英雄の友パトロクロス
ところで女神よ、この時アキレウスはどのようであったのか。老ネストールがマカオーンを連れて宿営地に辿り着くと、アキレウスは彼らの身を案じて、心優しい戦友パトロクロスに声を掛ける。
「パトロクロス、声を掛けられていただろう。ネストール殿のところへ行って、その者を介抱してやってくれ」
「もちろん。アキレウスが言うならば」
「・・・あと、パトロクロス。アガメムノンも重い腰を上げるだろうと思うから、交渉の準備をしてくれ。もうアカイア勢には、イリオン人を退ける力は残っていないようだ」
パトロクロスは敢えて言葉では答えずに、頷いて返す。彼はネストールのもとに駆け寄ると、ちょうど若妻のヘカメデが、大麦粥をネストールらに運んできたところであった。
「ネストール殿!」
パトロクロスの声に心を癒されたネストールは、憔悴した様子で振り返る。大麦粥で渇きを癒したばかりの老体は汗と返り血で汚れていた。
「パトロクロスか。まぁ、まぁ、そこに座られよ」
「お心遣い痛み入ります。しかし、アキレウスが負傷者を見てきて欲しいとおっしゃったので参ったのです。なにぶん気性の激しい男なので、どうかご容赦ください」
「・・・そうか。しかしな、パトロクロスよ。傷ついたアカイア勢の数は数知れぬ。マカオーンばかりではないぞ。儂も全盛期の力もない。途方もない犠牲を払ってもなお、彼は折角の力を振るってはくれないのか。昔はといえば・・・」
このように、ネストールは長々と昔話を続けたが、その中には十年前、パトロクロス出征の際に彼が父から受け取った言葉が含まれていた。
「・・・きちんと聞いておったぞ。『家柄も力もアキレウスはお前に勝る。しかし、アキレウスはまだ年も若く、年上のお前がきちんと忠告してやれ』とおっしゃっていたな。なぁ、パトロクロスよ。儂の顔に免じて、お前からもアキレウスに言ってはくれぬか。親友のお前の言葉なら、聞いてくれるかも知れん」
このように言った老人の顔に覇気は無かった。心優しいパトロクロスはつい気持ちを揺さぶられてしまい、アキレウスの元へと急ぎ戻ろうとする。その途中、腿を射られたエウリュピュロスが陣屋へ向かう所に出くわしたのであった。
エウリュピュロスと言葉を交わし、彼にアキレウスから伝授された、つまりはかの師ケイローンの秘薬であった傷薬を塗ってやり、船列並ぶ防壁の中が段々と騒がしくなる中を急ぐ。やがてアキレウスの待つ船に辿り着くと、パトロクロスは一目散にアキレウスの元へと駆け寄った。
「アキレウス」
丸まった背中を見せたまま、アキレウスは親友に尋ねる。
「誰だった?」
パトロクロスは戦友たちの憔悴ぶりを憐れに思い、ぼろぼろと大粒の涙を流した。
「マカオーンだった。帰る最中、エウリュピュロスが腿に矢を受けている姿も見た。老ネストール殿の嘆願がひどく心に響いたよ。オデュッセウスにディオメーデス、アガメムノンも槍を受けた。もう、アカイア勢はお前なしでは戦えないだろう。どうだ、動いてくれないか?」
しかし、アキレウスはパトロクロスに背中を向けて答える。
「・・・断る。これは私とアガメムノンの問題だ。指図しないでくれ」
潮風は傷に酷く沁みる。矢傷を受けた戦友たちと同じほどに、パトロクロスの胸は潮風の荒々しさに痛んだ。
「・・・わかった。もういいよ。お前の父君はきっと英雄ペーレウスでもなく、母君は女神テテュスでもないのだろう。冷たい巌がお前の父で、そこに跳ね返る灰色の海こそが、お前の母だったのだな」
「私が怒っているのは、神託のせいでも、母君がなにかゼウス神に取り次いでくれたからでもない。アガメムノンが、対等な兵士のことを蔑ろにして、その報償を取り上げようとした、その傲慢さに怒っているのだ。パトロクロス。お前がいくら私に嘆願しても意味はない。だってそうだろう、お前のせいで怒っているわけでもないのに、何で私がお前を許して兵を出すのだ。アガメムノンが心を改めるまでは、私はここから動かない。」
それでも、ペーレウスの子アキレウスの怒りは容易には収まらない。意固地になるばかりの英雄に向けて、パトロクロスは深い溜息を零して、怒りを心に抑えながら続けた。
「だったらせめて、お前の武具を貸しておくれ。私には、仲間が斃れていく様を見届けることは出来ないよ。お前と同じように、仲間達のことも側に寄り添って守りたいのだ。私と同じくそう願っている、お前の戦友も借り受けたい」
「勝手にしろ」
アキレウスはパトロクロスに向けて、自分の装具を投げた。これを受け止めたパトロクロスは、アキレウスに何度も礼を言い、装備を身に着けて戦場へと繰り出していく。アキレウスは陣屋の椅子に座ったまま、戦友の姿を背中で見送った。




