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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
51/99

ヘーラーの企み

 テテュスのお嘆きになる声が海の中から響く。このままアガメムノンが心変わりもせず、あるいはゼウスがテテュスの懇願を蔑ろにされれば、アキレウスは武勲も名誉もあてがわれずに、不名誉な退却を余儀なくされるのではないか。わだつみ統べる三叉の槍は、女神のお嘆きになる声に心を揺さぶられ、この美しい女神に寄り添われて囁かれる。


「テテュスよ。もし明知のゼウスがこれっぽっちもお前のことを顧みることが無いようならば、その右腕とも言うべきこの私が、抗してみよう。心を慰めるほどにしかならぬやもしれぬが」


「そのようなことができるのですか。して下さるのですか、大地を支える君ポセイダオン様」


「やれるだけのことはやってみせよう」


 そうおっしゃると、ポセイダオンは逞しい体躯を晒したまま、波をかき分けてご浮上なされた。

 同じ頃、ギリシャのあらゆる大地は凄まじい大災厄に見舞われていた。即ち、白い腕の女神ヘーラーが、激しく地団駄を踏み、朽ちた家屋や、干上がった土壌を砕き、倒してしまわれたのである。

 猛り狂うばかりに視野の狭くなった牛眼のヘーラーは、憎々し気にイーデーの峰を見おろされた。そこにおわすのは言わずもがな、神々の女王の夫にしてクロノスの御子ゼウスであらせられる。その麗しい髪を掻き毟り、狂騒に任せるヘーラーが、オリュンポス峰の一帯まで響くほどの絶叫をされておっしゃるには、


「嘆かわしい、恩知らずの醜男が!!これほど聞き分け良い女になってやったというのに!どこまでも強情なクソジジイめ!かわいいギリシャの子供達より、あの憎たらしいヘクトールがお好きなようだね!!」


 ヘーラーのお怒りは黄金の座居並ぶ山頂に激しい吹雪を巻き起こした。あまりの冷たさに耐え兼ねて、ヘルメイスが席を外される。ヘスティアーが静かに炉に薪をくべ、吹雪にも負けない暖をお取りになった。


 そんな折、ヘーラーはダナオイ勢が背を向ける水底から、三叉の槍持つ男神ポセイダオンが繰り出してくる様を目ざとく見つけられた。そこで、かき乱した髪をそのままに、不敵な笑みを零されると、すぐに吹雪は止み、代わりに涼風がヘーラーの髪を梳きほぐした。


 ヘーラーはご自分の神殿にお戻りになると、早速とお体を清められ、婚姻の礼に赴く時のように、丁寧にお化粧を始められた。馨しい香を焚きつけた油を体に塗布されれば、お体はたちまち初夜の娘子のような輝きぶり。御髪は丁寧に櫛を入れられ、艶やかな髪をお巻き上げになると、その美貌はうら若き男神アポローンが、たおやかに人の娘を蠱惑する時の如く、比類なき麗しさとなった。

 装いも、機織りの神でもあらせられる、アテーナーの手なる見事な飾りのキトンをお召しになった。より腰周りを細く、胸を強調して見せるべく、こてこてと黄金の装飾が百総も垂れ下がる帯を、腹の高さでお締めになった。

 さらに、大きな真珠の耳飾りをお召しになれば、その輝きは誠にこの世のものとは思えぬほど。加えて、純白のヴェールを頭からお召しになるという、豪奢な装いぶり。その見事な御姿で、笑み愛ずる君アフロディーテをご訪問なされると、アフロディーテはちょうど、神々から離れた居間で、寛いでおられた。


「ねぇ、アフロディーテ。あなたは男女の喜びを遍く知る女神でしょう?トロイアの戦争よりずっと楽しい戯れのために、手を貸しては下さらない?」


 笑み愛ずる君アフロディーテは、頬を紅潮させ、まさにゼウスに嫁がんとするような恥じらいに富んだヘーラーをご覧になるなり、喜んでお答えになる。


「まぁ、ヘーラー様!なんとお美しいの!?私は何をすればよいのかしら?色恋沙汰ならば、私に勝る女神はおりませんもの、きっとお役に立てますわ!」


「ありがとう。テテュスと大海オケアノスの仲を取り持って、交わりを取り戻されるように取り図ろうと思っているの。わたくしにはあのお二方に御恩があるのですよ。レアから私を預かって、養って下さったの。そのお礼とでも言うべきかしら」


 このようにたおやかにおっしゃれば、笑み愛ずる君アフロディーテは、自らの胸元から刺繍された紐を取り出されると、これを白い腕の女神ヘーラーにお渡しになった。


「この紐には、恋愛や男女の戯れに必要な様々な物事が込められております。ヘーラー様のお望みになる、『愛欲』や『恋慕』は勿論のこと。どうぞお召しになって、お二方の仲を取り持って差し上げて」


「ありがとう。大事に使わせていただくわね」


 ヘーラーはこの紐を懐にお収めになると、オリュンポスの峰を降られた。足元をお汚しになっては大変と、大地には足をお付けにならず、道を歩かれる。そして、レムノス島までお降りになると、その場所で、親し気におっしゃった。


眠り(ヒュプノス)。ゼウスを眠らせることは出来るかしら。わたくしの御願いを聞いてくれれば、ヘファイストスの黄金の椅子を差し上げるけれども」

「とんでもないことをおっしゃいますね!畏れながら申し上げます。ヘーラー様、ゼウス様だけは、私が容易に眠らせることも叶いません。もしそうしてしまったならば、お怒りを受けて、ヘラクレス、お忘れでないでしょう?あの英雄の時のように、危うく消し去られてしまうでしょう。(ニュクス)が匿って下さらなければ、今頃どうなっていたことか・・・」


「では、あなたの望むいい女もお付けするわ。どうかしら。ステュクス川に誓っても良くてよ」


 ヘーラーがこのようにおっしゃると、眠りはつい鼻の下を伸ばされて、易々と手のひらを返してお答えになった。


「えぇ、えぇ。では、パシテエを私に授けて下さいませ。ヘーラー様の御子の中でも、風雅で麗しくお見受けするお方です」


「もちろん、そのように手配いたしましょう」


 神々の女王と契りを結ぶと、ヒュプノスは早速イーデー山へと赴き、その最も背の高い木へと登られた。そこからならば、クロノスの御子ゼウスのことも、容易にご覧になることができた。


 ヒュプノスに遅れて、女神ヘーラーがイーデー山をお上りになる。女神の気配に気が付くと、ゼウスはたまらず不愉快そうに顔を顰め、登ってくる方を睥睨された。


 ところが、その御姿の典雅なこと。ゼウスはみるみる鼻の下を伸ばされると、興奮気味に声高らかにお尋ねになった。


「どうしたヘーラーよ。こんなところに、素晴らしい装いで来るとは」


 すると、女神ヘーラーは、男を魅了するしなやかな指使いで、唇を湿らせ、たおやかにお答えになった。


「えぇ、喧嘩しておられるオケアノスとテテュスの仲を取り持ちたいと思いましてね。ほら、私にはお二人に御恩があるでしょう?でも、勝手に出かけてしまっては、あなたが怒るかもしれないから、先にこちらにお邪魔したのですよ」


 すると、ゼウスはヘーラーを肩に抱き、鼻息も荒々しく微笑まれる。


「そんな喧嘩のことなど、後日で良いだろう。もう抑えられぬ。今は儂と共に、仲睦まじく喜びを分かち合おうではないか」

「嫌だわ、こんな開けたところで。閨ならオリュンポスにあるではないですか」


 そう言うヘーラーは、企みをお心の内に隠し、さながら照れ隠しをする如くヴェールで口を覆われた。ほのかに赤みがかった柔肌に興奮され、ゼウスは乱暴にヘーラーを抱きとめ、黄金の雲で周囲を覆われた。


「いや、駄目だ。今すぐに共に眠ろう」


 こうしてゼウスが抱きとめるや否や、眠りは大神の瞼を心地よく覆い、ヘーラーの神意の通りに明知のゼウスを眠らせた。


 ヘーラーは声高らかに笑い、海原に居並ぶ船団に視線を向かわせる。ポセイダオンが今まさに、その砂浜に足をつけ、上陸なされるところであった。


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