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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
44/99

アイアースとヘクトールの決闘

 さて、神々さえも両陣営に分かれて戦ったこの戦、その日一日では決着はつかぬ。というのも、日の暮れる前に休戦へと運ぶ、神慮が働いたからである。


 さすがのアテーナーも、アレースとの息詰まる戦いに、連戦に次ぐ連戦では疲れてしまう。戦姫は戦局を見極められると、素早い足さばきでイリオンの陣営にお向かいになる。一方、イリオンに与する神アポローンも、戦の神ならざるご自分の不利を見極めて、樫の木の根元、鷲の止まり木の木陰を潜られ、走り来るアテーナーに呼びかけておっしゃる。


「何を急ぐ、アテーナーよ。イリオンを滅茶苦茶に破壊しようというのか」

「神が人なぞの運命に関心を持つはずもないだろう。アポローンよ、お前こそどうして樫の木陰で涼んでおるのだ」


 アテーナーは警戒を露わにし、竪琴弾くアポローンにおっしゃった。一方、アポローンは彼女の心を慮って、木陰に座るように促される。パラス・アテーナーも敵意のないことをお察しになり、木陰に腰を下ろされた。


「貴女がイリオンの人々のことなどどうでも良いとは良く分かっている。しかし、アカイア勢のことはどうかな。随分と疲れが見えるのは否めない」


 手練れのアポローンは、琴弾く音でアテーナーをお慰めになると、賢き戦姫もこれにお応えになり、自らの与するアカイア勢の様子をご覧になった。

 メネラーオスは負傷し上の空、またディオメーデスも神と渡り合った無理が祟って随分と荒く息を上げている。アガメムノンは正気を保ってはおらず、何よりアキレウスが戦場にいない。その荒れ具合は確かにアカイア勢を大層苦しめており、戦姫とはいえ心あるアテーナーも胸を痛めた。しかし、敵に弱みを見せてはならぬと、パラス・アテーナーはイリオンの戦士たちの姿を見渡してこうおっしゃった。


「アポローンよ。どうやらお前の与する勢力も、随分と疲弊しているようだぞ」

「良く分かっている。ですから女神よ、私からあなたに提案がある。ヘクトールとアイアースの一騎打ちで以て、この度の戦いは終いにしよう」


 アカイア勢のうち、武勲も優れたアイアースは、今も溌溂として女神にも好ましく見えた。アポローンの指名するヘクトールも、その武勇に一切の曇りもない。その上、休息を取ったヘクトールは、まだアカイア勢程疲労困憊ではなかった。


 これぞ賢しいアポローンのご神慮である。女神アテーナーには疲れ知らずのアイアースを立てさせ、その武勇の高さを褒めそやす。そしてイリオン最高の勇士ヘクトールの万全の状態でぶつけることで、アカイア勢の顔を立てつつ、戦いを引き分けに終わらせようとなされたのである。女神もこれには納得されて、同意しておっしゃった。


「あいわかった。では、ヘレノスに伝えさせるのが良いだろう」

「ふむ、そのようだ」


 輝ける君アポローンは、琴弾く指を休め、ヘレノスにご神慮をお伝えになる。これを聞き入れたヘレノスは、ヘクトールに神慮を伝えて言う。


「兄君、どうやらパラス・アテーナーと輝ける君アポローンが、あなたに一騎討に名乗りを上げるようにおっしゃったようだ。すぐに用意し、戦場に躍り出てください」


 それを聞いたヘクトールに否やはなく、戦場に躍り出て、イリオンの戦士たちを押し留め、黄金の飾りを煌めかせた槍を掲げて大音声を上げて言う。


「アカイア勢の素晴らしい戦士たちよ!私と戦う気は無いか!正々堂々と戦えば、いずれにも名誉が齎されるだろう!約束しよう。互いに勝者が武具を得て、遺体はそれぞれに返すと。いずれも立派な塚を立てられる。そうすれば、勇将に立ち向かった勇士として、その名を轟かすこともできよう」


 ヘクトールの掛け声に、しかし名乗り出る者はいなかった。負傷したメネラーオスが痺れを切らせて名乗りを上げたが、アガメムノンはこれを諫めて言う。


「弟よ、やめろ。お前が負けては士気も大いに下がる。ここは一つ、別のものに任せてみよう」


「しかし、兄君!この体たらくでは・・・」


 これに見かねた老ネストールは、心ある言葉を添えて言う。


「籤にすれば良かろう。猛将揃いのアカイア勢だ。ヘクトール殿にも遅れは取らぬ」


 このように老ネストールが言えば、両のアイアース、ディオメーデス、イドメネウスにメリオネスなど、名だたる名将たちがアガメムノンの兜に籤を投じた。この見事な兜を、提案者老ネストールが混ぜながら、ゼウスに祈りを捧げる。兜から真っ先に飛び出した籤は、アテーナーも望まれた、アイアースの物であった。

 伝令使の示す籤を見て、アイアースが名乗り出る。この大男はヘクトールを見おろすほどに立派な体躯の持ち主で、その装具もまた大仰な代物であった。そこで、アイアースは身につけるのに時間を要するとみると、アカイア勢に籤を示しつつ、このように諭した。


「私が装備をつける間、ゼウスに勝利を祈っておくれ。ヘクトール殿に負ける私ではないと思うが、心強いご加護は一つでも多い方が良い」


 この言葉を受けて、アカイア勢は皆神に祈り、アイアースは装備を身に着けてヘクトールに向かい合う。アイアースの装備を見て、ヘクトールは思わず呟いた。


「そのような重い防具を着ても軽やかに動くとは、あなたは随分と強い勇士と見える」

「そうだろう、そうだろう。お前如きに遅れは取らぬぞ」


 アイアースの装備を、はるか後方で、何度も手ごたえを得た弓を下ろすパリスが覗き込むと、息の音が止まりそうなほどに驚愕した。アイアースの盾は、七つの牛の皮を貼り合わせ、さらに八つの青銅の盾を重ね合わせた代物であったからだ。趣向を凝らした見事な盾は数あれど、このように堅牢無比で、なおかつ分厚く重い盾はなかなか見られない。緊張のあまり吐き気を催したパリスは、土の上でえずくと、それを目敏く視界に収めたアイアースが、豪快に笑って言う。


「ははぁっ!見たか、臆病者のパリス殿よ!お前如きがメネラーオスに挑むのは無謀だが、まぁ、俺でなくて良かったとは思うだろう!」


 アイアースの大見え切りに、アカイア勢のメネラーオスも口を尖らせる。しかし、この場にあって最も怒ったのは、メネラーオスではなかった。


「アイアース殿、そこまでにしてくれ。パリスは芯の強い男だよ」


 アイアースは言葉の意味を解しかねたが、今は気を配るのも無用と、ヘクトールと盾を突き合わせた。


「ヘクトール、アキレウスだけが戦場の花形とは思うなよ?」

「望むところだ、アイアース殿。私のことも、パリスのことも侮らないでいただきたい。戦争の手段は色々と知っているが、あなたには、正々堂々と立ち向かうから、付き合ってもらうぞ」


 アイアースは快活に笑うと、ヘクトールの刺すような視線を盾で遮り、その裏側で白い歯を剥き出しにして牙を剥く。ヘクトールは搦め手を用いれば、いつでもその盾を避けて脇腹を貫くことも出来たが、大きく踏み込み、真っすぐに力を籠めて、アイアースの盾、その真正面に投げつけた。穂先は見事に盾を突いたが、分厚い青銅の板に阻まれ、六つの層を貫くにとどまった。

 アイアースは愉快そうに大笑すると、手に持つ大槍を軽々と投げ、ヘクトールの持つ盾に当てた。ヘクトールの盾も父より受け継いだ立派な逸品ではあったが、アイアースの剛腕の前には脆くも貫かれ、ヘクトールの脇腹を穂先が掠める。身をよじり、何とか急所を避けたヘクトールは、槍を突きだし全霊を込めて盾に立ち向かったが、アイアースはこれを難なく受け止め、手に持つ槍でヘクトールの首筋に傷を負わせた。


 どろどろと血が溢れ出す様に、イリオンの戦士たちが皆腰を浮かす。


 それでもヘクトールは屈することなく、尖った岩を拾い上げると、再びアイアースにこれをぶつけんとした。これさえもアイアースの盾に阻まれ、アイアースは更なる大岩を鷲掴みにし、ヘクトールにぶつける。ついに父より受け取った盾は破られ、ヘクトールは地面に膝をついた。


「「兄君!」」


 デーイポボスとパリスの声が重なる。歯を食いしばり、何とか立ち上がったヘクトールは、兄弟たちを諫めて叫ぶ。


「構うな!」

「終わりだなぁ!ヘクトール!」


 アイアースはその巨躯で自ら体当たりをし、まさしくヘクトールを大盾で圧し潰さんとするところを、両陣営の伝令使が押し留めた。


「若君、戦の時間は終わりです!」


 声を受け、アイアースは大きな舌打ちをする。しかしその後には不敵な笑みで、頽れそうなヘクトールに手を貸し立ち上がらせた。


「城壁の上で守りを固めて迎え撃つ!この搦め手を見た時は辟易したが、なるほどいい男だな、お前は!どうだ、アイアースの剛力は!?」


「参ったよ、その剛腕に勝る勇士はなかなかいないだろう。記念に何か装備を交換しよう」


「お前とならば断る理由はない!どうだ、この、深紅の帯をくれてやろう」

「私からはこの剣だ。受け取ってくれ」


 双方が見事な品を交換すると、それぞれの陣営の中へと戻っていく。アイアースは万雷の喝采に湧くアカイア勢へ、ヘクトールは安堵に胸を撫で下ろすダナオイ勢へ。


神様紹介コーナー:


 アテーナー

 おそらくギリシャ神話で一二を争うほど名の知れた女神。神格は戦略、知恵、工芸などを司り、戦争の中でも都市の防衛と秩序のある争いを専門とする。

 ゼウスが頭痛に困り、頭を割ったところから生まれたというとんでもない逸話がある。とはいえ基本的に娘に激甘なゼウスはやはりアテーナーも可愛いらしく、盛んに可愛がるし、時々叱ったりもしている。腹で無く頭を痛めただけのことはあるということか。


 本作では、筋肉質で逞しい美女神という印象で描いている。学説では黒いアテーナーという説があったりするのだが、ここではイメージの方を優先し、他の女神よりも日焼けをしている程度の描写に留めている。

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