台風の目
その後、アキレウスは無花果狩りに出かけていたプリアモスの子リュカオーンをも手に掛けた。彼は、一度は奴隷として売り飛ばされたが、買い取り先で様々な同情を買うこととなった。そして、最後にはイリオンへと返されたが、結局はアキレウスに殺されてしまったのである。
このように、アキレウスは散々にイリオンの王子たちを殺め、また城壁の上にある歩哨路に籠城して槍や投石で応戦するイリオンの人々を次々に討ち取っていった。女神よ、この凄まじい戦乱の中で、時の王子パリスがどのように過ごしていたのかを、歌わせたまえ。
戦線で勇敢に戦う王子は主に二人、デーイポボスとヘクトールである。また、ヘレノスもまた勇猛に戦ったが、彼はトロイーロスの世話を甲斐甲斐しく行ってもいた。
「パリス、休んでこい!」
「は、はい!」
歩哨路の上で群がる戦士たちは、アカイア勢の攻勢を押し退けるために、勇敢に応戦していたが、ヘクトールはこれを三つの部隊に分けて交代を行った。一つの部隊は休み、二つの部隊で城壁を守る。アカイア勢の船団を睨む南西側の防壁は、主戦場として最も激しく戦う。友好国からの応援を待つ北東側の防壁は、アカイア勢の斥候が潜入するのを防ぐ。
最後に、休みに入る部隊は、英気を養うためにイリオンの町で各々が好きに行動することができる。主たる勇将ヘクトール、デーイポボス、ヘレノスと異なり、パリスはこの部隊と同様に休むことを許されていた。
パリスは負い目を感じつつも、彼らとは比べるべくもない実力の自分が代わりになるはずもなく、その立場に甘んじていた。パリスはイリオンを守る城壁から降りると、すぐさまヘレネーの待つ宮殿へと駆けていく。イリオンの町に繰り出す兵士達の晴れ晴れとした姿は、さながら籠の中で餌を食む小鳥のよう。入れ替わりで戦場へ向かった戦士たちも皆晴れやかな顔をして、怒りに震えるアカイア勢とはまるで異なっている。
それ故に、アカイア人はイリオン人たちを卑怯者と罵ったものだが、神々の城壁を破るほどの力は持ってはいなかった。
パリスは丘を駆け抜け、宮殿に至ると、水瓶から水を注ぐヘレネーを見つける。ヘレネーもそれに気が付くと、パリスに駆け寄り、水差しから水を零しつつ、パリスに駆け寄った。
「パリス!」
「ヘレネー!」
長い抱擁の後、二人は顔を見合わせて笑い、晴れ晴れとした広い空の下で互いに水を汲み、花に与えた。その和やかな様、華やかさ、優美さといえば、さながら花園の水仙のよう。
瞬くヘリオスに守られながら、二人は花弁から水滴が落ちる様を、うっとりとした表情で眺めた。
「色とりどりで綺麗に育ったね」
「水に映る彩が華やかで素敵です」
二人はその美しい花々を愛でつつ、指を搦めて戯れ合う。しかし、通りかかるヘカベーの浮かぬ表情はといえば、この世の終わりをその目に移したかのよう。
「トロイーロスのこと・・・残念だったね」
パリスは眉を下した。ヘレネーは一等に愛された少年の姿を、よく宮殿で見ていたので、パリスに返せそうな言葉もなかった。
二人は暫く庭の土を弄り、雑草を丁寧に抜き取る。丸い背中には宮殿に漂う重い空気が圧し掛かっていた。
「・・・若い頃にはご家族を亡くし、我が子を殺められた陛下の御気持ちは、察するに余りあります。アカイア人には言葉で伝えるのを憚るようなお気持ちを抱いておいででしょう」
「うん・・・」
そのアカイア人、ヘレネーの言葉を受けて、パリスはその肩に身を寄せた。温い温度が服越しに伝わる。咲き誇る花々のうちに、枯れ萎む花々が垣間見える。その虚しさたるや、嗚呼。
パリスは枯れた花を摘まみ上げ、地面に埋める。泥の色と重なり合った花弁は、すぐに見分けがつかなくなった。
イリオンの町から賑やかしい声が遠ざかっていく。パリスはサンダルを結び直すと、使うことのない剣を持ち上げて立ち上がった。
「そろそろ行かなきゃ」
「・・・お気をつけて」
ヘレネーとパリスは抱擁を交わす。パリスは自らの頬を打ち、勇気を奮い立たせると、矢筒に矢を満杯に補充し、これを担ぐ。美々しい腿を持ち上げて、北東側の城壁に向かって歩み出した。




