ヘクトール、妻子と語らう あるいは、恩寵なき英雄
激戦の続く中、輝く兜のヘクトールは、城壁の歩哨路で前線を見守る妻アンドロマケーの姿を認めた。すぐさま梯子をよじ登り、愛する妻の元に駆け寄ると、アンドロマケーは歓喜に胸を揺さぶられて、乳のみ子を抱えながら、ヘクトールに駆け寄った。
アンドロマケーも乳のみ子は侍女に預けその手を広げる。ヘクトールは愛する妻をしっかと抱き締めた。
黄昏のイリオンに響く戦乱の怒号は、遥かな城壁の上にさえ、微かに響き渡っている。
ヘクトールは今だけは戦場のことを忘れて、我が子スカマンドリオスを抱き上げる。ところが、スカマンドリオスは父の厳つい装備を見て、恐れをなして泣き出してしまった。これに慌てふためくヘクトールの姿は、嗚呼、ただ優しい父そのもので、愛する我が子に麗しい愛を与えてあやす。
その姿をアンドロマケーは切なく思って見守って言う。
「あの、あなた。どうか私の御願いを聞いて下さい。私の父はアキレウスに討たれ、その子供たち、つまり私の七人の兄弟は、皆この男に討たれてしまいました。もしもあなたを失えば、私の家族はもう、この子しかいないのです。私の胸に悲しみだけを残さないで欲しい。この子を孤児にして、私を寡婦にしないで欲しい。ずっと、この櫓の中にいて下さい。きっと殺されずに済むわ」
そう言うアンドロマケーの懇願は、ヘクトールの胸には確かに届いた。麗しい家族愛を見て、オリュンポスに座するアフロディーテも深い憐憫の情を抱かれた。しかし、どのような深い愛情でさえ、世界はそれを一部と見て取って、尊重してはくれなかった。
ヘクトールは実直で、勇敢でしかも賢明な男だ。それ故に、悲しいほどにその世界の理を理解している。全ては神の掌の上で、イリオンに滅びは齎される。しかも神の血も授からぬ人の子ヘクトールには、神々の恩寵も与えられない。しからばそれを避けるのは、神の御心を動かして、運命を捻じ曲げるよりほかに道はない。
「君とずっと一緒にいたいのは、私も同じだよ、アンドロマケー。しかし、それでは、これまで亡くしてきた仲間たち、私の兄弟たちや君の家族たち、彼らに示しがつかない。彼らは私と共に並び立ち、私の家族やこのイリオンを守るために、肩を並べて戦ってくれた。彼らの名誉のためにも、私が逃げるわけにはいかない」
しかし心ある妃アンドロマケーは、ヘクトールの頑なな覚悟を拭い去ろうと試みて抗する。
「そんなことは言わないで。私はあなたと一緒にずっと生きていたい。あなたの隣でいられれば、どんな辱めも、どんな苦しみも乗り越えられる。どうかお願い、今だけは、私の御願いを聞いてちょうだい」
‐‐運命に甘んじることは、即ち全てを失う事だぞ、小娘よ‐‐
斜に構えた君アポローンが、アンドロマケーの心の内に語り掛けておっしゃった。彼女の願いがどれ程正当なものであったとしても、運命は彼女からその家族を拭い去る。果ては彼女の命さえも・・・。
それ故に、ヘクトールは確かな覚悟を胸に秘め、乳のみ子に父の心臓の鼓動を聞かせて答えた。
「もし私が死んでも、君が守られるのであれば、それは私の救いになる。もし私が生きている間に君が死に、また悲しみに打ちひしがれるのであれば、これは永遠の後悔となる。私の死が永遠の語り草となって、ギリシャ中の人々に広まれば、それはアンドロマケー、君を助ける光となるかもしれない。神々が私と君を再びめぐり合わせてくれるかもしれない。それが誰かの口ずさむ語りの内であったとしても、また、誰かが思い描く空想の、線描のうえであったとしても」
だから、滅びの運命に抗うのだ。たとえ、自らの命に代えてでも。
赤子の泣き声は甲高く響く。厳つい装備に恐れをなした我が子を揺すり、父母は腹を抱えて笑い合った。
そして、ヘクトールはその輝く兜を脱ぐと、そっと地面に置き、赤子に口づけをしてあやしたてる。
「よし、よし。泣かれてしまっては、父は悲しいぞ。偉大なる神ゼウスよ、どうか息子に以下のように誉を授けて下さい。さぁ、スカマンドリオス、お前はイリオンの第一王子ヘクトールの子だ。私が必ずこの広大なトロイアを守るから、いつか大人になった暁には、父を超えるような立派な男になっておくれ。いつか戦場に出て戦う時が来たその時には、見事に武勲を上げて、『アステュアナクスは、あの父君を越えたぞ』と、そう褒めそやされて、母君の誇りとなっておくれ」
そう赤子をあやしたてれば、我が子を愛するアンドロマケーの胸に預ける。香を焚きしめた馨しい胸の中に、スカマンドリオスが収めれば、妃は嬉しくも哀しい思いを抱き、一筋の涙を零した。
ヘクトールはその涙を拭い、アンドロマケーを優しく撫でて言う。
「あまり思い悩まないでおくれ。まだ私が死ぬと決まったわけではない。いや、死は必定とて、それは神々のさだめた運命の、丁度寿命の尽きる時にしか訪れない。今はまだ私は生きている。君の務めを果たしておくれ」
そう言って、兜を被り直すと、たちまち勇士の精悍な顔付きに変わる。荒々しい馬毛を垂らした兜をぎらつかせながら、夫は妻に別れを告げた。
妻は名残惜しみつつ、何度も、何度も振り返りながら家路につく。ヘクトールの姿が見えなくなると、涙を空に散らしながら、二人の愛の巣へと駆け込んだ。愛の巣では、侍らせた侍女らと共に、夫の無事を祈り神々に機織りを捧げ奉る。その、悲しげな葬送歌は、ヘクトールの神ならざる背中に、勇気と覚悟を齎した。
やがて、家を出たパリスがようやくヘクトールの元にやって来る。矢筒を背負い直し、赤い眼でしっかりと兄を見つめると、兄は頼もしい戦友にするように、拳を突き出して胸当てに押し当てた。
「遅れてしまってごめんなさい。僕には、気持ちの整理がつかなくて・・・」
「お前は強い。その優しさで、神々に愛されるのがいい。それはイリオンに光を齎すに違いない」
兄には、神の加護も、神の血も廻ってはいないのだから。
高い城山に家族の長い影を背負って、二人はその一歩を踏み出す。かくして、戦塵塗れる戦場に、勇士が舞い戻ったのである。




