表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
39/99

パリスとメネラーオスの決闘

 この時より偉大な詩人が語り起こした通り、アキレウスはその瞋恚の趣くままに戦を拒み、戦場に現れなくなった。アキレウスの略奪した娘ブリセーイスは今となってはアガメムノンの物。英雄は怒りに打ち震え、勤勉な仲間たちと共に船に立て籠もる。そうとも知らずに、薔薇色の指持つ君(ロドダクテュロス)エーオースが空を曙色に染め上げると、ギリシャの勇士達は忙しなくイリオンへと攻め入った。


 イリオンの勇士達も歩哨路を埋め尽くし、夜中かき集めた大岩や、投げ落とされた槍や矢を、しこたまこしらえて城壁の上へと運んで待つ。アカイア勢が遥かな地平線の彼方から迫り来ると、ヘクトールは即座にその異変に気付いて言う。


「アキレウスならばもっと速く迫ってくるはず。アキレウスはどこだ?」


 それはイリオンの戦士たちに衝撃として伝わった。何故なら、アキレウスが先頭にいないというならば、警備の弱い城壁の裏から攻めよる恐れがあるためだ。そのために、イリオンの四方八方を守る城壁に睨みを利かせ、斥候をしらみつぶしに倒してきたのだから。


 イリオン人の間に動揺が走る。ヘクトールはすぐさま向かいの防壁へと走り、ヘレノスは予言の力を借りてその後の出来事を占う。その様を、パリスは不安に駆られながら見守った。


 アカイア勢が今までよりずっとゆっくりと攻め入ってくる様を、イリオン人は不気味に感じながら身構えた。それはもう、滅びの予兆であるアキレウスがすぐそこまで迫り来ているのではないかと不安に駆られるほど。


 ところが、ヘレノスとヘクトールが異口同音に声を上げて言う。


「「アキレウスはいない!!」」


 言葉を受け、イリオンの勇士達の中から沸々と勇気が湧きだした。溢れんばかりの勇気に任せて、槍を持つ戦士たちは城壁を降り、戦場へと駆けだし、パリスと雑兵たちはそれに従って前進した。アカイア人が攻め来る様にも物怖じせず、決死の抵抗を決めたイリオン人は、戦塵を大地から巻き上げながら、足取りを揃えてアカイアの戦士と激突する。この激突の様に、遥か後ろで弓矢を構えるパリスは恐ろしさを覚えつつ行軍した。心に決めるにはあまりに臆病な滅びの御子は、暫く弓を引き絞り、猛きアカイアの戦士たちの喉元に矢を射かけて野犬や野鳥の肥やしに変えた。


 凄まじい戦闘が続く。戦士たちが地上に倒れ伏し、サンダルに踏み込まれるか槍を突きたてられて死んでいく。戦塵の凄まじさに息を呑むパリスは、あるイリオン人の盾がまさに貫かれんとするその時に、声を裏返らせて叫んだ。


「アカイア人の戦士たちよ!ここで戦も手打ちとしようではないか!」


 怯え切った声であったが、しかし、その美貌、神にも見紛うパリスの声は、涼やかなオデュッセウスの声にも似て優しく、すぐに一端の王族の声だと周囲に認識させた。


 驚いたのはヘクトールとデーイポボスである。臆病者で武芸にも優れたところのないパリスが、その透き通った声で決闘を申し込んだのだから無理もない。

 イーデー山に掛かる霧は、パリスを酷く怖がらせたものだが、今は遥か彼方に靄のようにかかるばかり。それは神々の命ずるままに戦う戦争にも似て、勇士らの心を削いだのは先に述べた通りである。

 曲がった弓、彼の背格好に見合った剣を背負い、イリオンの戦士が予備に持つ槍を二振りばかり借り受けると、パリスはその端正な風貌を晒して、最前線へと躍り出た。


「これ以上の戦は互いに消耗するだけです。この争いの原因となった私と手合いし、その勝敗を決めるべきではないか?」


 パリスの言葉に反論をしたのはデーイポボスであった。彼は凡庸な戦士にも勝るところなきパリスのことを酷く気に掛け、パリスに掴みかかって言う。


「やめとけ、やめとけ!お前じゃ大将らには絶対勝てない!」

「・・・神々の加護を願うばかりだよ」

「アレクサンドロス!」


 デーイポボスの制止も振り切り、パリスは槍を滑らかに指の上で踊らせる。曲芸師のような柔らかな指捌きで、槍は次々に向きを変えながら、心地よい音を立てて風を切った。


「面白い、受けて立とう!」


 アカイア勢の中から一等精悍な声がする。槍と盾を構えたメネラーオスが前線へ躍り出ると、パリスの顔を見るなり憎々し気な笑みを浮かべた。


「久しぶりだな盗人王子。相も変わらずお可愛らしい顔立ちでなによりだ。ヘレネーは元気にしているか?」

「あなたの所にいた時より、ずっと生き生きしていますよ」


 その言葉を挑発として受け取ったメネラーオスは、パリスに掴みかからんとする。その覇気に、顔面蒼白となったパリスは、慌ててイリオンの戦士の後ろに隠れる。その手はすっかり震え、萎えた泣き顔はちょうど幼い仔兎のよう。

 アカイア勢の中からどっと笑い声が上がった。パリスは涙目になりながら、単なる戦士の盾の裏からアカイア勢を覗き込む。高鳴る心臓を鷲掴みにし、自らの不甲斐なさに殆ど崩れ落ちそうになった。


 その時、前線で最右翼を守るヘクトールが、大音声を上げて言う。


「情けないぞ、パリス!お前は自ら躍り出て、我々イリオンの勇士達に泥を塗るつもりか!お前は人の妻を盗み出し、放埓に耽る女々しい男だというのか!」


 いつになく厳しい言葉に、パリスはすっかり委縮した。

「返す言葉もありません。ですが、笑み愛ずる君アフロディーテ様のご寵愛があって・・・その神意については、どうか何も言わないで下さい・・・」


 しかし、ヘクトールは前に飛び出すと、武器を構えるメネラーオスに向けて誠意ある言葉を投げかける。


「アレースの寵児たるメネラーオス陛下、私の顔を覚えておられるだろうか。私はイリオンの第一王子ヘクトールという者だ。この軍勢を預かって、日々重責を痛感する。陛下も日々ご立派に戦い、仲間と一致団結して、私達に向かって来られる様を、よくお見かけしています」


「ヘクトールか。なるほど、お前は強い男だな。パリスの兄弟とはとても思えぬ。しかし、このままでは私も腹の虫がおさまらぬ。お前が決闘を申し出るというならば、私は喜んで受け入れよう。それに見合う戦士と見たからな」


「いいえ。この戦いを始めに言い出したのはパリスです。ならばあなたと戦うのは、パリスであるべきでしょう。ヘレネーと、そしてその全財産と命で以て、あなたに立ち向かうとパリスは決めたのです。どうか貶めて下さるな。パリスは心優しい花のような弟、ヘレネー妃と共に花を愛でる姿はまさに並び立つ芍薬、エリュシオンの如き光景です。そのようなパリスが無い勇気を振り絞り、不毛な戦いを終わらせようと、両軍にこれ以上の犠牲を出すまいと、このように一騎打ちを申し出たのです。その勇気、無謀ともいえるほどの勇気を、どうか受け止めては下さらないか」


 ヘクトールの言葉を受けて、メネラーオスはアカイア人に着座を促す。観戦の構えを取ったアカイア人は、槍を天に突き立て、盾を膝の上に置いて砂の上に座る。ヘクトールもまた、イリオン人に矛を収めるように促した。そして、イリオンの盾が隠すパリスだけを立たせて、戦士たちは座り込む。


 ヘクトールはパリスの手を引き、メネラーオスと対面させる。怒りに任せて歪んでいたメネラーオスの顔は、いつの間にか精悍な戦士の顔に戻っていた。


「パリス王子。お前如きが私に勝てるとは到底思えぬ。しかし、兄者の顔を立てて、槍を交えてやろう」


 契りを破ることなきように、イリオン人とアカイア人は互いに家畜を一頭持ち出し、それぞれを人都を守る主神(ソシポリス)ゼウスへ捧げた。無論、ゼウスはこれを受け取らず、テテュスの名誉を重んじることと決めた。


 羊の肉が焼き上がり、まずは臓物を互いに食らい合う。次に若者が5つ叉の串を持ち寄って、肉を刺し、これを丁寧に焼き上げる。イリオン人の差し出したものは牧人パリスの持ち物で、パリスが丹精込めて育てた羊は脂の乗りも程よく、他の家畜よりも甘美な味わいに優れていた。


 互いにゼウスへと、決闘の誓いを言い合う。先ずはイリオン人が、パリス王子の命と全財産を掛けることを神に誓い、その証人を、老王プリアモスに任せた。老王は目の前でパリスが死ぬその姿を見ることを拒み、誓約を受け止めたうえで城壁の中へと引っ込んでしまう。

 そしてアカイア人が、パリス王子の勝利の際にはヘレネーをそのまま明け渡すことを誓い、仮に約束を反故にされれば、イリオンの陥落まで戦い抜くことを誓った。


 かくして、双方の成約がなったところで、戦場に砂塵運ぶ風が吹き荒ぶ。風は山麓にかかる霧を払い、パリスの迷いを拭い去った。

 オデュッセウスが青銅の兜を取り、ここに小石を二つ放り、一方をパリス、もう一方をメネラーオスの籤とする。

 オデュッセウスが籤を混ぜる間に、ヘクトールが歩み出た。両軍は神々に和平と公正なる決闘の遂行を祈る口上を唱える。ヘクトールが籤を引くと、パリスの小石が飛び出した。


 メネラーオスは堂々たるいで立ちでパリスを迎え撃つ。前方に盾を構え、後方で槍を構える万全の姿勢を作る。一方のパリスは、弓矢では到底対処できまいと、槍を構え、さらに大きな円盾を構える。踝を覆う銀の金具は柔軟でありながら頑健で、これが脛当てを煌びやかに支える。無花果狩りをするうちに捕らえられ、売り飛ばされた兄弟リュカオーンの装具である、胸当てはぴたりとパリスの体に合う。肩に掛けた太刀は銀鋲を打ち込んだ代物で、これも見事な逸品である。


 装備はメネラーオスも違いはない。しかし、パリスの装備はより豪華な装飾があり、イリオンの豊かな財産を垣間見ることができた。


「お前が先に投げるのだな。どうだ、槍は苦手なようだが」


 メネラーオスの挑発に、パリスは生唾を飲み込んだ。ヘレネーを奪い返さんとする夫の覇気は凄まじく、さながら逃げ惑う駿馬を追う獅子のよう。今にも崩れそうに身を震わせたパリスは、しっかと槍を持ち、盾を前に構える。アカイア人の試すような眼差しに晒されながら、汗にまみれた柄を握りしめて、振りかぶった。


 手から滑り落ちるように放たれた槍は、長い影を一直線に地面に堕としながら、メネラーオスに向かって行く。メネラーオスは青銅の盾をしっかと構え、真正面から槍を受け止めた。


「あっ・・・」


 パリスの放った槍は盾に阻まれて受け止められ、その反動で矛先がひしゃげて柄が捻り曲がった。腕の一振りで槍を打ち捨てたメネラーオスは、目を白黒させるパリスに照準を合わせて槍を構える。


「まずいっ!」


 デーイポボスの悲痛な叫びに我に返ったパリスは、見事な大盾を構えた。誉れ高き王メネラーオスは、アレースの如き荒々しさで、大きく踏み込んで槍を投げた。刹那、槍は瞬く間もなく盾を貫通し、リュカオーンの胸当てを貫通し、パリスの脇腹を掠めた。顔を真っ青にするパリスに、剣を抜いたメネラーオスが襲い掛かる。


「急所を避けたな、臆病者が。お前のような軟弱者に、ヘレネーの夫は務まらん。見事に守ってみせると大見得を切っておきながら、なんだこの体たらくは。精々楽に死なせてやるから、大人しくしていろよ」


 振り上げられた剣は、兜を繋ぐ鋲を目掛けて叩きつけられ、パリスの脳を震わせた。剣は折れて砂塵の上に突き刺さる。後退りするパリスの胸倉を、メネラーオスは掴んで引き寄せた。


「偉大なるゼウスよ、この軟弱物をどこまで擁護なさるのか!これはあなたの妻、白い腕の女神ヘーラーの権能を侮辱して、私からヘレネーを奪った男だ。盗人に罰も当たらず、いまだこうして死の暗がりに瞼を覆われることがないなど、天地いずれの場にあっても許されぬ不正です!」


 ヘーラーが御座より立ち上がり、地面を踏みしめて「そうだ」と激昂すると、地上は大きく揺り動かされる。メネラーオスは構わずパリスの兜を掴み、前後が入れ替わるほど激しく捻る。顎紐がパリスの首を締め上げ、小さな呻き声が聞こえるや否や、メネラーオスはアカイア勢目掛けてパリスを放り投げんと引き摺った。


「ヘレネーは・・・あなたの持ち物じゃ・・・ない・・・」


 顎紐で締まった喉仏から、微かに聞こえた声に、メネラーオスは思わず振り返る。顔を真っ赤にし、目まで充血したパリスは、しかし仇敵に非難の眼差しを向けた。その僅かな隙に目敏く気づかれた笑み愛ずる女神アフロディーテは、すかさず二人の懐に入り込み、顎紐を断ち切られた。パリスは地面にどっと倒れ込み、兜はメネラーオスの手によってアカイア勢の中へと投げ入れられた。


 パリスは喉を焼かれたような悲痛な咳を零す。メネラーオスは肩で息をしながら、見事な兜を奪い合うアカイア勢の姿を呆然と眺めた。


「何故です、女神アフロディーテ。正しく手続きを踏んで麗しい結婚の契りを交わした私ではなく、私から妻を奪ったその悪人を、何故擁護なさるのですか」


 アフロディーテは未だ苦しそうに息をするパリスをしっかりとお抱き上げになると、怒りに任せて槍を掴み、突き出すメネラーオスの目を霧で覆われた。そのままパリスをトロイアの見事な城壁の中へと御隠しになる。メネラーオスは霧の中に虚しく槍を突き刺して激昂した。


 女神アフロディーテは見事にパリスをお運びになると、そのまま自らを霧の中にお隠しになった。星が瞬くような光がパリスの視界から去り行くと、そこには驚くヘレネーが立っていた。喉の青痣を見た彼女はパリスに駆け寄り、子鹿のように身を竦ませるパリスに抱きついた。


 思考が鮮明になると、パリスは堪えていた感情が決壊し、ヘレネーの胸の中で子供のように泣きじゃくった。


神様紹介コーナー:

 アフロディーテ


 笑み愛ずる女神アフロディーテは、黄金の林檎を巡って、三女神が争った際に、パリスに選ばれた愛の女神。

 この際に争ったのがゼウスの子アテーナー、ゼウスの妻ヘーラーで、前者は戦争、後者は結婚を司る女神である。対してアフロディーテは生産活動に携わる女神であるため、二柱の女神よりもやや格下と考えられていたようである。これによって、神界の逆転現象が、また、地上では羊飼いのパリスが王子に返り咲くという逆転現象が生じ、生まれた捻じれが大きな騒動に発展していく。

 トロイア戦争史を辿っていくと、こうした当時の価値観に基づく階級格差が垣間見えたりもするので興味深いところである。


 拙著では、美神に相応しく男性の欲望を抽出したような女性として描きつつ、神特有の人間へ対する容赦のなさを描写するよう心掛けた。滑らかで肉感的な美の女神としての側面を強調したので、やや艶めかしい感じがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ