門扉を巡る戦い
逃げるアカイア勢に、追うトロイア勢。さながら追われる羊と追う猟犬のよう。しかし牧草地の囲いの中へ逃げ込めば、羊であれば逃れられたに違いない。
アカイア勢が丁度そのように防壁の中に逃げ込むと、ヘクトール率いるトロイア勢は一度駿馬に牽かれた戦車を止めた。杭の並び立つ防壁の前では、戦車を乗り入れることは困難を極める。ヘクトールはプリュダマスの助言に従って、徒歩による進軍を進め、後退する時のために、戦車をここに留め置くこととした。
防壁に籠ったアカイア勢は、ヘクトール・プリュダマス両名が率いる大軍勢に、次々に投石をくらわせる。頭上から降り注ぐ雨の如き大岩を、ヘクトールは一人で、居並ぶトロイア兵は複数人で、皮張りの盾を鳴らして受け止めた。
アポローンの恩寵めでたきヘレノスと、武勇優れたデーイポボスが率いる部隊はヘクトールに続き、プリアモスの子ヘクトールが率いる第一の軍が盾であるならば、この軍勢はさながら矛、投石の礫を居並ぶ盾で受け止めて、その膂力で押し通す。ヘレノスの予言あればこそ、デーイポボスの武勇が活きる。凄まじい攻勢を長子が受け止め、プリアモスの弟たちが石積みの高い防壁に迫る様は、盾を前に、槍を後ろで構えるよう。それはまさしく一人当千、威風堂々たる戦士の構えである。
彼らに続くのはアンキーセースの子、アイネイアース率いる部隊で、戦略多才の後衛部隊である。動きこそヘレノス、デーイポボスに遅れたが、盾を持つ者がその大盾の裏に弓を持つ者を匿い、防衛にあたる防壁上のアカイア勢を、歩を進めるごとに負傷させていく。その姿勢ゆえ裂傷は決して深くはなかったが、見事に防壁の内に後衛を忍び込ませようと、即ちプリアモスの子ら率いる槍兵達を助ける戦力を招じ入れようと、その役割を果たしたのである。
杭に迫るまでの強烈な攻撃に、盾を持たない戦士たち、ちょうど、パリスが率いる弓兵隊はなす術もなく、防壁から顔を出す敵に集中砲火を浴びせ、仲間の戦車を守る後衛に徹することとした。投石は壁の内側より投げ込まれることも多く、その激しさは衰えを見せないが、機略縦横のオデュッセウスを除いては、アカイア勢はパリスの戦力を殆ど勘定に入れていなかったので、防衛戦力の僅かな分散が、アカイア勢を後に追い詰めることとなる。
とはいえ、一時パリスらは、仲間の戦車を破壊から防ぐべく、戦車から戦車へと飛び回って、それらを動かし、降り注ぐ石から財産を守ることに徹した。
盾の部隊は杭の群れを抜け、防壁に迫る。アカイア勢の防衛部隊が、恐怖に慄いて悲鳴を上げ、逃げ帰る中、門から躍り出た勇士達も、トロイア勢の勢いに圧されて嘆きの声を上げる。アカイア勢から上がる明知のゼウスへ向けた恨み言の数々も、イーデー山に座す全能の神には届かない。神はその嘆きを一顧だにされず、鷲を飛ばして戦線をご覧になる。天見晴るかす鷲の目を、プリュダマスが目敏く見つけた。
ところが、プリュダマスは、ヘクトールにこのように助言して言う。
「明知のゼウスがご覧になっています。輝く兜のヘクトールよ、これは我々に悪い予兆ではありませんか。この激しい抵抗も、致命的な結果の前兆に思えます」
「お前にはそう見えるか!しかし、イリオンを守るという目的は、人都を守る主神ゼウスのご神慮に適うものだと思う。私達が決して意に沿わぬことをしているとは思えない。どうだ、もうひと踏ん張りしよう!」
ヘクトールの返答に、プリュダマスは唇を尖らせて独り言ちる。
「・・・あなたはいつも、自分の考えばかり押し通す」
一方、四方八方から迫り来るイリオンの戦士たちは、襲い来る灰色の波のよう。アカイア勢は攻め来たる敵に恐れをなして、潰走もやむなしというところまで追い詰められていた。
そんな折、防壁に迫り来るイリオンの兵士を見た、アカイア軍の将メネステウスは、恐れをなして助けを求めようと、伝令を陣屋へ走らせる。この時頼りにしたのは、ヘクトールも慄くテラモーンの子アイアースと、弓の名手テウクロスであった。戦士の呼びかけとあれば、アイアースにも否やはなく、即座に槍と盾を持ち、負傷も顧みずに防壁まで駆けつけた。
防壁を巡る争いの中でも、テラモーンの子アイアースの抵抗はすさまじく、弓持つテウクロスと共に、波のように迫り来る敵を次々となぎ倒した。
そんな時、防壁へ攻め入るトロイア勢の中から、勇士グラウコスとリュキエ勢を率いるゼウスの御子サルペドンの二人が、ついに胸壁へと張り付いた。これを目敏く見つけたテウクロスは、その強弓をグラウコスに向け、露出した腕を射抜く。グラウコスは矢を引き抜くために一時離脱したが、サルペドンを抑え込むには弓を引く手が一歩足らず、サルペドンは見事に胸壁の石を引き抜いた。投石の音などとは比べ物にならない、雪崩れる防壁が音を立てると、イリオンの戦士たちは勇み足でアカイア勢の陣地へと雪崩れ込んだ。
テウクロスは、サルペドンが持つ、盾を支える革紐目掛けて、報復の矢を放つ。しかし、ゼウスは我が子を慮って、その矢からお守りになった。そして、テラモーンの子アイアースの剛腕から放たれる槍も、盾を貫くには足らず、たまらず後退りながらも、大音声を上げて言う。
「リュキエ勢、前へ、前へ出ろ!俺一人に任せるな!武勲を立ててこそ男だろう!」
勇気づけられたリュキエ勢の戦士たちは、続々とアカイア勢の陣地へと入り込む。しかし、そこまでで、一進一退の攻防を、両陣営は繰り返すばかりとなった。
「行けるぞ!私に続け!」
ヘクトールは仲間が胸壁を崩した音を聞き、門扉の前で大岩の礫を受け止める自軍の仲間たちを鼓舞して言う。そして、誰も抱えることができぬような、尖った大岩を軽々と持ち上げると、これを門扉の前に運んだ。
門は固く閉ざされている。交差した閂二組がしっかりと扉を支え、さらに錠前が掛けられた。また、分厚い材木は容易く槍さえ防ぐだろう。
ヘクトールは大岩に力が乗るように、一度姿勢を整えると、しっかりと立つ足に力を籠めて、全体重で大岩を支える。とがった先端が門扉に向くよう、角度をしっかと整えると、大音声を上げて、大岩を投げ放った。
木材の軋む凄まじい音と共に、閂が外側から折れ曲がり、扉は岩の重みに耐えきれず、しっかりと組まれた枢を壊し、足元の軸木ごとへし折られた。大岩は砕け散った扉と共にアカイア勢の門番を押し潰し、ついに強固な防壁は破られた。
ヘクトールの兜は照り付ける陽光に輝き、青銅の鎧はさながら猟犬の目の如くに、鈍く光り輝く。ヘクトールは不退転の覚悟で両の手に槍を持ち、アカイア勢の勇士達の中へと繰り出した。




