イーリス、女神のご乱心を諭す
翌日、天見晴るかすゼウスは、凄惨な戦場を見おろされ、オリュンポスの御座に座する神々に、助言を設けておっしゃる。
「儂の呼びかけに答える賢い男神、女神たちよ。お前たちは仄暗いタルタロスに罪人として捕らわれるか、或いは鎖で縛りあげられて、手ひどい罰を受けることの無いようにされよ。これより、いかなる神々も、儂の許可なくイリオン人とアカイア人の、いずれにも助成をしてはならぬ。人の戦を望むように、事を運んではならぬぞ」
このようにおっしゃれば、神々は仰天し、各々が好ましい人類の助けとなれることを望んでおられた女神アテーナーは、ゼウスに懇願しておっしゃる。
「偉大な父よ。あなたの呼びかけにお応えしたい気持ちはございますが、それでは我々はどのようにアカイア人がイリオンを落とすように取り計らえば良いのでしょうか。予言の通りであれば、そのように神慮を遂げられるべきなのではないですか」
このように問いかけられると、ゼウスは不敵に微笑みを浮かべつつ、愛娘の頭を撫でまわしておっしゃる。
「そうだな。儂はお前に対して、優しい父であろうと思っておる。早速儂の裁定の通りに事を進めるように取り掛かろう」
霊山に暗雲が垂れ込め、雷が轟き落ちる。落雷の先に、青銅の蹄持つ黄金色の駿馬が現れると、ゼウスはこれを頸木で固定し、手綱を垂らした雷霆の戦車へとお結びになる。そして、黄金の鞭を手に持ち、その麗しい瞬く鎧を身に着けたご自身を戦車の上にお乗せになり、イーデーの山へと戦車を牽かせる。神はここにある自らの祭壇に腰を下ろし、両軍をご覧になる。丁度アカイア人とイリオン人はこのような有様であった。
まず、アカイア人は食事を済ませたところであり、その美しい長髪を兜に収め、見事な大盾を構えて開戦の支度を整えている。一方、イリオン人は胸に妻子の命を背負って、その意志固く町から繰り出していく。武装こそアカイア人の見事な、神の御業である鎧や盾を持っていなかったが、その覚悟は遥かに固く、ゼウスさえ好ましくご覧になった。
ゼウスの前で始まった戦争は、日が中天に差すまで一進一退の攻防が続く。ゼウスは天秤に両者の運命を乗せ、秤におかけになると、イリオン人の運命が天へ、アカイア人の運命が地へと傾いた。
同時に、アカイア勢のもとに堕とされた雷鳴に、兵士達は恐れをなす。すかさずパリスが矢を放つと、これが老練の戦士ネストールが乗る戦車を牽く馬を射殺した。
踏みとどまった老ネストールは、矢に頭蓋を砕かれた彼の愛馬を労ったが、片足を失った戦車目掛けて、ヘクトールが迫り来る。
そこにディオメーデスとオデュッセウスが通りかかったが、オデュッセウスはネストールを守るための術を不十分と捉え、すぐにこの騎士を捨て置いて後退した。一方、ディオメーデスは、自分の戦車にネストールを匿うと、ヘクトールを迎え撃つ。ヘクトールの投じた槍は僅かに両雄を逸れ、ディオメーデスの放った槍は戦馬操るヘクトールの部下を射抜いた。
「エニオペウス!くそっ!」
ヘクトールは戦車から落ちる部下を救おうと手を伸ばすが間に合わず、悲しみに暮れながらも、頼れる部下を引き抜いて、再び戦馬を走らせた。
雷を愉しむゼウスは勇猛なヘクトールの有様をご覧になると、迎え撃たんとするディオメーデスの目前に、雷霆を落とした。
人生の酸いも甘いもよく識る老ネストールは、焦げて結晶となった砂の上から立ち昇る煙を見て即座に、神意を正しく読み取ると、操る馬を転進させ、アカイア勢の布陣まで後退をはかる。
「おい、老ネストールよ!何を怖気づいているのだ!私はヘクトールよりはるかに強いのだぞ!」
「見てわからぬか!ゼウスは勝利をヘクトールに預けたと見える!今日の所は一旦退くのが良かろう!」
ディオメーデスは、煙を立ち上げて硫黄の香りを届ける地面を振り返ると、ほぞをかみ、悔しさに打ち震えながら、ネストールの操る見事な戦車の退くに任せた。
落雷の跡を踏み越えたヘクトールは、後続のイリオン人に発破をかけて言う。
「勢いはこちらにあるぞ!忝くも主神ゼウスのご加護が、我らに傾いたのだ!ダナオイ勢を追え、追え!今ならばあの堅牢な累石も飛び越えて、その船陣に火を放つことさえ適うだろう!」
ヘクトールの掛け声に、士気は上がりに上がった。ディオメーデスはこの挑発めいた掛け声を背に、唇を引き結ぶ。若く血の気の多い勇士の背を、しかし、老ネストールは労って摩った。
「気落ちするなよ、ディオメーデス。恐れをなした老いぼれのことは恨んでも良い。ただ、それほどにゼウス神のご加護とは比べ物にならないほど強大なのだ。先ずは気を休め、ゼウスの御心が変わるまで耐え忍ぶとしよう」
ネストールはディオメーデスを陣地まで送り届けると、攻め来るイリオン勢を阻む石塁の裏に馬を留めた。
さて、オリュンポスの御座では、ゼウスの神慮を汲み取ったヘーラーが、大地を割らんばかりに地団太をお踏みになり、その美しい額に青筋を浮かべて猛り狂っておられた。この地団太は当然大地を激しく揺るがしたが、それに留まらず、ゼウスに出自も近き海神ポセイダオンに詰め寄っておっしゃる。
「ああ、ポセイダオン!あの耄碌爺のご乱心を止めなさい!あなたは海に供物を捧げたアカイア勢の子らが愛しくないというのですか!?」
しかし、ポセイダオンはヘーラーのご乱心に呆れ返ってお答えになる。
「お前は何を言っておるのだ。誰がゼウスに勝てるというのだ?私も、お前も、アポローンも、いずれも手ひどい罰を受けたのは記憶に新しいだろう」
みるみる怒りに顔を赤くされた白い腕の女神ヘーラーは、「役立たずの臆病男め!」とポセイダオンを口汚く罵られると、地面を揺るがしながら、地上へと下って行かれる。凄まじい地鳴りは数多家屋を倒壊させ、怒り任せの大股な足さばきは、神々の奉ずる聖域に巨大な足跡を残していく。ヘーラーの悍ましい瞋恚を目の当たりにされたポセイダオンは、思わずかぶりを振ってそれを見送った。
「もはや見ておれぬ!私も行くぞ!」
ヘーラーに続きアテーナーまでもが、アカイア勢の船陣に降り行く。
ヘーラーの瞋恚はアガメムノンに吹き込まれた。王は紫の外套を肩にかけ、顔に青筋を作って、陣屋の中央に立つと、アカイア勢を叱責して言う。
「お前たち、大見栄切って私の肉や酒を食らっておきながら、なんだこの体たらくは!お前らのような腰抜け共に、ゼウスも愛想をつかされたに違いない!ネストールもディオメーデスも、ヘクトール如きに逃げおって!ましてオデュッセウスは味方さえ見捨ておった!さすがはシーシュポスの御子だ!さぁ、お前ら、これ以上の罵倒を耳に入れたく無くば、さっさと攻め来るイリオンの塵どもを打ち負かして来んか!」
アガメムノンの怒号は功を奏し、城壁の前に続々と勇士が戦列を作る。中でもテラモーンの子アイアースは、見事ヘクトールを追い詰めたその大盾を構え、不動の覚悟でイリオン勢に立ちはだかった。ヘクトールがそれを見ると、その首目掛けて槍を投じる。アイアースは大盾で自らの首筋を守らんとする。まさにその刹那、ヘクトールの視界の隅、アイアースの足元に、盾に隠されていた弓士テウクロスが現れた。照準確かなテウクロスは、隼の如き矢を射れば、これはヘクトールを飛び越えて、イリオンの戦士を打ち倒す。目にも留まらぬ矢の勢いに、すんでのところで味方を盾にしたパリスは過呼吸となり、その場に蹲る。
ならばとヘクトールがテウクロスを狙えば、今度はアイアースの盾が元の位置に戻されて、テウクロスを見事に覆い隠す。この槍を引き抜いたアイアースは、力任せにイリオン勢に槍を投げ放てば、前線の勇士が盾ごと貫かれる。投じた際に僅かに盾が動くと、この隙間から射掛けたテウクロスの矢が、プリアモスの子ゴリュキュティオンを討ち取った。見事な矢さばきと盾捌きに、ヘクトールは負けじと槍を投じる。しかし、そのたびに現れたテウクロスが、続々と味方を射抜いていく。ついには、ヘクトールの戦車を操る御者アルケプトレモスに打ち込まれた。嘆く間もなく次なる御者が飛び乗ると、ヘクトールは槍をアイアースへと投じる。むろんこれは盾に阻まれたが、彼は盾を持つその手から、盾の隙間から覗くテウクロスの輝く鏃目掛けて、尖った小石を投じた。石は見事にテウクロスの鎖骨の辺りに直撃し、アイアースの盾の裏で昏倒した。
ヘクトールの勢いは止まらず、逃げ惑うアカイア勢を続々と討ち取っていく。それに続いて勢いづいたイリオンの勇士達も、敵を囲い、四方八方から槍を突きだし、敵を少しずつ打ち倒した。パリスの矢も、テウクロスの矢の如く、はるか後方から射掛けられ、アカイア勢の勇士らを確実に射貫いた。
アガメムノンに怒りを吹き込んだ、白い腕の女神ヘーラーは、髪を掻き毟って猛り狂われて、後から現れたパラス・アテーナーに掴みかかっておっしゃる。
「アテーナー!このままアカイアのかわいい子らを犠牲にするわけにはいきません!すぐに戦陣に向かいましょう!」
「意地悪な父君に、一矢報いる時は今この時に違いありません。少々揺れますよ、ヘーラー様」
「ありがとう、見事な美貌の戦姫アテーナー」
ヘーラーがアテーナーの戦車に乗り込むと、戦車は地面に大きな轍を作りながら、目にも留まらぬ速さで戦場へと現れた。
鷲の目が見晴るかす地上をご覧になったゼウスは、この二柱の女神を目敏く視界に収めると、イーデー山に呼びつけたヘルメイスに、怒号を発しておっしゃる。
「ヘルメイス!あの女どもを止めてこい!頸木に繋がれた馬は足をもいでなぎ倒し、女どもの出鼻を挫き、見事追い返して見せよ!」
このお言葉に、ヘルメイスは当惑して眉根を寄せ、両手を広げ、呆れた笑顔でお答えになる。
「ならば、ヘーラーの御使いであらせられるイーリスをお遣わせになってはいかがでしょう?私では力業で止めねばヘーラー様は聞かぬでしょうし、何より、そうなっては私がヘーラー様やアテーナー様に何をされるか分かりません。父君、私が呼びつけますので、イーリスを遣わしましょう」
この進言をお耳に入れるなり、ゼウスは即座に虹の女神イーリスを呼びつけ、ヘルメイスに言ったのと同様に、女神にお命じになった。
イーリスは、女神らの身も案じて即座に天の門開くホーライの前に駆けつけると、二柱の女神の前に跪かれ、諫めるようにおっしゃった。
「ヘーラー様、アテーナー様。畏れ多くも申し上げます。一体どこに行かれるのですか。ゼウス様に言いつけられ、私が馳せ参じました。すぐにでも馬を頸木から外し、御座へとお戻りくださいませ。そうでなければ、お二方はゼウス様によって鎖でつながれ、岩に磔にされることでしょう。そのような御姿は、私は望んでおりません」
このようにおっしゃると、ヘーラーとアテーナーは冷静さを取り戻し、ホーライに頸木を外すようにお命じになる。そして、意気消沈し、苛立ったご様子でオリュンポスの御座へとお戻りになった。
イーリスに続いて、ケリュケイオンを持つヘルメイスが、イーリスを労いつつお戻りになる。
「イーリス、辛い役回りを預けて、申し訳ありませんでしたね」
「いえ。あなたが乱暴者でなくて安心しました」
「それはどうも」
「卑怯者で臆病者だとは思いますが」
「ウッ・・・」
ヘルメイスは困ったようにお笑いになり、イーリスが天の門を潜るのを見送られた。続けて、凄まじい雷鳴をとどろかせ、神馬に戦車を牽かせたゼウスが、オリュンポスの峰までお戻りになる。ヘルメイスは大神の前に跪かれ、ゼウスはこの御子と共に天の門を潜られた。
神様紹介コーナー:
ヘルメイス
あああああ!ヘルメイス可愛いよ、かわいいよヘルメイスああああああああああ!!ああああああああああああ!げほっ、ごほぉっごほぉっ!!
ヘルメイスはギリシャ神話における伝令、旅、商い、詐欺、盗人、流通、知恵(いわゆる工夫)を司る神(←かしこい、えらい)。神々の中でも若い容姿で描かれ(←さいこう)、伝令の杖を手にしている。
生まれた瞬間にアポローンお兄ちゃんの牛を盗んだうえ、放屁するというとんでもないやんちゃをやらかした上、ゼウスパパの前に突き出された際は「生まれたばっかの僕にできるわけないじゃん(泣)」と言ってごねまくり(←あざとい)、ゼウスに「おもしれー男」枠として愛されたり、竪琴を作り、仲直りソングを歌って(←かわいい)、芸術好きのアポローンお兄ちゃんの気を引き、さらに高価な品々を回収するなど、詐欺まがいのこともやってのける。
この逸話からも分かる通り、貴族的なアポローンに対して、ヘルメイスは庶民の味方で、庶民から見ると「上流階級を思うままに煙に巻いて利益を回収する」義賊的な理想の庶民、貴族から見ると「自分の言う通りに忠実に伝令を伝える」忠実な庶民という、両極端の理想の庶民像を象徴する。
ほかにも逸話は沢山あるのだが、挙げだすときりがないので、残念ながらこの辺りで打ち止めにする。
ちなみに旅の神でもあるので、ヘルマ柱と言って、おじさん姿の像が道中に置かれていたりするが、民間人。的には解釈違いもいいとこである。
本作では、人間にも比較的友好的で掴みどころのない性格をした神として描いている。その逸話から庶民にも比較的寛容ではあるので、印象としては遠からずだとは思われる。
基本的にゼウスに忠実な立場にいる上、同じ伝令神であるイーリスも登場するので、登場機会はあまり多くないが、とんでもない愛され力のある神様なので、是非覚えて帰って欲しい。




