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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
41/99

二柱激突

 この戦場で見事に名誉を上げたのは、テラモーンの子アイアースと、パラス・アテーナーに助けられたディオメーデスであった。彼らの示した武勇は、イリオンの勇士らを悉く討ち取り、アキレウス不在のアカイア勢の勇気を奮い起こした。


 激しい戦場に続々と戦士たちが倒れ伏す中、老ネストールはこの勢いを削ぐように、戦利品に群がる戦士たちを叱責して言う。


「お前たち、今は目の前の敵を倒せ!そんなものは後でいくらでも回収できるだろう!」


 老練の勇士に奮い立てられた戦士たちは、再び戦闘に合流した。


 このように、アカイア勢は凄まじく敵をなぎ倒してきたのであるが、見よ、アトレウスの子メネラーオスは、痛みを抱えるにとどまらず、喉を捻り潰そうとしたパリスの言葉が脳裏を過り、戦闘に集中できないでいた。見事に討ち取らんとした敵の命乞いに心を寄せ、捕虜として捕らえようとする弟に向けて、アガメムノンはこの捕虜を突き放して叱責する。


「イリオン人がお前にした侮辱を忘れたのか!それとも、イリオン人はお前によく尽くしたというのか?そんなことは全くない!すぐにそいつを突き殺すがいい!」


 このように言うと、アガメムノンはメネラーオスの槍を奪い取り、これで捕虜の喉を貫いた。彼は砂の上に多量の血を零し、その瞳は闇に覆われた。


「兄君・・・私は・・・」

「ええい、黙れ!お前はイリオン人を打ち倒せばよいのだ!余計なことは考えず、あの憎しみを思い出せ!」


 アガメムノンの言葉に詰られて、メネラーオスは心に靄のかかったまま、続々と敵を打ち倒した。


 さて、アガメムノンに発破をかけられて、メネラーオスが忙しなく戦う一方で、勇士の一人ディオメーデスはパラス・アテーナーの鼓舞に従い、続々と戦果を挙げていた。これに対し、イリオンの戦士たちは、アキレウスの時ほどではないにせよ怖気づき、士気は大いに下がるばかりであった。


 そこで、見かねたアイネイアースが、メネラーオスを射掛けたパンダロスを探し出して言う。


「パンダロス殿!弓の名手であるあなたを見込んで頼みがあります!アカイア勢の内の何者かが、神の如く暴れ回っているようです。その弓で足を射抜き、動きを抑えて下さいませんか!」


 ところが、図らずも先陣を切ってしまった弓の名手パンダロスは、自らの弓をへし折らんばかりに歪ませて言う。


「ディオメーデスだ!あの大盾に、四つ星の兜、間違いない!しかし悔しいかな、いずれかの神のご加護があるようだ。加えてこの戦場に持ってきた自慢の弓矢も、イリオンの人々に迷惑ばかりかけてこれっぽっちも助けにならなかった。今すぐにでもへし折ってやりたいぐらいだ!」


 このように、自暴自棄に陥る様を見て、アイネイアースはその手を強引に掴み、快活な笑顔を見せて励ます。


「そう言うな、戦友よ。あなたの弓の腕前は見事ですよ。そうだ、戦車を駆って戦おう。機動力を持った弓兵の恐ろしさは、遥か昔にも証明されています。逃げるにも攻めるにも良し!どうでしょう、パンダロス殿が望むならば、射手を私に託してもいいですよ!さぁ!」


 こう言って手を差し伸べるアイネイアースに絆されて、パンダロスはその手を受け入れ立ち上がった。


「射手でならあなたに劣る気は無い。騎手を頼もう」


 彼はアイネイアースの操るトロス馬が牽く戦車に飛び乗る。二人の勇士は砂埃を上げて馬を走らせ、弓と槍を操りディオメーデスへと迫る。このことを知らされたディオメーデスは、これを迎え撃つ。凄まじい勢いで射かけられた矢も、アテーナーの加護ある大盾に阻まれ、弾かれた。


「狙いは悪くなかったが、やはり弓矢では射抜けないと見える」


 パンダロスの呟きに、勇士ディオメーデスが答えて言う。


「痴れ者が、意思無き矢などに射抜かれるはずもない。やはりイリオン人は臆病者なのか?」

「では、これではどうだろうか!」


 パンダロスはすかさず槍を投擲した。すると、槍はディオメーデスの盾を見事に射貫き、胸当てにまで突き刺さった。


「良い一撃だが、お返しだ!」


 ディオメーデスが投げ返すと、見事にパンダロスの鼻を貫き、その傷は顎にまで及んだ。槍に討たれて即死したパンダロスの遺体を守らんと、アイネイアースは戦車を飛び降り、ディオメーデスを阻む。ところが、武勇優れたディオメーデスは、パラス・アテーナーの寵愛深く、この時ばかりは流石のアイネイアースでさえ打ち倒される恐れがあった。

 遺体を庇いながら敵を迎え撃つアイネイアースに、ディオメーデスは大岩を投げつける。見事、大岩はアイネイアースの盃骨に的中し、骨は砕かれ、腱は損傷した。立つこともままならぬ有様となったアイネイアースに、ディオメーデスは槍を構えて迫り来る。


「アイネイアース!」


 その刹那、笑み愛ずる母アフロディーテは、我が子をお庇いになり、その御衣でアイネイアースをお包みになった。神の並びなき御衣はディオメーデスの攻勢を見事に防ぎ、イリオンの見事な城壁の中へと運ぼうと試みられた。無念、パンダロスの遺体は戦車と共にアカイア勢に奪われ、苛烈な追跡で女神を追い立てたディオメーデスは、その槍で女神の腕を突き刺した。襞も優美な御衣は、黒い血に染まり、艶やかな腕にも痛ましい傷が刻まれた。


 その悲痛な叫び声をお聞きになった、アフロディーテの愛人、アレースは、怒りに打ち震えてオリュンポスの峰を駆け下りる。

 一方でディオメーデスは、その矛を収め、女神に忠告をして言う。


「女神よ、戦場に無害な女がいらっしゃるのは感心しませんよ。あなたは愛の女神でありましょう。乱暴狼藉を受けたくなければ、さっさと手を引かれるが良い」


 ディオメーデスが槍を振り上げると、空には色鮮やかな虹がかかる。アフロディーテはそれをご覧になると、再び立ち上がりご逃亡なされた。そして、虹がみるみるうちにディオメーデスの頭上を駆け上がると、女神イーリスが笑み愛ずる君アフロディーテをお救いになり、戦場からオリュンポスの峰へとお運びになった。


 そして、イーリスの立ち去られるまさにその直後、見事な肉体のアレースが、残虐な剣を帯びてイリオンの地にご降臨なされた。

 なおもアイネイアースを狙うディオメーデス目掛けて、鋭い遠矢が降り注ぐ。勇士がこれを何とか避けると、ゆったりと構えた輝ける君アポローンが、アイネイアースを保護しておっしゃる。


「テューデウスの子ディオメーデスか。見事な槍捌きだが、そこまでにした方が良い。アフロディーテを傷つけたそうではないか。仮にもゼウスの娘の彼女を。どのような報いも受け入れるというわけだな」

「その輝きに一欠けらの曇りも得たくなければ、神よ、その男を置いて去られよ」

「厚顔無恥な男よ。まぁ、その武勇に免じて射殺すのはやめてやろう」


 神はこのようにおっしゃると、御衣をふわりと靡かせて、さっと戦場を立ち去られた。今まさに戦場へ向かう御兄弟、アレースとのすれ違い様に仰せになるには、


「アレース、あれを止めろ。そのうち父君にさえ狼藉を働くようになるぞ」

 アレースも、これに答えておっしゃるには、

「俺の女に手を出した男だ。当然報いは受けてもらう」


 その健脚で大地を蹴り上げれば、凄まじい砂塵が巻き起こる。アレースが露わにされた恐ろしい憎悪を垣間見ると、アポローンはこれを御諫めになっておっしゃる。


「相も変わらず野蛮な男だ」


 アレースは構わずに戦線へと躍り出ると、トロイアの戦友、トレケの軍勢を率いるアカマスの姿を借り、防戦に徹するプリアモスの子らに発破をかけておっしゃった。


「さぁ、さぁ、殺し合おう!どうしたゼウス神に愛されたプリアモスの子らよ!疾く槍で敵の脇腹を突き、臓物を引き摺りだしてくれよう!盟友たちの弔い合戦の始まりだ!」


 こうおっしゃると、アレースもといアカマスは、アカイア勢の槍を悉く肉体で受け止め、盾を打ち捨てると、その手で剣を引き抜いて、肉で敵の槍を奪い取る。トネリコの柄をそのまま凶器に取り換えて、自ら突き刺す槍を盾で躱させると、盾の隙間から覗く左の脇腹に剣を突き刺した。アカマスが退くと同時にトネリコの柄が周囲のアカイア勢の腕を打ち、その手から剣や槍を落とすと、これを拾わんとする敵の脇腹に剣を叩きこむ。

 この凄まじい光景に、アカイア勢は思わず狼狽え、盾一つを頼りに戦線を崩した。


 この光景を目の当たりにしたヘクトールは、意気込んで味方を鼓舞して言う。


「ディオメーデスがパラス・アテーナーに愛されたというならば、我らには血みどろの君(ミアイフォノス)アレースがついている!神々のうちでもっとも獰猛で、もっとも今の我らを助けてくれる神だ!今こそ勇気を振り絞り、アカマス(アレース)に続け、続け!」


 ヘクトールの言葉に勢い付いたイリオン人は、その大盾を構え直し、槍を突きだして前進する。足並みそろえるイリオン人の軍勢は、先陣を切って進まれる、血塗れのアレースに続く。どんどんと宿営地へと追い立てられるアカイア勢は、あの勇猛なアイアース、アテーナーがお選びになったディオメーデスでさえ怖気づく。その様を、オリュンポスの峰から眺めた白い腕の女神ヘーラーがご覧になると、怒り心頭にゼウスに訴えて言う。


「あなた!これでは話と違います!あの放蕩息子の仕業に違いない!アカイア勢に力添えをするその許可を与えなさい!」


 ゼウスは内心ヘーラーの癇癪に辟易されていたが、今は心ひとつ、自らの愚息を懲らしめんとされ、二つ返事でお答えになる。


「あいわかった。アテーナーを遣わせよ」


 パンダロスの射掛けた弓でついた傷を冷やす、ディオメーデスの側で勇気を吹き込まれるアテーナーは、鷲の慧眼に神意を読まれ、即座にディオメーデスに発破をかけておっしゃった。


「あの獰猛な男を見よ。あれはアレースに違いない。だが、秩序も持たぬ狂戦士など、私の敵ではないだろう。お前の勇気を奮い立てて、見事に討ち取って見せよ」


「アテーナー様よ、あなたのおっしゃったとおりに、私は神に楯突くことはせず、一旦は退きました。また、このディオメーデス、同じ女神のアフロディーテには、神意の通りにその柔肌を傷つけて、見事に退けて見せました。それでも、アレースには立ち向かっても、そうしてもよろしいというのですね?」

「お前は可愛い奴だな、ディオメーデス。私の言いつけを良く守っている。ならば付言してやろう。アテーナーはお前がアレースを打ち倒すと保証する。そしてこれは、私ならず、人都守る主神ゼウスのご神慮であると」


 アテーナーのお言葉に、みるみる勇気を取り戻したディオメーデスは、アカマスの前に歩み出る。アカマスもといアレースは、その傍らに控える神をご覧になると、にかりと歯を見せて笑いかけておっしゃる。


「おうおう、ゼウスの娘子さんよ。ここは俺たちの戦場だ。邪魔立てするなら容赦はしないぜ?」


 これに対し、パラス・アテーナーはあくまで冷静に、盾を構えておっしゃった。


「お前か、アレース。迷惑千万、神々の面汚し、最も野蛮でどうしようもない神よ。お前のような御子を持って、父君もさぞお嘆きであろう。さっさと去ね、天におわす神々が呆れておられるぞ」


「言葉で言うこと聞くような奴じゃないってのはよぉ、お前が一番良く分かってんだろうが、よ!」


 戦場に昏き死を齎す神は、刹那の内に槍を投げられると、その凄まじい勢いは瞬く間にディオメーデスの盾を貫かんとする。そこにパラス・アテーナーが躍り出て、アイギスで以て受け止められた。

 ゼウスの戦姫がお持ちの具足、肩にお当てになったアイギスは、百もの総が取り付けられていた。その縁取りには神々の肖像、即ち、「潰走(ポボス)」、「争い(エリス)」、「武勇(アルケ)」、「追撃(イオケ)」が取り囲み、目を見れば石と化す怪物ゴルゴーンの首で飾られている。


 アレースの攻勢は止まらない。アテーナーは一切の攻撃を受け止められて、ディオメーデスに隙を突くように促される。そんな中、ヘーラーは委縮したアカイア人に発破をかけて、その心に勇気を吹き込んで回られる。アカイア勢も漸く力を取り戻し、イリオンの戦士たちと激しく進退を争った。

 いよいよアレースの凄まじい攻勢に、僅かな隙を見出すと、ディオメーデスはすかさず槍を突きだした。この一瞬の攻勢が緩むと、すかさずアテーナーがディオメーデスの放った槍を突きだされ、アレースの腹帯を貫いてみせた。イリオンの勇士らに立ち向かうアカイア勢が竦み上がるほどの凄まじい悲鳴が辺りに響く。アレースは鼓膜を破らんほどの耳をつんざく悲鳴をお上げになると、ようやくオリュンポスの峰へと退いていかれた。


 この日の夕陽が空から落ちるまでの戦乱は、双方多大な犠牲を払い、数多勇士らの遺骸を戦塵へと晒すこととなる。


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