ぎ込んでおられたアレースの御姿をご覧になったヘーラーは、テミスから受けた盃を傾けつつ、おっしゃる。
「アレースも気の毒なこと。大事な息子アスカラポスが亡くなられたのだもの。心中察するに余りあるわ」
このようにヘーラーがおっしゃると、アレースは太腿を叩き、並々ならぬ形相で、装具を手に取られ、お召しになった。
このただならぬ行動に、ゼウスのお怒りが取り返しのつかぬことになると警戒されたヘーラーは、アレースが身に着けた兜や楯を、早速引き剥がされて、金切り声でお叫びになる。
「アレース!いつもあなたはおろかですね!ゼウスが怒ったらどうなるか、分かっているのでしょう?」
「止めてくれるな、母君!俺が親父の雷に撃たれたところで、かわいい我が子を失くした胸のむかつきに比べれば大したことじゃねぇ!もし報復も出来ないとなれば、死体と一緒に転がった方がずっとましだね!」
暴れ回るアレースから槍も何もかもを取り上げられたヘーラーは、アレースを強引に椅子に押し戻されると、ようやく盃をテミスにお返しになって、二柱の神を館の外へとお呼び出しになった。お呼び出しを受けた女神イーリスとアポローンが、ヘーラーの元へとお集まりになった。
「輝ける君アポローンよ、あなたのその麗しい演奏に代わって、荒々しい戦の騒音をお鎮めになるように、ゼウスがお呼びです。すぐにその竪琴を置き、男達に災いを齎す弓と矢をお召しになって、イーデー山へとお越しください」
「父君の願いであれば、分かりました」
アポローンに否やはなく、竪琴をお仕舞いになると輝く弓と矢筒とをお取りになって、オリュンポスの峰を降って行かれた。
アポローンの御姿が見えなくなると、ヘーラーは忽ち不機嫌を露わになされて、苛立たし気に声を荒げておっしゃるには、
「イーリス!ポセイダオンが戦場に出るのを、諫めてくるようにゼウスから指示を受けました。すぐに詳細を聞くために、ゼウスの元へと向かいなさい!」
すると、ヘーラーのお声がけに即座に応じられたイーリスは、空に三色の足跡を残してイーデーの山へと降って行かれる。イーリスの御姿が見えなくなると、ヘーラーは肩を怒らせながらご自宅へとお戻りになる。ゼウスと隣り合う御座にお座りになり、苛立たし気に肘掛けを叩かれれば、ヘスティアーのお守りになる炉の中で、火炎が激しく揺らいだ。
「ゼウス、ゼウス!忌々しい私の夫め!どうしてお前はギリシャの子らを殺そうとするのだ!イリオン人だけを根絶やしにすれば宜しいでしょうに!」
炉の火が、煙を燻らせて消える。炉を守るヘスティアーが火ばさみをお取りになって、薪を翻せば、炎は高く燃え上がり、雪降らすオリュンポスの御座を心地よく暖める。そして、炉の中から黒い炭を一つ取り上げて、小さな鼎にお移しになり、これをヘーラーの麗しい足元にそっと添えられた。
「ヘーラー様。あまり冷えますと、御心も乱れましょう。どうぞ」
「ヘスティアー。あなたはどちらの味方?私が癇癪もちであることが悪いのかしら?それとも、ゼウスが身勝手なのが悪いのかしら?」
白い腕の女神ヘーラーの、このような問いかけに対して、ヘスティアーはサンダルを結んだ眩い足にやけどの無いように、丁寧に鼎に覆いを施されつつ、以下の通りにお答えになった。
「誰それの何が悪いからといって、どちらがより悪いなどということはございませんよ。どちらも悪く、また正しいところもございます。例えばヘーラー様であれば、癇癪を起されるのは悪いことでしょう。しかし、怒りは至極真っ当で、夫の不貞、それにギリシャの子を守るご意思は尊ぶべきものです。狡知のゼウス様であれば、神々のご負担を考えて、人を減らす試みは理に適っておりましょう。ですが、その代償はいかがでしょう?お分かりになって?」
ヘスティアーは、我が子をあやすようにヘーラーに手を焼かれ、そして、炉の前に戻って仕事へとお戻りになった。
神様紹介コーナー:
アレース
荒々しく恐ろしい戦の神。アテーナーと異なり、戦争の狂騒・恐怖・殺戮などの負の側面を請け負う神であり、神の内でも秀でた容姿を持っている。しかし、戦の神でありながら、ギリシャではあまりいい逸話がない。英雄にも負けるわ、巨人に監禁されるわで、散々である。
ところが、ギリシャ神話の中でも最高の大出世を果たした神でもある。つまりはローマ神話におけるマルスに当たり、主神に並んで絶大な支持を得た。ギリシャの理想の青年像がアポローンならば、ローマの理想の青年像がアレースと、荒ぶる軍神を好むローマ人と、理知的で美しい音楽の神を愛するギリシャ人の文化の違いが垣間見える。




