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イリオンの矢  作者: 民間人。
アカイア勢の攻勢
35/99

雪辱果たすオデュッセウス

 夜と朝を何度も繰り返すうち、アキレウスの凄まじい戦果がアカイア勢に齎される一方で、アカイア人らはイリオンの城壁を攻め落とすことの出来ぬまま、苛立ちを隠せずにいた。

 中でもアガメムノンは特に猛り、敵の執拗な籠城に非難轟々と喚きたてた。その姿に倣うが如く、アカイア人もまたイリオン人への憎悪を燃やし、多くが戦塵に塗れて野犬の餌場となった戦場へと赴いた。


 ところが、この戦乱の中、怒りに任せて狂うことのしない男があった。機略縦横のオデュッセウスは、言葉にこそ出しはしないが、アガメムノンの欲望の為に、メネラーオスとヘレネーの事情が利用されたことを、よくよく理解していた。パリスには同情と同時に呆れの情を抱き、デーイポボスとヘクトール、その他の王族には深い憐れみの情を抱いた。


 この男の関心事項は戦争を即座に畳むことであって、アキレウスが怒涛の進撃をするたびにアカイア人が活気づくのを、一歩前線から退いた辺りで、苛立たし気に眺めていた。

 オデュッセウスははじめ、予言に従いアキレウスに参戦を促すことで、少しでも戦争を短期化しようと試みたものの、何せ、相手は神々の築かれた城壁に籠っているのである。英雄ぞろいとはいえ単なる人の攻勢で、崩れることなどあろうはずがない。一計を案じようにも、アガメムノンが恃むのはパラメーデスであった。オデュッセウスは砂塵の吹き荒ぶ戦場の中、円盾を構えて辺りを見回した。海岸沿いに延々と連なる船団は、日夜アカイア人が過ごす宿舎となっていた。防壁もまこと見事に建てつけられ、拒馬を遥かに凌ぐ高さまで、石が積み上げられていた。

 オデュッセウスはその様をまじまじと見つめ、顎を摩りながら思索に耽る。敵の凄まじい抵抗も、大きな円盾で巧みにいなしつつ、彼は戦場から離れて宿営地へと帰還した。


(戦争の長期化を促すものは何であれ、ペーネロペーの元へ戻る私への障壁である)


 呪うべきかな、オデュッセウスは即座に自分の為すべきことを把握し、戦場の風向きを読んだ。そして、彼は日が沈み帰還するアガメムノンに、鼎を持たせた手兵を送り、このように伝言するように伝えて促す。


「アガメムノン陛下よ、夢の予言に拠れば、今日一日は陣営を移さなければなりません。もしあなたが砂塵の吹き込むのを嫌うならば、陣地の宿営地を少しずらしてみてはいかがでしょうか」


 これを聞き、苛立ち帰ったアガメムノンは喜んでいう。


「すっかり砂塵に塗れてしまった我が身を、風呂に入れる良い機会だな。よし、今日は陣営をずらしておこう」


 そのように言うと、アガメムノンは風呂を沸かすように従者らに命じると、早速移動の準備を始めた。オデュッセウスはそれを確かめると、自らの手兵を再び招き、このように指示を飛ばして言う。


「お前たち、これはアガメムノン陛下の御指示だが、陣営をそれぞれ一日だけ動かすように、アカイアの勇士達に伝えてはくれないか」


 当然、オデュッセウスの私兵には否やはなく、彼らは各将に陣地を動かすように伝えに走った。そして、各将がそれぞれ移動を終えると、オデュッセウスは元々パラメーデスの宿営地であった場所で、一夜を過ごすことと定めた。


 その夜、アカイアの勇士達が皆心地よい眠りの誘いを受け入れた時、オデュッセウスは宿営地の前に適度な大きさの穴を掘り、そこに自らの財産である黄金を持ちうる限り全て埋めた。


 そして、夜風の吹き荒ぶ中、元々はオデュッセウスの陣地であった場所から、一人の捕虜が脱出を果たす。オデュッセウスはわざと年老いた虜囚の一人の扉を開けたまま夜を過ごすと、その者に約束通りの時間に脱出をすることを勧めた。満を持してトロイアの乾いた空気を吸い込んだ捕虜は、オデュッセウスに言われるがままに彼のもとへ訪れる。雪のような穏やかな語り口で、オデュッセウスは和やかに捕虜に伝えて言う。


「あなたはプリュギアに住む間に、一体神にどのような不敬を働いたのか。私は忌まわしくもシーシュポスの子とあらぬ噂を掛けられた身、あなたの内心は察するに難くありません。さぁ、これはイリオンのプリアモス王に渡すべきお手紙です。どうか、くれぐれもお忘れないように、お渡しください」


 捕虜はその優し気な語り口に心を慰められ、感涙に咽びながらオデュッセウスに言う。


「出来れば息子と共に脱出したかったが、今、息子は別の将兵に捕らわれているはず。その弁舌、降雪の如きオデュッセウスよ、あなたの心配りで、息子も脱出させることは出来ないものですか」


 手紙を受け取る捕虜のこの懇願に、オデュッセウスは誠意ある振る舞いを見せて言う。


「一計を案じ、警戒の薄くなるように陣地を入れ替えはしましたが、これは一時的なもの。残念ながら、今すぐに揃って脱出、というのは難しいのです。どうかイリオンで待っていてください。私が交渉の席に立った折、プリアモス王も私のことは信用して下さったようです。今はあなたも信じて。必ず、この不毛な争いにけりをつけて、あなたの御子息を解放して差し上げます」


 捕虜は躊躇いながらも、手紙を届けるためにアカイア勢の陣地を脱出した。

 彼の姿が見えなくなると、オデュッセウスは顎を摩り、篝火の灯された防壁に映る影に、人影がかかるのを確かめる。そして、オデュッセウスは静かに手を挙げ、自らの手兵‐それは先刻アガメムノン王やアカイアの勇士達に、伝言をさせた鼎を持った手兵であるが‐に指示を出す。即座に兵士はこれに気づくと、炎に浮かび上がる人影を見つけ、すぐにその場へと駆けつけた。


 まさに防壁のすぐ外で、一人の捕虜が悲痛な呻き声を上げる。オデュッセウスはその声を確かめると、自らが一日だけ過ごすべき宿営地へと戻り、眠りの誘いを受け入れた。


 やがて夜が去り、朝が巡り来るとき、オデュッセウスはアカイア人の呼び声に目を覚ます。声を頼りに向かうと、多くの勇士達がただならぬ雰囲気に包まれながら、城壁の外に集っていた。


「何事ですか」


「オデュッセウス殿、おはようございます。実は、プリュギア人捕虜が脱走を図ったようなのです。パラメーデスの宿営地にあった虜囚でした。それで・・・」


 兵士が虜囚から取り上げた手紙をオデュッセウスへと見せる。オデュッセウスは落ち着き払った様子でそれを開いたが、それを開くと目を見開いて驚きの表情を浮かべて言う。


「・・・あなたはパラメーデス殿を、アガメムノン王のもとへ呼びなさい。私はこの手紙を、先に陛下のもとにお届けしましょう」

「はっ!」


 このように伝えれば、兵士に否やはなく、パラメーデスの宿営地‐つまりは元々オデュッセウスの宿営地であるが‐へと向かう。そして、オデュッセウスは手紙を手に、「他のものはその者の処理をお願いします」といいながら、アガメムノン王の宿営地へと向かう。


 アガメムノン王はいつになく上機嫌に、汗を流した翌日の爽やかな寝覚めを楽しんでいた。そこに、浮かぬ表情のオデュッセウスが訪問する。手兵に正夢を伝えるようにと指示を出した、聡明なイタカの王に、アガメムノンは友好的な声を上げて言う。


「これは、おはよう!丁度礼を言おうと思っていたところだ・・・。どうした、浮かぬ表情をして・・・」


「陛下、これは由々しき事態です」


 オデュッセウスはアガメムノンに件の手紙を渡す。アガメムノンはみるみるうちに青筋を浮かべ、怒りに打ち震えて叫んだ。


「パラメーデスを呼べ!」

「先日の夢は、この危機を伝えるお告げであったのでしょうか」


 やがて、パラメーデスが手を縄に縛られて王の御前に現れる。王の御前に彼が座るやいなや、アガメムノンはその頭を押さえ鼻先を地面に叩きつけた。


「貴様がプリアモスに私の居所を教えたのかっ!」

「何のことですか、誤解です!」

「嘘をつくな、戯け者が!受け取った黄金はどこに隠した!」


 パラメーデスが弁解を試みるのも空しく、アガメムノンは怒りに任せてパラメーデスの顔面を地面に何度も打ち付ける。鼻の骨は砕け、鼻血は地面を這いまわるに任せて顔面に伝う。その、醜い顔立ち、鼻立ちは、アガメムノンの側に仕えるオデュッセウスを睨んだ。


「貴様か、謀ったな!」


 オデュッセウスは怪訝そうに片眉を持ち上げる。彼はパラメーデスに構わず、アガメムノンの方を向いて言う。


「王よ、落ち着いて下さい。まずは物証を探さなければ。パラメーデス殿ほどの智将が、まさか簡単に黄金を見つけられる場所に隠すはずは御座いません。我々の目に見えぬところに隠しておられるはずです」


 アガメムノンは怒りを抑え、パラメーデスの頭から手を離す。小さな呻き声を上げたパラメーデスは、自らから噴き出した血だまりの中に顔を埋めた。


「私はそれらしいものを見たことは無い。オデュッセウスよ、お前は分かるというのか」

「・・・さぁ。しかし、例えば、私であれば、地面に埋め、ことが済んだ後に黄金を掘り起こしてしまうでしょうね」


「ならば、パラメーデスの陣地を掘れ!」


 アガメムノンが手兵に怒号を発する。その指示を、オデュッセウスは顎を摩りながら留めて言う。


「お待ちください。手紙を返したのが昨夜であれば、書いたのはそれ以前、つまりは宿営地を動かす前でしょう。つまり・・・」


 オデュッセウスは吹雪くオリュンポスの霊峰よりも冷たい声で言い放った。


「昨夜の私の宿営地を掘り、探しなさい」


「分かった!お前が受け取って、お前が埋めたんだろう!そうに違いないぞ!そうでなければ黄金など出てこようはずもない!」


 パラメーデスの叫びは虚しく空気を震わせる。もはや信用の失われた男の言葉など、子供の編んだ籠よりもなお軽い。兵士達はオデュッセウスの言葉の通りに、彼の宿営地を掘り起こし、そしてそこには、「オデュッセウスの手で埋められた」黄金が埋められていた。


「パラメーデス・・・。残念です」


 アガメムノンは剣を引き抜き、パラメーデスを地面に押さえつける。そして、パラメーデスは恨み言を数え切れぬほど叫びながら、その喉を、アガメムノンによって断ち切られた。


 ぼたぼたと首から血が滴り落ちるのを、オデュッセウスは冷たい視線で見つめる。アガメムノンは怒りを収め、パラメーデスの頭を地面に放り投げた。


「気分が悪い。宿営地を元に戻すぞ」


 オデュッセウスは手兵に、これを伝えるように指示を出す。

 かくて、呪われしシーシュポスの子、オデュッセウスの怒りは、降雪の如く静やかに果たされた。


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