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イリオンの矢  作者: 民間人。
不和の林檎
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思惑・御牛徴収

 当時世界一の美女と言えば、スパルタはメネラーオスの娶ったヘレネーに違いない。オリュンポスに座する神々も、人の間では最も美しいだろうと、異口同音に答えるほどであった。

 そこで、アフロディーテがパリスの新妻として彼女を迎えようと試みるのは、想像し難いことではなかった。そこで、先手を打ったのはアテーナーであった。


 アテーナーは荒ぶる戦神アレースを奉ずるこの地に降り立つと、颯爽と玉座へと赴き、二王の内の一人、メネラーオスを呼びつけた。

 退屈な王はアテーナーが訪れたと聞くや否や、争いの予兆を感じ取り、直ぐに槍と盾を手に取って馳せ参じたのである。


 さて、戦女神アテーナーは、メネラーオスの好もしい勇ましさに感心し、大音声を上げておっしゃった。


「メネラーオスよ、アカイアの更なる繁栄を求めて、戦いに挑む気は無いか」

「スパルタは盾!戦とあれば喜んで応じるでしょう」


 メネラーオスははきはきとそう答え、盾を掲げて見せる。その円盾は、羊の皮二層に守られた青銅の盾であり頑強で敵の槍を良く弾く代物であった。

 アテーナーはますます好ましく感じられたのか、メネラーオスの盾にアイギスを突き合わせておっしゃった。


「よろしい、近く激しい戦闘が起こるやもしれぬから、その際には雄々しく戦うように。何、取るに足らない相手だよ」


 アテーナーのお言葉に、メネラーオスははきはきと応じ、すぐさま捧げものの牡牛を焼いた。女神は満足し、更なる地固めの為にミュケーナイへと向かわれた。


 さて、ミュケーナイは当時もっとも権威あるペロポネソス半島の中心地であり、その地を治める王はアガメムノンと言った。優れた将軍でありながら、傲慢で激しい気性の男であった。女神がミュケーナイの支配者をお呼びになると、頬杖を突き玉座に座るアガメムノンは擡げていた顔を上げ、仏頂面で神の御前に参上した。

 アテーナーにはその態度が好ましく思われなかった。彼女はアイギスを王の前に掲げ、その悍ましい装飾、人を石に変えるメドゥーサの首を向けておっしゃられた。


「ミュケーナイの支配者、傲岸不遜のアガメムノンよ。アカイアでは最早得難い更なる領土を得たくはないか?」


 女神のお言葉を聞き、アガメムノンは、訳知り顔で微笑を向けた。玉座の裏から人の世にあるまじき美女の姿が現れる。

 アテーナーはアガメムノンの傲慢な態度の意図を理解され、男の後ろに着く女神に傅かれた。


 神の中の女王、白い腕持つ女神ヘーラーが、既にミュケーナイの支配者に神意を伝えていたのであった。アガメムノンはヘーラーに道を譲り、ヘーラーはアテーナーの元へと降りられた。


「奇遇ですね、可愛い娘よ。私の御子ではないにしても、聡明さでは夫の血を引くだけのことはある」


「お褒めに与り光栄に存じます。しかし、どのように事を運ぶおつもりなのですか。アガメムノンでは力不足に思われますが」


 聞き耳を立てるアガメムノンの表情は暗い。二柱の神は人などに目もくれず、思惑を語り明かした。

 まず、アテーナーがおっしゃるには、「イリオンを私の加護によって落とし、パリスを探し出して滅ぼす」と、続いてヘーラーがおっしゃるには、「力において不足はなくとも、その手には大義があってこそでしょう」と。

 ヘーラーはそうおっしゃると、アテーナーに策を授けられた。みるみる内に表情を曇らせたアテーナーは、しかし、その権勢止むことなき女神ヘーラーに渋々と同意された。


 アガメムノンは早速と支度に移る。二柱の女神はイリオンの方を向き、異口同音にこうおっしゃった。


「見ていろ、愚鈍のパリスめ。必ずやその過ちを償わせてやろう」



 後日、パリスは王都イリオンの役人が家に現れたことに、恐れ慄きつつオイノーネーに寄り添った。

 三女神の審判により、パリスの甲斐性のなさは一層際立った。オイノーネーに寄り添い縋る姿は、およそ男の姿ではなく、その女々しさに役人もあきれ返るほどであった。

 とはいえ、役人は神意など知らず、まして神々とまみえた事すらない、単なる鉄の人に過ぎなかった。パリスの狼狽ぶりに呆れつつも、その真意を介することもなく、彼はイリオンの王プリアモスの命令に従い、近隣で特に優れた牛の回収を任されていた。

 牛の審美眼には一等自信のあるパリスであれば、優れた牛の一頭や二頭、育てていても不思議ではない。かくして一端の羊飼いであったパリスにも、白羽の矢が立ったのである。


 役人がイーデー山にある彼の土地を探れば、素晴らしい牛達が多く見出された。パリスの審美眼に一切の不足はなく、役人は彼の自慢の牛の中で最も良い牛を選び出した。

 それは肉付きも良く、雄々しい角を持つ牡牛であって、闘牛では秀でた才能を発揮するものであった。パリスは役人がこの牡牛を牽き、山を降ろうとするのを、耐え兼ねて止め諫める。


「お待ちください、王の御使いの方!どんな故あって私の自慢の牛を連れていかれるのですか!」


 声を上ずらせながら訴えるパリスに、役人は冷ややかな目を向けて応じた。


「王は災厄の御子の魂を鎮めるべく、鎮魂の宴を執り行われるのです。イーデーの山にお捨てになった幼い御子のことを思う陛下の御気持ちは察するに余りあるでしょう。分かったら黙って王の御子の魂を弔って差し上げなさい。あなたもイリオンには恩義があるでしょう」


「それでは、我慢なりません!陛下ならもっと良い牛など飼っておられるはずでしょう。どうかその牡牛のことは諦めて、他を当たっては下さいませんか?」


 役人はパリスの言葉を受けて、改めて牡牛を見定める。なるほど比類なきというほどではないが、めったに見られないほど良い牛であることは間違いなかった。役人は腰に帯びた武具を揺らして振り返ると、その冷ややかな目をパリスに向けて短く言い切った。


「十分な牛ですよ。それでは」


 役人は牛を牽いて山を降っていく。パリスはサンダルも履かないままに役人を追いかけたが、山肌に転がる石が足の裏に刺さり、痛みに耐えかねて転がった。うつ伏せに倒れたパリスは擦り剥けた傷の痛みに耐えて立ち上がったものの、その時には既に役人の姿はなく、膝を折り、地面に伏せて泣いた。


 このように、雄々しさの欠片もないパリスであったが、オイノーネーは彼に駆け寄り、寄り添うと、傷口に軟膏を塗って手厚く介抱した。パリスは痛みと喪失感に苛まれて唸ったが、やがて気概を取り戻し、オイノーネーの手を取って言った。


「先程の役人は、王子の鎮魂祭儀に使うと言っていた。闘牛に優れた牡牛を連れて行ったから、神への捧げ物ではなく、きっと競技会の景品になるに違いない。取り戻すには競技会に出向き、優れた成績を残すことが最適なはずだ。オイノーネー、少し留守を頼んでいいかい?」


 オイノーネーはパリスに発破をかけて言う。


「任せて下さい。あなたの逞しいことを、必ずや見せて下さいますように」


 パリスはオイノーネーの手を離し、その頬に口づけをして立ち上がった。そして、裸足はそのままに、凄まじい砂埃を上げて山を駆け下りていった。


 さて、パリスの滾る反骨心に快く応じられたのはアレースであった。アフロディーテと不貞の交わりをしたこともある戦乱の神は、黄金の果実を用いた審判ではアフロディーテを、牡牛の審美会では自分を選んだこの青年を、殊の外気に入っておられた。何より、イリオンの都で行われる王子の追悼行事では、競技会に参加するということをお聞きになり、闘争心逞しいアレースにはやはり快く思われた。


 神々は殆どその追悼行事に関心を示さなかったが、アレースはパリスに勇猛さを吹き込まれ、牛を連れて山を降りていく役人を飛び越えさせ、一目散にイリオンへと辿り着かせた。


 追悼行事の時間にはあまりに早く到着したので、パリスは神の恩寵に耐え兼ねて都の市壁を潜るなり地面に仰向けに倒れた。全身で息をし、すっかり萎えた体を何とか起こすと、彼は急ぎ木陰に入り込んだ。パリスはそこで深い眠りにつき、競技会の前に身を休める。

 大会の直前まで死んだように眠った彼は、途端に恐怖心に駆られ、慌てて牛の肉を買い、その場で薪を焚いた。


「このような場所におられないことはわかり切っておりますが、戦の神、アレースよ。どうか逃げ腰の私に競技会へ向かう勇気を与えて下さいますように」


 アレースはますますこの男を好ましく思われて、彼の望むままに闘争心を吹き込んでやる。パリスは人が変わったように逞しい顔つきをして、競技会の行われる会場へと足を運んだ。


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