智将相搏つ
アガメムノンの焦りは、この朝ピークに達していた。アカイア勢の誰一人、ヘクトールを打ち倒す者が現れない。これは、あの予言の通りであればあり得ないことであった。アガメムノンは自ら見事な装具を身に纏うと、陣屋近くに野営地を設けたイリオン人たちが、今にも防壁を越えんと意気込む様を、忌々しく思っていた。
一方、防壁を挟んで向こう側では、体調も万全なイリオン人たちが、ヘクトールを中心として、意気込んで戦闘の支度を整える。ヘクトールは、古い石碑に背を預け、矢束を矢筒に収めるパリスに言う。
「パリス、お前に部隊を一つ率いてもらおうと思う」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げたパリスと同じく、デーイポボスも驚愕の声を上げる。ヘレノスは訳知り顔で盾を磨き、ヘクトールの言を聞くともなしに聞いていた。
「ちょっ、正気か兄君!?こいつ全然だめだぞ!」
「正気だ。もちろん、最前線で戦うわけじゃないが」
ヘクトールは物怖じするパリスの肩を叩き、悪戯っ子のような笑顔を向ける。トネリコの木から、鷲がその様を睥睨している。
砂塵の吹き荒ぶ目前には、大きな城壁があり、今日からの戦闘はまさにそこを突破する戦いである。長大な防壁は、目前にするとイリオンを守る城壁にも劣らぬように思われた。パリスは深呼吸をし、しかと弓を握り直して、兄へと向き直った。
「分かりました。やってみます」
「へぇぇぇ!?」
デーイポボスが奇声を上げる。奥に控えていたヘレノスが苛立たしげに槍の柄で地を突いた。一方で、様子を窺っていたアイネイアースはたまらずにパリスに駆け寄ると、王子の背中を叩き、発破をかけて言う。
「アレクサンドロス王子!よくぞ言いました!友人としてこれほど嬉しいことはありません!」
女のような悲鳴を上げたパリスに向けて、士気旺盛な兵士達から喝采が送られる。その声を防壁越しに耳にしたアガメムノンは、顔を真っ赤に染め上げて、仲間たちを鼓舞して言う。
「お前たち!馬馴らすイリオン人どもがいきり立っておるぞ!お前たちの不甲斐なさに、この通りだ!おい、オデュッセウス!こういう時のために連れてきたのだぞ!何とかせんか!!」
機略縦横のオデュッセウスは、防壁越しの喝采を意味深げに聞きながら、落ち着き払った様子で答えた。
「暁を背負う我々に、退路は無いように思われます。戦局は非常に悪く、我々は戦力の再生産の面でも、イリオン側と比べて不利と言えるでしょう」
オデュッセウスが散々に戦局の悪化について言及すれば、アガメムノンは怒りに任せて助言者の頭蓋を鷲掴みにし、力任せに地面へと叩きつけた。民を統べる王が怒りに任せた大仰な動きで前線へ向かって行く様を見て、オデュッセウスはすくりと起き上がり、零れた鼻血を拭った。
このような乱暴狼藉ぶりを見て、オデュッセウスの身を案じた老ネストールが労わりつつ言う。
「大丈夫かね、オデュッセウス殿。今は頭に血が上っているので、あまり陛下を刺激せん方が良い」
「分かりませんか。アガメムノン王の力は、怒りに任せて暴れる時にこそ発揮されます。あのように」
智謀豊かなイタカの王はこのように答えると、猛り狂うアガメムノンが、兵士に八つ当たりをして回る様を見送った。
そして、案の定、アガメムノンは怒りに任せて戦場をアレースの如く暴れまわるのである。
しかし、アカイア勢の苛烈な攻勢も、勢いのついたイリオン勢の抵抗を押し留めるには至らない。防壁まで迫っていたイリオン勢だったが、王の苛勢に物怖じし、イロスの墓や無花果の木さえも過ぎて、一時は故郷守るスカイア門にまで後退した。
しかし、城壁にまで押し戻されたイリオン人の元に、空駆ける女神イーリスが降られる。凄まじい砂埃と共に、ヘクトールの元へと至ると、イーリスはその逞しい兜に向けておっしゃった。
「プリアモスの子ヘクトールよ、ゼウスからのご神託である。アガメムノンの凶行を抑えるために、お前自身は戦いを避け、戦士たちに向かわせよ。そして、民を統べる王が傷を負ったその時こそ、お前の出番である。アカイア勢の船列へ攻め入るがよい」
イーリスのお声がけに、ヘクトールは喜び勇んで答える。
「女神よ、なんとありがたいお言葉を伝えて下さるのか。私達イリオンの民は、ゼウスのお言葉のお陰で、勇気を振り絞って戦うことができるでしょう」
「それは良かった。伝令冥利に尽きるというもの」
ヘクトールはすぐに仲間たちの間を駆け回り、兵士達を鼓舞して回る。アガメムノンの猛りは凄まじく、トレケの名だたる勇士、アンテノルの兄弟イピダマス、及びその子コオンを破ったが、その際受けた傷が災いし、血の乾く頃になると動きを鈍らせた。そして、ついに耐え兼ねたアガメムノンは、悲痛な声を上げる。
「お前たち、防壁を守れ!もうこの痛みは敵わん!!」
この言葉を聞くや否や、ヘクトールは大音声で発破をかける。
「今こそその時だ!クロノスの子ゼウスは我らに味方しているぞ!」
このように叫べば、イリオン人は勢いを取り戻し、ヘクトールはその黄金色の槍、仲間を助ける重い大盾を担いで、勢いよく駆け出した。その俊足は先程までアガメムノンを受け止めていた前線の戦士たちを容易に抜き去り、名だたる将持つダナオイ勢と対峙する乱戦の中へと躍り出た。
ヘクトールはここでダナオイ勢の名将を次々と討ち取っていくが、その様子を見たオデュッセウスが、危機感を募らせてディオメーデスの元を訪れて言う。
「アガメムノン王の活躍は凄まじかったものの、思ったよりも抵抗が激しいようです。ディオメーデス殿、二人がかりでヘクトールを食い止めるというのはどうでしょう?」
「あいわかった、あなたの智謀に乗ろう!」
ディオメーデスは即座に応じ、オデュッセウスと共に、戦線を移動しながらイリオン勢をいなしていく。これを見て、勇気づけられたアカイア勢は勢いを立て直した。
そして、ディオメーデスとオデュッセウスの活躍に気づいたヘクトールは、戦友らを守るためにすぐさま二人の前に駆けつけた。オデュッセウスの読み通り、ヘクトールは自らの命を賭してイリオン勢の前に躍り出る。
ディオメーデスは武者震いに任せて、歓喜の声を上げて言う。
「ヘクトールぅ!覚悟ぉ!」
掛け声とともに放たれた槍は、空に美しい弧を描き、ヘクトールの輝く兜に突き刺さった。三層造りの強固な兜は見事にディオメーデスの槍を受け止めたが、その衝撃に流石のヘクトールも受け止め切れず、イリオン勢の中へと飛び退いた。その姿を見たディオメーデスは、勢いに任せて勝ち誇って言う。
「命拾いしたな、ヘクトール!その兜も輝ける君アポローンのご加護あってのもの。所詮はただの人では、英雄揃いの我が軍には勝てぬということよ!」
ヘクトールは槍の刺さったその衝撃により、脳を揺るがされて意識を失ったものの、凄まじい活力で意識を取り戻し、仲間の戦車の中へと身を預けた。
「さて、邪魔者が去ったところで、戦利品を剥ぐとするか」
このように独り言ちるディオメーデスは、死体から武具を剥ぎ取り始める。その背中目掛けて、正確無比な矢が放たれた。
すんでのところで身を躱したディオメーデスだったが、右足の甲を見事に撃ち抜かれ、その足を、大地に繋ぎ止められる。勇士が卑怯者の姿を探れば、その者は、イロスの墓石の裏からゆっくりと現れた。
「無駄な一矢も用いずに、確かに射貫きましたよ。ディオメーデス」
ディオメーデスは不敵に笑い返す。
「なるほど、どこの臆病者かと思えば、あなただったか。アレクサンドロス王子。そんな矢で足を引っ掻いて得意になっているなど、子供だましもいいところだ」
「何とでも言え・・・」
パリスは低い声で答える。これを受けて、ディオメーデスは手に持つ槍を示して応じた。
「あなたの矢はおもちゃのようだが、私の槍は何人も人を屠ってきた本物だぞ。さて、今投げ込めばあなたはどうなるか・・・」
意気込んだディオメーデスが矢を引き抜くと、鮮やかな緑の血が大地を濡らす。パリスはその様をしかと見届けると、オデュッセウスが庇うように前に進み出るのを認めて身を隠した。
智謀優れたイタカの王は、血の吹き出す仲間の足の甲を一瞥すると、冷ややかに言い放った。
「ディオメーデス殿、残念です。油断するからあのような男に出し抜かれるのですよ」
雪のように淡々とした、刺々しい言葉は、普段勇猛なディオメーデスの勇気を凍り付かせ、また、パリス如きに不意を突かれたショックを思い起こさせた。
そして、ディオメーデスは仲間の戦車を見つけると、そこに這い上がって退却の支度をする。オデュッセウスは、イロスの墓石に注意を向けながら、耳で遠ざかる車輪の音を聞いた。
暫くして、一人立つオデュッセウスは天を仰ぎ、物思いに耽る。
「シーシュポスの子・・・。散々嫌われているという意味では、その噂も間違いないのかも知れないな」
勢いづいたトロイア勢がオデュッセウスを取り囲む。盾を構え、神経を研ぎ澄ませた様子の敵兵たちを、よく観察するオデュッセウスは、先ず墓石の裏から放たれた矢を盾で弾き返す。その隙をついて襲い来るトロイアの戦士たち、これらはいずれもパリスの軍勢であったが、この者たちの踏み込みの素早さを即座に分析し、槍を突きだして最も素早い将を討った。そのまま槍で二名の攻撃をかわし、到着した増援が戦車を降りたその瞬間を狙って、構え直した盾の下から槍を突きだし、器用に腿を突き刺した。
「多勢に無勢ではあまりに分が悪い。考えましたね、アレクサンドロス王子」
槍を振るい、構えを直したオデュッセウスは、墓石の裏ではなく、今まさに距離を取ろうと動き出したパリスに鋭い視線を送った。パリスは背筋が凍り付き、再び踵を返して墓石の裏に身を隠す。ダナオイ勢はすっかり寡勢となり、一人取り残されていたオデュッセウスはきっちりと殿を努めてみせた。
オデュッセウスを包囲するイリオン勢は、犠牲を払いながらも、敵を追撃する。イタカの王も、ついに勇士ソコスの突き出した槍に弱った盾を貫かれ、脇腹を傷つけられた。身をよじり、急所は逸れたものの、滴り落ちる血の量はすさまじく、オデュッセウスはソコスに睨みを利かせて言う。
「なるほど、鋭い一撃ですね。ですが眼前に黒い死が迫っているというのに、迂闊でしたね」
落ち着き払った声は熱に浮かされてオデュッセウスに釘付けになるソコスの肝を冷やし、雪山を降りしきるぼた雪の如く不気味に降り注ぐ。心を冷まされたソコスは震え上がり、槍に込めた力を緩めて背を向けて逃げ出した。すかさずオデュッセウスの槍が、ソコスの肩を貫いた。
「機略縦横のオデュッセウスと呼び慣らされて、一時たりとも策を練らない時などない・・・などということはありませんよ。ご家族に会えないのは残念でしょう。さようなら」
オデュッセウスの冷え切った声は槍の柄を伝ってソコスの心臓を冷やし、その腸を内から凍らせて、ソコスの視界を闇で覆った。
ソコスと同じく奇策を疑い距離を取っていたイリオン勢の隙間を縫って、手負いのオデュッセウスは後退した味方の陣営の中へと駆けだした。大音声で救援を呼ぶと、それに答えたメネラーオスが、アイアースに指示を飛ばす。
「テラモーンの子アイアースよ、オデュッセウスが孤立している!助けに行くぞ」
メネラーオスが先に駆け出し、アイアースもそれに従って駆けだした。オデュッセウスは二人が駆け付けるのを認めると、取り囲もうとするイリオン勢を翻弄しつつ、一方面にまとめ上げてメネラーオスの盾の下に滑り込む。しっかと盾を地面につけたメネラーオスは、オデュッセウスをその背で庇い、味方の戦車に乗り込むまで攻勢を受け止めた。一方、アイアースは、攻め来る敵をなぎ倒し、オデュッセウスのこともメネラーオスのことも庇わずに敵の注意を引き付けた。
戦車に乗り込んだオデュッセウスは、脇腹を止血しながらイロスの墓石の方を睨んだが、そこに伏兵の気配はなく、力なく項垂れて、自嘲気味に零した。
「なるほど、拙いが、盤面をよく見ている・・・。臆病な軍師というものは、これだから厄介なのだ・・・」
一方、ヘクトールは、遠くスカマンドロス川の河畔で再び戦線に参入していた。ここを守るのは勇将イドメネウスと老ネストール。凄まじい戦闘が繰り広げられていた。いずれも老練の勇士であり、積み上げた経験を頼りに守りを固め、ヘクトールの縦横無尽な攻勢を受け止める。
その間に、岩の裏に身を隠しながら、パリスが迫っていく。彼は味方の兵士にアイアースの相手を託し、敵前線の後退を図る。アイアースの持つ七層の皮張りの盾相手では、パリスの弓はまるで歯が立たぬと判断したためであった。
パリスは岩陰から衝突する両陣営の様子を窺う。老練の勇士ネストールとイドメネウスの姿を認めたが、守りが固く、抜け目のない老戦士を標的にすることは避けた。そして、仲間がメネラーオスを奇襲した際に、辛くも彼を助けた医者が前線で指揮を執る姿を認めた。
(医者はこの場で一番厄介だ!)
パリスはすぐに、その男を標的に据えた。その男こそ、医神と名高きアスクレピオスの子、マカオーンであった。
麗しき髪のパリスは、医学の知識無き者が治療を望めないように、より複雑に裂傷を負わせるため、鏃に三つ鉤を取り付けた、特別な矢を取り上げて、確実に照準を合わせて矢を放つ。矢はマカオーンを見事に傷つけた。
それに気づいた老練の勇士達は、すぐに行動を移した。
戦車を操れば右に出る者もない、老ネストールがすぐにマカオーンを回収し、前線を離脱していったのである。パリスは慌てて戦車から顔を出したネストールを狙ったが、見事な操縦に翻弄され、これを取り逃した。
一方で、イーデーの山に座して戦争を俯瞰しておられたゼウスは、ヘクトールがアイアースを避けて戦闘をしていることをその慧眼で見抜かれた。そこで、ゼウスは神意に則って事を進めるべく、アイアースの心に臆病風を吹き込まれた。途端に、アイアースは七層の皮張りの見事な盾を手に立ち尽くし、慌てて撤退を始めた。
これを機に、勢い付いたイリオン人たちはその背中を追ったが、アイアースが時折踵を返して繰り出す槍は、戦友たちを一人ずつ確実に屠っていく。パリスはそれに気づいてようやくアイアースを追う勢力に合流する。パリスに先んじてアイアースと合流したエウリュピュロスは、大盾で攻撃を逸らすアイアースを守って、槍を投げる。見事にこれを当て、将軍の一人アピサオンの膝を地につけさせると、即座に男に飛び掛かった。すかさず、合流を果たしたパリスがエウリュピュロスに矢を放つ。矢は右腿に命中し、その動きを鈍らせた。
「ダナオイ勢の勇士達よ、アイアースを守ってくれ!」
エウリュピュロスの悲痛な叫びを受けて、アイアースの元に仲間たちが駆け付ける。盾を隙間なく並べて構え、アイアースを盾の内に匿った。
戦線は再び一気に後退し、アカイア勢の勇士達は防壁の前まで追い込まれた。




