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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
42/99

パリスは兜の緒を締める

 戦争はますます激しさを増し、神々のご介入もなく進むにつれて、死者も続々と積み上げられていった。

 混沌とした戦場に憂いを覚えたヘレノスは、アポローンの予言を受け取ると、すかさずヘクトールに提案する。


「兄君よ、このまま悲惨な戦争が続くのは良くない。敵方についた女神も、どうにか味方に引き入れてみよう」


「なるほど、確かに一理ある。敵は減り、味方も増えれば心強い」


 ヘレノスの聡明な提案を受けて、輝く兜のヘクトールは、ヘレノスに戦場を任せ、大都市イリオンへと舞い戻った。


 激しくなる戦争に、誰もが辟易する中で、ヘクトールはイリオンの窓口スカイア門を潜った。我が子我が夫の身を案じる女たちは、英雄ヘクトールに群がって、その安否を確かめようと、問いただした。その一人一人に丁寧に応じたヘクトールは、その誠実さで戦場に出られない女たちに頼んで言う。


「あなた達が無事でいてくれるお陰で、トロイアの戦士たちは皆勇気を振り絞って戦える。正直に言えば豪傑ぞろいのアカイア勢には、私一人ではなす術もないだろうが、あなた達が、夫を、我が子を、愛するその力のお陰で、こうして何とか立っていられる。そこで、あなた達に頼みたいことがある。人の力では限界があるから、神々にも力を借りたいのだ。数多神々に贄を捧げて、祈りを捧げてはくれないか。あなた達一人一人と、その子ら夫らの力に加えて、神々のご助力が加われば、流石のアカイア勢も侵略を諦めてくれるだろう。どうか、もう一声、あなた方の力を借りたい」


 このように弁舌を振るって見せれば、女たちに否やなどあろうはずもなく、一目散に神々に祈りを捧げに向かった。特に勝利を願って、パラス・アテーナーの足元に傅いた女たちは多くあった。しかし、無論アテーナーはそれを取り合うことはされず、彼女たちが自慢にする、最も見事な衣装も無駄になった。


 さて、城内へ戻ったヘクトールは、庭先でばったりと母ヘカベーと出くわした。その傍らには容姿麗しい姫、ラオディケも控えている。思いもかけず息子を見つけたヘカベーは、その生死を確かめて抱きしめる。


「無事でよかった、ヘクトール。トロイーロスに加えて、あなたまで失えば、私は・・・。少し休んでいってはどうですか。雷を愉しむゼウスに献酒して。きっと神もお慶びになることでしょう」


 このように息子を労わるヘカベーに対し、輝く兜のヘクトールは、気丈に振舞って言う。


「そうしたいのは山々だが、敵の血で汚れた手で、主神ゼウスに献酒をするのは流石に畏れ多いよ。それに、酒のために戦に集中できないのでは困る。私よりも、私の妻や、母君が、ゼウスにおもねる方が喜ばれるだろうしね。献酒はその為に使っておくれ。今は、弟に会いたいかな」


 ヘクトールの言葉を受けて、ヘカベーはみるみる不安に駆られ、彼女の愚息、つまりは臆病者のパリスを諫めながら答える。


「あの馬鹿息子に会いたいのですか?愚昧なアレクサンドロスに?それこそ士気が下がるのでは?あなたは大切な子、私達の希望。その芽を摘むようなことはしたくありません」


「そうでもないよ。人には向き不向きがある。パリスには穏やかな心がある。それが仇となってイリオンが滅びることもあるでしょう。ですが、母君。その悲しみも、私どもが彼に抱く憎しみも、神々の前では些事に過ぎません。それに、私は、最期の最期まで、イリオンのために戦いたい。パリスが戦うのは、イリオンのためではないとしても、その利害は一致しているのでね」


 ヘカベーはそれ以上何も言い返すことは出来ず、ヘクトールの願いに従って、ゼウスに献酒し、またアテーナーに祈りを捧げに向かった。

 ヘクトールは、ヘレネーに抱かれて慰めを受けるパリスの姿を認めると、柱と柱の間、柔らかい羊毛に包まれるその二人に向けて、気さくに声を掛けて言う。


「パリス、無事だったか」

「兄さん・・・。申し訳ありません」


 パリスはすすり泣きながら、自らの責任に圧し潰されるように猫背になっている。委縮したパリスに対し、ヘクトールは発破をかけて言う。


「あまり長居をするな。死を恐れることは悪いことではないが、臆病者には苦労して戦う者たちが腹を立てる。お前のことは良く分かっているつもりだ。無理をせずとも良いと言いたいが、滅びゆくイリオンを守らねばならない。厳しいことを言うぞ、パリス。戦え。槍を持って、その弓を引いて戦え」


 このように言うのを、髪麗しいヘレネーが庇って言う。


「図らずも愚妹を得てしまったヘクトール兄様、どうかパリスを攻めないで。彼は私の光、私を助けてくれた人です。あなたの言う通りだから、すぐに送り出しますから。それまで待っていて下さい」

「ヘレネー。すまないが待つことは出来ない。私を待っている戦士たちが必死に戦っているのだ。君は決して悪い人ではない。悪いのは責任から逃げたパリスだよ」


 このやり取りを素直に聞き、恐怖で打ち震える自分を恥ずかしく思うパリスだったが、硬直して体がうまく動かせない。昏い死の恐怖に当てられて、神にも見紛うアレクサンドロスは、餌を乞うひよこのように泣きじゃくった。

 その様を見て、ヘクトールは弟の肩に手を置いた。


「大丈夫だ、お前は強い。暗闇に捕らわれたヘレネーを助け出したお前の勇気に、もう一度頼りたいと兄は思ったのだ。酷いことを言ってすまなかった。だがこれも事実だ。どうか、その心を奮い立たせて、私に背中を預けてくれないか」


「行きます・・・きっと、追いつきます・・・」


 パリスは肩を震わせて答える。ヘクトールは輝く兜を降り注ぐ陽光に晒して立ち上がり、ヘレネーにパリスを託した。そして、彼の今生最期の思い出とする覚悟で、アンドロマケーを探して城を出発する。その逞しい背中が光の中に消えていく様を、パリスはしかと見送って、自分の周りに散らかった武具をかき集めた。

 立派なリュカオーンの装具が涙にぬれる。名誉を求める槍がその穂先を濡らし、命を守る大盾を腕に掛ける。そのままヘレネーに不安に脈打つ心臓を預ける。その高鳴りに悲壮な覚悟を受け止めたヘレネーは、パリスの背を撫で、その唇に唇を重ねた。パリスはゆっくりと穏やかな日々に背を向けて歩み出す。その双肩にイリオンの命運を背負って。


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