イントロダクション あるいは、イリオン人による語り起こし
その忌まわしき出来事は、アカイア人がイリオンに攻め入った時より9年後に起こった。
戦争が日常と成り果てたイリオンの町には、友軍たちが入り浸るようになり、町も疲弊し、市場は閑古鳥の鳴く始末である。王妃ヘカベーはトロイーロスの死により生気を失くし、ヘレノスももはや滅びは避けられぬと、アイネイアースに亡命の手筈を教えていた。
一方で、先の見えない戦争という点はアカイア人も同じことであった。神託に基づけば10年目に戦争に勝利をすると伝えられてはいるものの、9年という歳月はその予言を陳腐なものに装うのに十分な時間であった。
パリスは時にヘレネーと共に花を見つめて過ごしたが、歳月の進むに従って色のくすんでいくイリオンの街並みに、胸を締め付けられる思いでいた。
そんなある日、パリスがアポローンの加護に感謝を伝えるため、神殿に参拝した。神殿の祭壇には燃え盛る薪が既にあり、供物の臓物を喰らうデーイポボスが、一人座って待っていた。
「デーイポボス?珍しいね」
「あん?いいだろ、別に。戦勝祈願だよ」
そっけなく答えるデーイポボスの視線の先には、自らの髪をかき乱し、殆どむしり取らんとするカサンドラーの姿があった。パリスは静かに眉を下ろし、カサンドラーの視界に入らないようにデーイポボスの背後に座る。
「・・・自分の予言に近づくにつれて、あの女、狂っていくんだよな」
デーイポボスは腫れものを見るように彼女を睨む。滅びの予言は未だ成っていないが、嵐の如きアキレウスの奮戦を思えば、彼女のそれが現実に差し迫ったもののように思えた。パリスは燃え盛る供物越しのカサンドラーを見る。その様子は、宛ら燃え盛る火に炙られるかのよう。
「デーイポボス。僕のせいで、カサンドラーは狂ったのかな・・・」
「アポローン様から予言の力を授かったとか言ってた時から、ずっと狂ってたと思うぞ」
「でも、酷くなったのは・・・」
デーイポボスは押し黙る。それはパリスに遠慮してのことであった。
「それより!お前は何を捧げに来たんだ?」
意図的に話題を逸らしたデーイポボスは、パリスに企みを含んだ笑みを向けた。パリスが取り出したのは、亀の甲羅と羊の腸で作られた竪琴であった。それを見た途端に、デーイポボスはつまらなそうに視線を炎の中に戻した。
パリスは取り繕うように言う。
「ア、ポロン様は芸術の神でもあらせられるんだ!だから、この前の夕食で使った素材で、作ってみた、んだけど・・・」
「知ってる。俺が食えるものじゃねーのか・・・」
「・・・ごめん」
パリスがすっかり意気消沈すると、それを流し見たデーイポボスは、罪悪感を隠すためにそっぽを向く。
「捧げ物だろ。弾けよ」
「うん・・・」
パリスは竪琴を構え、暫く静止する。違和感に気づいたデーイポボスは、赤面するパリスの顔を覗き込んだ。
「どうしよう・・・何を弾けばいいか、分からない・・・」
「はぁ・・・?」
デーイポボスはパリスの手から竪琴を奪い取ると、その弦をかき弾き、奏で始めた。パリスはその爪弾く音色に心を慰み、思いついたように指笛を吹き始めた。
牧杖を片手に飼いならした羊の群れを導く際に、毎日のように用いた指笛である。デーイポボスはそれを一瞥した。
二人が炉の前で音を捧げていると、落ち着きを取り戻したカサンドラーが髪を乱したまま炉の元へと現れた。パリスは咄嗟に身を隠そうとするが、やつれたカサンドラーはパリスに刺すような視線を送ると、疲れた声で言う。
「いまさらどうでもいいわ」
「カサンドラー・・・」
パリスが炉の前に座りなおすと、カサンドラーは虚ろな瞳で炉の中を見つめ、腹の底から漏れ出るような深い溜息を零した。乱れた髪をくすぶる煙であぶり、脂汗を焼き切るかのように、彼女は燃え上がる炎を一心に見つめた。
「言っておくけどね」
気まずい沈黙を破ったのはカサンドラーであった。彼女の、冥府を映した暗い瞳が、パリスを睨みつける。
「ヘクトール兄様も死ぬから」
「え・・・?」
カサンドラーはその一言だけを告げて、神殿の奥深くへと戻っていく。自らの気狂いの任すままに押し込まれた牢獄にである。
「世迷言だ、ほっとけ・・・」
信じがたい現実に動揺するパリスに、デーイポボスが言い放つ。彼は捧げものを綺麗に平らげると、そのまま戦場へ戻っていった。
市庁に座す君ヘスティアーよ、その捧げものは何処にとどけられるのですか。かの輝ける君アポローン、世にも尊き瞬きの君が、今神々の御座には居られないというならば、炉を囲む子らの願いとは、その願いは届けられぬというのですか。
デーイポボスが去り、カサンドラーが眠りの誘いを受け入れてその身を労わるところ、パリスは暫く祭壇の煙を浴びながら、思索に耽った。
強固な城壁に守られたイリオンでは、アガメムノンのように猛り狂う指導者はなかったが、パリスには、苦悩を理性で抑えつける指導者たちばかりに映る。デーイポボスは内心ではアキレウスに怯え、ヘレノスは神々の足に取り付いて助命を乞うばかり。神々の寵愛に恵まれたパリスは、滅びの時まで心を慰めることしか出来ない。
それでは、ヘクトールはどうであったのか。パリスの中に暗い感情が渦巻くように、日々襲い来る不安と戦っているのであろうか。
戦争とは、まこと度し難い恐怖との戦いである。
滅びに抗うとは、神意に抗うことに等しい。日々死の嘆きが響く前線の恐ろしい光景は、イリオンの指導者たちをますます恐れさせ、また苦しめる。パリスは愁いを帯びた瞳を持ち上げ、このように心に決めた。
(できることなら、ここで決着をつけよう)
パリスは立ち上がる。いずれにしても運命を終えるその身に、僅かな覚悟を滾らせた。




