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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
52/99

神々の執り成しに負傷する勇士達

 神々の思惑は容易に人界の理を捻じ曲げる。今まさに防壁で抵抗するアカイア勢の中に紛れて、ポセイダオンがアカイア勢に勇気を吹き込み、発破をかけて回る。みるみる力と勇気を取り戻したアカイア勢は、防壁の中という優位と数的な優位を頼みとして、再びイリオン人の前に立ちはだかった。これも、白い腕の女神ヘーラーが、ゼウスの瞼を心地よい眠りの中に沈めた為に、成し遂げられた策謀である。


 一時とはいえ神の加護を失くしたトロイア勢は、徐々にアカイア勢に圧され始める。

 ヘクトールは、宛ら急峻な山を駆け下りる大岩の如く、先陣を切って次々と敵を討ち取ったが、それも平野に至るまでの栄華であり、ポセイダオンの選び抜いた勇士達が立ちはだかると、遂にその勢いも押し留められた。

 鋭い穂先と、隙間なく並べられた大盾に、ヘクトールも飛び退き、体制を整えることを余儀なくされる。


「戦友たちよ!何とか踏ん張ってくれ!私にゼウスの加護があるならば、強者揃いの敵さえも、長く耐え凌ぐことは出来ない!」


 兄の激励を受けて、プリアモスの子らの中でも胆力のあるデーイポボスがこれに答え、兄の代わりに前線へと躍り出る。


「我こそはイリオンの勇士と自負する者は、一人残らず俺に続け!」


 デーイポボスは牛皮を張った大盾を構え、襲撃に備える。アカイアの勇士メリオネスが、不可視の位置から繰り出した槍を、大盾で受け止める。しかしその反動はすさまじく、デーイポボスは衝撃のあまりに思わず盾を体から離して、目を瞑って受け止めた。薄くその目を開けば、槍は穂先からぽっきりと折れ曲がっていた。


 メリオネスは苛立たし気に距離を取り、手を痺れさせるデーイポボスに次の槍をくらわそうと、陣屋に駆け戻っていく。


 アカイア勢も負けじと抵抗する。メリオネスに代わって、アイアースが敵を討ち、イドメネウスが敵を打ち倒した。戦利品を陣屋へ運び込み、或いはそれを勇将ヘクトールに阻まれ、前線の喧騒はすさまじいものとなる。

 盟友を討たれ報復に燃えるデーイポボスは陣屋へ遺体ごと武具を運ばんとするイドメネウス目掛けて槍を投げ込んだ。すると、イドメネウスはこれをまともに取り合わず、さっと躱して二本の支柱で強度を増した、青銅の大盾の裏に身を隠した。しかし、デーイポボスの放った槍は、見事盾に当たり、跳ね返ると、敵将一人の鳩尾に当たる。


「いよぉし、冥府の道先案内はそいつに任せたぞ!」

 デーイポボスがこう言うので、イドメネウスはまた一人、アルカトオスを突き殺し、得意顔で言い返す。


「デーイポボス!一人に対して三人、若輩者の減らず口には、この程度で十分釣り合うか?来るなら儂に向かってこい!それとも怖いのか?」


 挑発するイドメネウスの背後には、海神ポセイダオンの加護がある。デーイポボスは思案の末、同じく神に愛されたアイネイアースを探し出し、助けを求めて言う。


「イドメネウスにアルカトオスが討たれたんだ!遺体を回収されないように、一緒に守ってくれ!」


「分かりました!すぐに仇を取ってみせます!」


 そう答えたアイネイアースは、すぐさまイドメネウスの前に躍り出て、見事な肢体を盾から覗かせる。イドメネウスは怯むことなく、同じく仲間を呼んで対抗した。

 戦列を組むイドメネウスの姿を見て、アイネイアースはデーイポボスに訴えかける。


「おぉっと、名将揃いではないですか!こちらも名だたる方々をお連れしなくては厳しいかと!」

「分かった!手あたり次第連れてくる!」


 デーイポボスはこう答えると、真っ先にアンテノルの子豪勇アゲノルを呼びつけ、近くで弓を引くパリスにも声を掛けた。


「アレクサンドロス、お前も来い!」

「え、槍と盾はちょっと・・・」


 パリスの手元には見事にしつらえた弓矢だけで、仲間を守る盾も、精強な槍もない。それでもデーイポボスは強引に襟元を引っ張り、無理矢理連れ出して言う。


「い、い、か、ら!俺の盾の裏にでも隠れてやがれ!」


 パリスは以前にデーイポボスがした約束を思い出して思わず吹き出し、強引な徴収を受け入れて戦列に並ぶ。


「王子二人にアゲノル殿ですか!私が従わせるというのは痛快ですな!」

「軽口は良いから!」


 得意になるアイネイアースを、デーイポボスが諫めると、不思議とトロイア側の戦列に力がみなぎる。日常の訓練の如き和やかさが、彼らの肩に籠った力を和らげた。


 さて、一人の遺体を巡って、女神の御子アイネイアースと、ポセイダオンの加護持つイドメネウスがぶつかり合う。互いの槍を交え、柄がぶつかりしなる様は、さながら首の長いキリンの雄が、雌を取り合って首を打ちあうよう。イドメネウスの放った槍がイリオンの勇士を斃すと、デーイポボスの手から報復の槍が放たれる。アイネイアースとの打ち合いに水を差されたイドメネウスは、その槍を軽々と避ける。王子の槍は虚しく空を裂き、流れた槍にダナオイ勢の勇士が討ち取られる。

 この遺体を巡り、再び激しいぶつかり合いが起こる中、槍を持って戦列に参加していたメリオネスの突き出した槍が、デーイポボスの腕に突き刺さる。たちまち盾を落として頽れるデーイポボスを、盾の裏から弓矢で応戦するパリスは全身で受け止めた。

 メリオネスに向けて、パリスは鏃を向けて応戦する。槍さえ手元に戻れば簡単に討ち取れる相手であったが、メリオネスは強壮なデーイポボスを優先して、上腕から槍を引き抜く。腕からはどくどくと紅の血が溢れ出し、パリスの腿を伝って膝まで滴り落ちる。次なる攻撃に抵抗して、パリスはメリオネスの予備動作に合わせて、デーイポボスの持つ重い盾を思い切り突き出した。盾は槍の穂先を捉え、メリオネスの上顎付近まで石突を押し返す。打撲を避けたメリオネスは戦列の後ろに飛び退き、負傷したデーイポボスの全体重がパリスに圧し掛かった。


「だ、誰か!誰か、誰か!」


 パリスが慌てて声を掛けると、プリアモスの子ポリーテースが駆け付け、パリスに盾を預けて戦馬に乗せ、町へと退いていく。守り手を失ったパリスは友人であるハルパリオンの盾の裏へと潜り込んだ。


 激戦は続く。プリアモスの子ヘレノスは、パリス同様に弓に持ち替え、遠方から敵の腕を狙う。槍を構える手を失ったアカイア勢は大地に血を滴らせ、戦線を退いて逃れて行く。ヘレノスの矢がついにアカイア兵のこめかみを撃ち抜くと、怒りに震えたアトレウスの子メネラーオスがヘレノスに間合いを詰めた。


「臆病者のトロイア人が!」


 ヘレノスは咄嗟に弓弦を引き絞って、メネラーオスを狙う。ヘレノスの矢は見事にメネラーオスの胸当てに的中したが、これは弾き返され、メネラーオスの槍がヘレノスの腕から弓を落とした。血溢れる腕を抑え、ヘレノスは戦線を離脱する。メネラーオスは続いて攻め来るペイサンドロスを討ち取ると、大地を揺るがすほどの大音声を上げて言う。


「トロイア勢よ!臆面もなく我々の陣地に攻めてきたことは褒めてやるが、ちょうど貴様らの将ヘレノスのように、逃げ帰ることになるだろうよ!なにせ人妻を奪うほどには、面の皮だけは熱い連中だからな!構わず向かってくるがいい!全て薙ぎ払ってくれよう!」


 これを受け、パリスの友、ハルパリオンはメネラーオスを狙って飛び掛かる。パリスが悲痛な声を上げて、以下のように諫めるのも聞く耳を持とうとしなかった。


「挑発に乗らないで、メネラーオスは危ないよ!」


 飛び掛かったハルパリオンを大盾が阻む。彼は槍を突きだしたものの、盾を貫くには至らず、ハルパリオンもやむを得ず退いた。すかさず、無防備な股目掛けて、メリオネスが矢を放つ。狙いは僅かに内側に逸れ、ハルパリオンは自ら矢を弱点に招じ入れた。


「ハルパリオン!」


 パリスは大声で叫ぶが、しかし、すぐにでも駆け寄りたいと逸る気持ちも、無情の戦場はこれを許さない。メリオネスはハルパリオンの遺体に近づくイリオン人を狙っていたためだ。パリスは怒りと悲しみに震える腕で弓弦を引き絞り、ハルパリオンに近づくものを討ち取らんとするメリオネスを狙う。放たれた矢はすさまじい勢いで勇将メリオネス目掛けて飛んだが、殺気に気づいたメリオネスはこれを避け、その場にいたエウケノルの耳介を射抜いて顎まで貫いた。パリスは、仲間がアカイア勢に引きずられていく様を見て、涙を呑む。あえなくアイネイアースの盾の裏へと引き返した。


 一方、再び戦場へ舞い戻ったヘクトールは、強壮なるテラモーンの子アイアースと、オイレウスの子、小アイアース率いる軍勢に阻まれていた。凄まじい勢いで先陣を切ったヘクトールは、寡勢のイリオン勢の中で、さらに孤軍奮闘を余儀なくされていた。その様を、間近で見ていたプリュダマスは、以前のように意見を一蹴されるのではないかと疑いつつも、ヘクトールに提案して言う。


「輝く兜のヘクトール王子、ここは一旦頼れる将兵を集め、散逸した兵力を束ねるのはいかがですか?本陣ということもあり、敵の数は尋常ではありません。いくらあなたが勇猛な戦士とは言え、一人ではとても立ち向かえないでしょう。個別に打ち倒されれば最早取り返しもつかないことになりますよ」


 ヘクトールは、相対する敵将、その錚々たる面子を一瞥して、深く考えたのち、プリュダマスに笑いかけて言う。


「・・・そうだな!また仲間をここに集めよう!少しの間、戦線を維持してくれるか?」


 プリュダマスは頷きで返した。ヘクトールはすさまじい速度で戦線を離脱すると、頼りになる勇将の名を次々に呼び叫んだ。


「デーイポボス!ヘレノス!アイネイアース!・・・どこだ、どこにいる?」


 散々探し回ったものの、兄弟の姿を見かけないと気づくなり、ヘクトールは息を荒立てて立ち竦んだ。心臓が小さく委縮する感覚に、冷汗をかくヘクトールは、アイネイアースの盾に身を隠したパリスの姿を認めた。


「アレクサンドロス!また身を隠しているのか!?デーイポボスやヘレノスはどうした?」


 その声はすさまじく大きく、喜びを交えたものであったが、周囲には罵声のように聞こえたであろう。パリスもあまりの声の大きさに身を竦ませ、やや怯えた風に振り返る。


「兄さん・・・。デーイポボスは腕を突かれ、ヘレノスも、腕を・・・。ハルパリオンも・・・。その・・・」


 負い目を感じていることを感じ取ったヘクトールは、改めてパリスの肩に手を回すと、ぎらつく青銅の兜の中から、優しい眼差しを向けて言う。


「いや。黒い死から兄弟のことを良く守ったな、アレクサンドロス!今度は私のことも守ってくれ!」


 そう言うと、ヘクトールは縮こまる弟に手を差し出し、身も竦む思いのパリスも心を奮い立たせて手を取る。二人はイリオン勢の勇士らに身を固めるように指揮を執り、プリュダマスの元へと兵を一所に集めながら戻った。


 両アイアースの猛攻に、いよいよ追い詰められる最前線のプリュダマスは、盾を突き出してオイレウスの子小アイアースの放つ矢を受け流し、テラモーンの子大アイアースの太い腕から放たれる槍を寸でのところで躱して、次々と大地に武器を落としていく。滲み出る汗は戦場の血潮にも劣らず凄まじく、水分を求める肉体が悲鳴を上げて震え上がり、冷たい温度さえ感じ始める。限界寸前の彼のもとに、美々しい青銅の兜が反射する光が届いた。


 敵将大アイアースが顔を歪めて笑う。


「おうおう。俺に勝てなかったヘクトールに、臆病者のパリスか。プリアモスが泣きじゃくる様が、今から楽しみだな。それとも、お前の愛馬がもっと駿足ならばと嘆くぐらいに、怯えて逃げるのも楽しみだ。」


「あまり汚い言葉を使うなよ、アイアース殿」


 ヘクトールは眩い光を映す兜の裏から、鋭い眼光を覗かせる。一陣の風が吹き荒び、戦場に鷲が舞い上がった。


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