我が子を思うテテュスと、オデュッセウス
アキレウスが陣屋に戻って直ぐに、彼のもとには二人の従者が訪問した。怒りに打ち震えるアキレウスに怯える伝令に向けて、アキレウスは穏やかな言葉をかけて言う。
「何をしに来たのかは分かっている。お前たちが怯える必要などあろうものか。ほら、こっちに、目的を果たしに来い」
伝令たちは躊躇いがちにアキレウスに近づくと、その膝に縋るように跪き、目一杯の敬意を込めて、アキレウスに懇願した。
「あなたの奥方となるべき、頬麗しいブリセーイスを預かりにまいりました」
「パトロクロス、連れてきてやってくれ」
アキレウスが側に控える友に声を掛けると、この穏やかな友はアキレウスのことを労わりながら、不安に駆られるブリセーイスを連れてきた。この娘の心が僅かでも休まるようにと、パトロクロスはさり気ない気遣いを施しながら、その服の裾を汚さぬように持ってやり、宛ら従者のように彼女の腕を大切に握ってやった。伝令たちがその様に、心を動かされながらも、人の中で並ぶ者無き強大な王、その姿を思い起こして、泣く泣くブリセーイスを引き取った。
「お前たち、もし私が死んだときには、お前たちも神々の御前に立って、私を弁護してくれ。そしてアガメムノンの悪逆非道の様をよく伝えておいてくれ。それでお前たちとは手打ちとしよう。お前たちにはもともと一匙ほども怒りを抱いていないからな」
このように送り返すと、アキレウスの中に再びアガメムノンへ対する怒りがこみあげてくる。この怒りに任せて姿勢を崩すアキレウスに、パトロクロスは混酒器に注いだ赤々とした酒を渡す。二人はこれを酌み交わし、怒りの治まるのをじっと待った。
そうするうちに、海の波間より浮き上がったテテュスがいらっしゃった。母が身を案じて訪問されたことを、アキレウスは無邪気に喜ぶことも出来ず、母に気まずい挨拶を掛ける。
「アキレウス、具合が悪いように見えますよ。母に話してはくれませんか」
「母君、今日の私は悲しみと怒りに打ち震えているのだ。ご存じのくせに、しらを切るのはおやめなさい。まず、あの、言葉にするにも憚られる、忌々しい王アガメムノンが、分け前意として与えたものを取り上げたのだ。そもそもの原因は、あの王がイリオンの神官に、娘を返さなかったことが原因だというのに。立派な身の代も拒み、すっかりお怒りになったアポローン様の遠矢を食らい、アカイア勢が苦しんだのだというのに。あの男ときたら、どうしてこうも強情なのだ」
この言葉を聞いたテテュスは、かわいい息子のことを憐れに思い、その細い指先で、逞しいアキレウスの手を握った。眩いばかりの美貌を湛えたテテュスのご尊顔が間近に迫ると、流石のアキレウスも動揺しないわけにはいかない。とはいえテテュスにとっては、その逞しい腕は男の腕ではなく、愛らしい我が子の手なのであった。
「アキレウス、ゼウスにこっそり掛け合って、あなたの名誉を挽回するように求めてまいります。命短い人の子の身で、惨い運命を与えられた子が、このような仕打ちを受けてはかわいそうですからね。だから、今は怒りに任せて暴れたりはせず、戦場にも出ず、ゆっくりと心と体をお安めなさい」
このように女神がおっしゃると、アキレウスはその手に取り縋り一頻り泣いた後、オリュンポスの峰を目指す女神のことを見送った。
この時より12日後に、女神テテュスはヘーラーの目を盗み、ゼウスの膝に取り縋って、アキレウスの名誉を挽回されるように懇願なされた。
「ゼウス様、この願いを反故にされても、私はあなたに何もできません。ただ、私が神界で蔑ろにされていると知れるだけでしょう」
ヘーラーが怒り狂って戻られないか心配をしながら、ゼウスは涙ながらに取り縋るテテュスの願いを、以下の通りにお聞き入れになった。
「ヘーラーに勘づかれては厄介だ。アキレウスの居らぬ間、イリオン人に力を分け与えるよう取り計らってやるから、今は帰るがいい」
ゼウスがこう仰せになるので、テテュスも一旦は引きさがる。そして、アキレウスの力を失ったアカイア勢と、ゼウスの計らいを得られたイリオン勢との戦況、戦場の様相は一変することとなる。
まず、ゼウスはヘーラーの目を盗みつつ事を運べるように、アカイア人をその気にさせ、前線に引きずり出すようお考えになった。そこで、白い腕の女神ヘーラーも、怒りを休めて眠りの沈む夜のうちに、眠りを呼びつけ、このようにおっしゃった。
「生けるもの全てに安らぎを与えるヒュプノスよ、お前はアカイア人の宿営に向かい、アガメムノンを焚きつけてこい。戦士たちの士気を大いに高めるようなことを、あれにさせるよう告げるがいい。そして、私の胸に抱かれて眠る、白い腕の女神ヘーラーが満足のいく通りに、アカイア人の勇気を示して見せよ」
ゼウスのお言葉に否やなどあろうはずもなく、ヒュプノスは言葉尻よりも先にオリュンポスの峰を駆け下りていく。涼やかな冷気となって下り、アカイア人の陣屋へと赴くと、老ネストールの姿に化けて、アガメムノンの寝床に忍び寄った。
ヒュプノスは、寝息を立てるアガメムノンの耳元で、夢の予言を吹き込む。予言に現れた老ネストールは、アガメムノンに発破をかけて言う。
「アカイアの牧人、民を統べる王アガメムノンよ。いよいよゼウスの裁定が下った。今すぐにでもイリオンを攻め落とし、莫大な宝をギリシャに持ち込むのだ。ここまでどれほど長かったことだろうか。王よ、今こそ全霊を上げて、敵に立ち向かうがいい」
勝利を促す裁定が下されたとあっては、アガメムノンはすぐに飛び起き、多くの戦いでそうであるように、暁に空が染め上がる頃に陣屋中のアカイア人を招集し、その手には王笏を抱き、大音声を上げて言う。
「戦士たちよ、偉大なゼウスの無慈悲なお言葉を聞け。イリオンをいたくお気に召されたゼウス神は、夢の中で私にお告げになったのだ。アカイア人は戦には勝てぬから、イリオンの戦陣に塗れて死ぬのよりは、尻尾を巻いて逃げるのが良いと仰せになった」
このようにアガメムノンが言うと、戦士たちは慌てふためき、撤退の支度を始める。普段であれば戦争の際にこのような発言をするのは、戦士たちに対抗心を燃え上がらせ、以て戦争に駆り立てるためである。ところが、長いトロイア遠征の中で、九年もの間打ち破れぬ城壁に阻まれたとあっては、さすがの勇士達もその予言を真に受けるであろう。嬉々として帰らんとするオデュッセウスを、アガメムノンは諫めて言う。
「機略縦横のオデュッセウスよ、今のは戦士たちの対抗心を高めるための戯事であり、真のところはゼウス神にそのような予言を授からなかったはずではないか」
このように懇願するので、オデュッセウスは呆れ返って言う。
「あなたが始めたことでしょう。あなた自身がそれをしなさい」
ところが、オデュッセウスに寵愛を授けておられるパラス・アテーナーはこれを許さず、オデュッセウスに発破をかけて言う。
「イタカの王にして機略縦横のオデュッセウスよ、この戦いはお前を助ける女神の戦いでもあるのだぞ。お前が望む通りに行かぬとて、それは神々の執り成しによるものである。まして散々に寵愛を受けた私のために、戦わぬとは言わせぬぞ」
神意のまこと恐ろしいことを熟知したオデュッセウスは、脳にまで響くこの言葉を受けて、渋々とアガメムノンの要求を受け容れて言う。
「王よ、一時的にではありますが、その王笏をお貸しください。見事に彼らをその気にさせられたのならば、手早く戦争を終わらせてしまいましょう」
このように言われれば、アガメムノンに否やはなく、即座に王笏を手に取って、オデュッセウスに手渡した。これを受け取ったオデュッセウスは、まさに退却の支度をする船に飛び乗ると、その船員にねぎらいの言葉をかけて言う。
「あなた達もよく耐えましたね。しかし、思い起こして見なさい。ゼウスはあの時9年の年月を戦争に費やすことをすでに予言しておられたではないですか。10年目に遂に攻め落とされるイリオンの姿を見ることなく、みすみす逃げるのはあまりに惜しいではないですか。よく考えてみなさい、戦争において、何故撤退の話をするのかを。あなた達の勇気を試しているのではないですか」
この、熱を冷ます雪華の言葉を受けて、戦士たちは再び落ち着きを取り戻し、さらにオデュッセウスの手に持つ王笏を認めると、それがまさしくアガメムノンの真意であると悟って、彼らは船を飛び降りて陣屋連なる集会所に向かって行く。船へ船へと続々と巡り、オデュッセウスは見事に彼らを引き留めて、アガメムノンのもとに集めて見せた。
さらに、心ここにあらず、故郷での安らぎを求める戦士には、手に持つ王笏で以て戦士を叩き、発破をかけて言う。
「あなた達は一向に気持ちを切り替えることができないのですね。残念なことです。まぁ、あなた方など評定の場であれ、戦場であれ、ものの数にも入らぬでしょう。臆病者は責任を持たぬ者より酷い。例え市民であったとしても、奴隷以上に惨めに働くこととなりましょう。何せ、あなたは責任を受けたうえで、労働に赴くのですからね。奴隷であれば責任も取らずに済むというのに、余暇も楽しまぬ、故郷へ帰って惨めに男手として頼られて、やがて老人となって働けなくなると打ち捨てられるのでしょうね。責任を負う市民として、男も奴隷も戦場に残して、いずれも居らぬ故郷に戻って、市民として責任を負うというのですから当然のことですね」
オデュッセウスはあれこれと例え話をしてみせ、時には脅しを絡めて心をすでに故郷に預けてしまった戦士たちを呼び戻した。改めて集まった戦士たちに向かって、王笏を持って論壇に立ったオデュッセウスは、改めて翼ある言葉をかけて言う。
「アトレウスの子アガメムノンよ、中にはテルシテスのように、目立ちたいばかりに王侯に喧嘩を売るものもありましょう。しかし、ここに集まってくれたものの多くは、心ある戦士に違いありません。先ずは彼らにねぎらいを与えてやってください。そして、アガメムノン王のお言葉を受けて、すぐに踵を返した戦士の方々よ。あなた達のお気持ちは察するに余りある。私とて、何度故郷に残してきた我が子と妻に会いたいと願ったことでしょうか。しかし、九つの鳥が蛇に飲まれたあの予言、まさにあの予言を思い起こせば、間もなく戦いは終わるのです。私達の勝利で。これまで戦ってきたあなた方は、アイデスの元に送られていない。それはあなたが勇猛な戦士である何よりの証。そうであるならば、奸智のゼウスの予言を信じて、再び戦ってみようではありませんか」
オデュッセウスの、穏やかで心を鎮める語り掛けに、戦士たちの心は平静を取り戻した。元より戦いに向かった戦士たち、一人残らず勇士であったので、オデュッセウスのために、戦争へ向かうことを決めたのである。
この後、オデュッセウスは論壇を降り、老ネストールによる戦士への発破をかける言葉が続けられる。子供のように駄々をこねた自分を恥ずかしく思う者たちが、再び戦いに赴くことの出来るように厳しい言葉を投げかけた。
かくして、一夜を跨いだ騒動は終わり、アカイア人は盾を揃えて前線へ向かうのであった。
神様紹介コーナー:
テテュス
:英雄アキレウスの母親で、海や泉など、水の女神。住まいも地上の果てにあるということで、海に住んでいるらしい描写が、『イリアス』には散見される。
父よりも優れた才能を子供を産むと言われており、美神でありながら、その権能を警戒したゼウスが求婚を諦めたという。
本作では、アキレウスの母として、息子の身を案じる素朴な女神としての側面を強調して描写している。その結果、作中ではまぁまぁ泣きがちになってしまった。




