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イリオンの矢  作者: 民間人。
イリオンの歌
37/99

アカイア人による語り起こし:アキレウスの怒り

 巡り来る夜の中、戦塵に塗れた荒野の内を、見事な衣服を身に纏った神官が歩みゆく。所々に蝿の集る遺体を横目で眺め、それに肥えた野犬野鳥が集って貪る様を視界に収めつつ、連なる軍船を目指して歩んでいく。


 恵み深きかな、手に持つめでたき黄金の錫杖には羊毛を結び、その者が輝ける君アポローンに仕えるものであることを示した。野原に獲物を狙う犬どもも、その尊き恩寵の前には寄り付かず、神官は見事にアカイア勢の宿営地へと辿り着いた。

 見張り番が神官を止めるのを、神官は諫めて言う。


「御覧なさい、この杖を。私はイリオンでアポローンの宮を守るクリュセースと申すものです。この通り、アカイア勢に打撃を与えるための武器も持ち合わせてはおりません。脛当て美々しきアカイアの勇士よ、どうかあなた達を統べる王、アトレウスの子らアガメムノン陛下とメネラーオス陛下のもとに、ご案内して下さいませんか」


 このように言うと、見張りはしかと言葉を受け止め、アトレウスの子らが休む陣屋に赴いて言う。


「陛下、イリオンの神官であるクリュセースと申す者が、謁見を望んでおられます」

「なに?まぁ、いいだろう。通せ」


 アガメムノンが即座に応じると、見張りは王のもとにクリュセースを連れてきた。羊毛を結わえた黄金の錫杖を一目見ると、アガメムノンはクリュセースにねぎらいの言葉をかけて言う。


「わざわざ赴いてきてご苦労であった。して、何用であるか?」


 王への謁見と聞き、アカイア勢がぞろぞろと列をなして集まっていく。そこには、アキレウス、アイアース、老ネストール、メネラーオス、オデュッセウスなど、名だたる英雄も揃っていた。

 アガメムノンは戦利品として捕らえた生娘に酒を注がせ、くつろいだ様子で神官を迎え入れる。

 クリュセースは娘を一瞥し、王に跪き、かしこまって言う。


「世にも名高きアトレウス家の御兄弟よ、拝謁できて光栄に存じます。私はイリオンにてアポローンに仕える身である、クリュセースと申す者です。この度は、陛下に嘆願を申し出たく、参上仕りました」

「なに、願い事だと?」

「まずはこちらの捧げものをお収め致します。陛下にとってはつまらぬものかもしれませんが・・・」


 クリュセースはこのように断りを入れると、夜にも輝く金銀財宝や、青銅の鍋や鼎を持ち込んだ。その珍しい品々に、アカイア勢からも歓声が上がる。アガメムノンは口の端で微笑み、クリュセースの言葉を促して言う。


「なるほど、願い事とはなんだ?聞いてやろう」


「先日、アカイア勢に、私の娘、クリュセーイスが捕らわれてしまいました。私にとっては大事な娘です。どうか、遠矢射る君(ヘカエルゴス)アポローンの神威に免じて、これらの贈り物と引き換えに、クリュセーイスを解放しては頂けないでしょうか?」


 クリュセースの丁寧な言葉遣いに、アカイア勢は感心し、親心に同情を示した。とりわけオデュッセウスと老ネストールは、思わず物思いに耽るほど、クリュセースに理解を示した。

 心あるアカイアの戦士たちは、皆「見事な身の代を受け取ってクリュセーイスをお返しすべきだ」と声を揃えた。

 しかし、民を統べる王アガメムノンは、みるみる顔を赤くして言う。


「貴様は私から戦利品を奪おうというのか?お前の娘は私が得た財産の一つだ。その処分は私に帰属するもの。女は夜伽の慰みに、機織りにととかく役に立つ。このようなどこにでもあるつまらない贈り物と釣り合うとでも?馬鹿げたことを言うなよ、耄碌した老いぼれが。不愉快極まりない。怪我をしたくなければ、二度と顔を見せてくれるな」


 アガメムノンはそう言い放つと、クリュセースに器を投げつけた。クリュセースは恐ろしくなり、たちまち身を翻してアカイア勢の陣地を飛び出した。足をもつれさせ、走って逃れるその様は、まるで獅子に追われる生まれたばかりの仔馬のよう。アガメムノンはメネラーオスに器を拾わせ、戦利品の生娘、クリュセーイスに酒を注がせた。


 酒を仰いだアガメムノンは、怒り狂って娘に酒を浴びせて言う。


「貴様の涙が落ちたせいで酒が不味くなったぞ!どうしてくれる!」


 このような怒号が、陣地を追われた浜辺まで届くのを、クリュセースはしかと耳にする。暫く拳を握って佇み、憎しみに顔を歪ませたクリュセースは、ついにオリュンポスの峰を向き、跪いて祈りを捧げた。


「おお、恵み深き輝きの君アポローンよ、もし私があなたの社を建て、日頃より数多の羊や牛をあなたに捧げたことを覚えておいでで、それをお気に召されているのならば、この年老いた私の願いを叶えて下さい。傲慢なアガメムノンのために、その恐れるべき(しろがね)の弓を用いて、遠矢のお力を注ぎ、彼らの心を綺麗に灌ぎ流して下さいますように」


 神々のうちでも秩序を重んじておられるアポローンは、クリュセースの願いを聞くや否や、オリュンポスの峰を降って行かれた。その手には(しろがね)の弓をお持ちになり、肩には堅牢な矢筒をお掛けになっている。矢筒の内には金の矢をお入れになった。逞しい胸板には矢筒を収めるベルトをかけておられ、履かれたサンダルはきつく結んでおられる。このように、端正で涼やかなご風貌からは想像もつかぬほど、胸の内に瞋恚を溜めておられたアポローンは、アカイア勢の宿営地目掛けて、眩き金の矢を射かけられた。


 銀の弓はわななきながら弦を弾かせ、放たれた矢は光の如く篝火を焚くアカイア勢の宿営地に突き立てられた。ただの一矢で忽ちに、アカイアの勇士達は病に倒れていく。身に豆粒大の腫れものが出来た兵士達が、泡を吹きながら死んでいく様に、アガメムノンは恐れ慄きながら言う。


「一体何事が起ったのか?なぜ、突然兵士が死んだのだ?」


 その後九日間もの間、アカイア勢の陣地には眩い矢が飛び込み、その周囲にいた兵士達は忽ち病に臥せってしまう。


 その様を、オリュンポスの峰よりご覧になった白い腕の女神ヘーラーは、あまりの出来事に心を痛め、心ある英雄アキレウスの耳に知恵を吹き込まれてこのようにおっしゃった。


「あの格下の女神、レートーの子アポローンが、お前たちを苦しめている。すぐさま会議を開き、その怒りを鎮めておやりなさい」


 そこで、アカイア勢の内でも名高き英雄アキレウスが、会議を奏上して言う。アキレウスの言葉を受けて、アガメムノンを含む猛将達は、顔を揃えて会議を開いた。

 まず、アキレウスが議題を上げて言う。


「金の矢が射掛けられ、そして多くの命がアイデスに捧げられた。金の矢であれば遠矢射る君アポローンのものに違いない。そのお怒りの原因を、何としても鎮めねば、このままアカイア人は全滅してしまうぞ。カルカース、お前の身の安全は保障するから、どうか原因を占ってくれないか」


 すると、卜占の術に優れたテストルの子カルカースは、畏れ躊躇った後、意を決して言う。


「私が占ってみましょう」


 早速カルカースが卜占を用いて神の御心を伺うと、アポローンは静かな怒りをその身に湛えてお答えになった。


『テストルの子カルカースよ、確かに私の言葉を、心ある英雄アキレウスに伝えよ。この度私が抱く瞋恚は、アトレウスの子アガメムノンが、私に長年仕える神官であるクリュセースの懇願を拒み、さらにはその心身の安全を脅かし、見せしめにその娘に酒を浴びせて侮辱したために引き起こされたものだ。身の代を提示したクリュセースは誠実であったな。それを断り、取り下げるのならまだ秩序に反してはおらぬ。さて、アキレウスよ、よくよく考え、お前の為すべきことをせよ』


 と、カルカースは言葉の通りに神意を伝えたのであるが、これを聞いてアキレウスは、すぐにアガメムノンを諭して言う。


「民を統べる王アガメムノンよ、どうやら原因を取り除くには、あなたが側仕えにする娘、クリュセーイスを返し、神に捧げ物をするのが良いようだ。病に倒れ伏してはあまりに不名誉な死だ、アカイア勢全員の名誉を案じてくれ」


 しかし、アガメムノンはクリュセーイスの注いだ酒を仰ぎながら、顔を真っ赤にして猛った。


「カルカース!そう言えばお前はやぶの占い師であったな!これっぽっちも私の喜ぶことを言わないやぶの占い師!・・・ああそうか。カルカースの安全を保障するといったな、アキレウスよ。ならば私の持ち物と同等のものを持ってこい。確かお前には、リュルネーソスで捕らえたブリセーイスとかいう女がいたな。丁度いい、あの女なら釣り合うだろう」


 このように言うので、足速きアキレウスは怒り交じりに呆れて言う。


「あなたは懲りもせず何者かから奪うのですか。戦利品を獲る権利は確かにそう。ですが、交換条件とは、当事者同士で成り立つものでしょう。一体全体、私があなたとクリュセースに、何をしたというのですか」


 言葉を受けるや否や、アガメムノンは足速きアキレウスに酒を浴びせようと器を投げた。これを酒の一滴も被らずに簡単に避けたアキレウスに、王は口汚く罵声を浴びせて言う。


「黙れ!貴様は私を誰と知る!?この私、アガメムノンこそが、アカイア人の勇士を統べる王であることを忘れたのか!?くれてやった褒美の数を数えてみろ。お前は散々甘い蜜を吸っておろうが」


 アキレウスも強情な王に怒りを抑えきれず、イリオンの勇士らに発するような大音声で対抗する。


「欲深い王よ。お前はお前のために集った兵士に分配した褒美を、再び徴収して再度分配するというのか。それは、兵士に処分を許した、与えたものを奪い直して与えるということか。馬鹿げたことを言うな。お前がしようとしていることは、仲間からの略奪だぞ。今は一度クリュセーイスを返しておやり。そして、イリオンを落とした暁には、お前がその分の分け前を受け取ればそれでいいではないか」

「アキレウス!貴様の甘言に騙される私ではないぞ!私が分け前を返し、お前たちが分け前を取ったままということは、それはつまりお前たちアカイア人のためにこの私が差し出したものを、お前たちが弁償する気もないということ。何が契約だ、取引だ!アカイア人のためにクリュセーイスを返すのはまぁいいだろう。私達が望む結果を得るためだ。だがそれに見合うもの、つまりは女を、アイアースか、そこで内心クリュセースに同情を寄せていたオデュッセウスか、アキレウス、お前かから償いとして受け取るぞ!お前らが怒っても知らぬからな、そんなものは!」


「はっ!同じアトレウスの子でも、メネラーオスには同情するが、お前には露ほども同情する気にはならんな!こんな男のために死ねというのなら、俺はさっさと帰らせてもらう!お前のために尽くし戦ったアカイア人たちが受け取った報酬を、再び手ずから奪い去ってしまうような男に、なぜ協力する意味がある!?」


「好きにしろ。お前がどういおうと、身の代の代償を貰うぞ」


 アキレウスは立腹し、会議の場を立ち去ってしまう。そして、アガメムノンは乱暴に兵士の一人に供物とクリュセーイスを船で送り返すように命じる。

 アポローンはアカイア勢の様子をしかとご覧になると、弦の張った弓を下ろし、再びオリュンポスの峰を登っていかれた。


神様紹介コーナー:

アポローン:


 ホメロス『イリアス』においてアカイア人に災いを成す神の一柱。牧畜や光明、神託、医術や芸術を司る神として知られ、現在ではヘリオスと融合して太陽神としての側面を持つなど、その神格は多岐にわたる。

 当時の理想の青年像として象られ、もっともギリシャ的な神と知られる一方で、元々は外部の神であったとする説がある。

 本著では、トロイア人を助ける秩序の神として表現されている。その一方で、参考文献のうち、ホメロス著『イリアス』にある疫病神としての恐ろしい側面を際立たせた表現を心掛けている。

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