泉枯らす嵐
何度か夜と朝が巡るうちに、アカイア勢はトロイアの城壁を破ることができないことを悟った。日中終わりなく続く石と槍と矢の礫は、簡単に進軍することを難しくした。アキレウスは忽ちに城壁近くまで迫ることができたが、城壁の上から投げ込まれるヘクトールの大岩に阻まれ、城壁を上ることまでは至らなかった。イリオンの人々は神々の城壁に感謝し、建造主である大地を支える君ポセイダオンによくよく捧げものを捧げたので、ポセイダオンは一旦アカイア勢に協力しないことを決めた。
イリオンにもアフロディーテ、アポローン、アルテミスといった神々が協力されるので、安易な攻勢は困難であるという考えが、アカイアの勇士達の間に広がり始めると、痺れを切らせたアキレウスはダルダニアの地にあるテュンブレーという町に攻め入った。その凄まじい槍捌きで悉く守衛を打ち倒し、家々を次々に襲い金銀財宝、青銅の鼎や鍋、武器から女に至るまで町中の貴重品を略奪して回る。その勲はついに神殿にまで轟き、燃え盛る町に舞う煤がこの勇士の肌を赤く染め上げた。
瞬く間に崩壊する町の中を逃げ惑う人々を、アキレウスは次々に討ち取る。しかし、彼は、そのうちにやんごとなき身分の美しい少年の姿を見つける。まだ髭も生えておらず、艶やかな肌は女と見紛う程に美しい。御髪は艶やかで美しく、屈んだ際にキトンから覗く太腿は息を呑むほどに蠱惑的である。戦利品としても申し分ないその少年を生け捕りにせんと、アキレウスは神馬を駆り、砂塵を巻き上げて少年を追いかける。
しかし、見るからに高位の身分である少年は中々に賢く、アポローンの神殿に駆け込むと、その聖域で身を潜めたのである。
神々の下で乱暴狼藉は許されない。いかにアキレウスといえども、神々の御諫めを受けないなどという保証は無かった。そこで、アキレウスも少年に何度か外から声を掛けたのである。当然返事などなかったが、その時、アキレウスは上空に鷲が飛び交うのを認めた。
鷲が空より見晴るかす大地は、神々でさえ容易に手出しの出来ない戦が繰り広げられている。その神意を良く汲み取ったアキレウスは、神々への畏れさえ容易に克服し、ついにアポローンの神殿へと槍を投げ入れた。先ず一人の神官を槍は捉え、そしてアポローンの神像に槍が突き刺さる。神官は驚き、アキレウスを戒めようと大音声を上げて言う。
「貴様、神聖なこの場所で蛮行を行うなど、無礼千万だ!すぐに裁きが下るであろう!」
足速きアキレウスは聞く耳を持たず、下車したその足で瞬く間に神官たちを押し退けて、逃げ惑う少年を捕らえた。抵抗する少年を押し倒し、腕を捻れば、アポローンの奏でられる竪琴のような美々しい声が鼓膜を揺する。アキレウスは少年を押し倒したまま、その美しいところを隈なく確かめると、軽々と脇に抱えて、連れ去ろうとした。
しかし、少年があまりに激しく暴れ回るので、アキレウスは苛立ち、遂に少年を地面に叩きつけたのである。脊椎が粉々に砕け散るような凄まじい音がし、少年はぼろぼろと涙だけを垂れ流す、物言わぬ者となった。アキレウスはそれを静かに見下ろす。僅かばかりの呼吸の音を確かめると、少年に跨り、キトンを強引に解いて、せめてもの慰みを施した。そして、槍で腹を貫くと、少年は小さな呻き声を最後に、アイデスにその魂を捧げた。
年若き王子の悲劇は瞬く間にイリオンへと伝えられ、王妃にも正式に報告される。これを聞いたヘカベーは膝から崩れ落ちて泣き、神々にその不幸を訴えた。
「嗚呼、天より見晴るかす神々よ!どうかあの忌々しいアキレウスに、鉄槌を下してくださいませ!罪深きパリスならともかく、どうして罪のないトロイーロスを見殺しになったのですか!どうして、私の愛しい子を、あの珠のように可愛い子を、私から奪い去ったのですか!」
その悲嘆にお応えになったのは、笑み愛ずる君アフロディーテと、助産する君アルテミスの二柱である。二柱の女神のうち、アルテミスはヘーラーの目を盗み、ゼウスに取り縋っておっしゃる。
「ああ、偉大な私の父よ。母であるヘカベーの、我が子へ対する思いを、どうか汲んでやって下さい。アキレウスに必ず、志半ばで息絶えるということを約束して頂きたいのです。いつかのように多くは望みません。ただ、罪なき子供から命を奪うこと、その償いを与えてほしいのです」
すると、雷を愉しむゼウスは我が娘への愛情に任せて、猫なで声でおっしゃった。
「ああ、かわいいアルテミスよ。父はお前の我儘を何でも聞いてやったし、これからも聞いてやりたいが、今直ぐというわけにはいかない。何故ならこの戦いで本当にイリオンに罪深いところがないのかを、見定めなければならないからだ。愛しい娘よ。トロイーロスはそのうちの命の一つに過ぎぬ。じきにお前が望むような審判が下るだろうから、どうか気を落とさずに待っていてくれ」
このようにおっしゃったゼウスは、アルテミスを胸に抱き寄せて、その艶やかな御髪を撫でまわされた。アルテミスはゼウスのするに任せたが、それは丁度、飼い犬が餌を多く得るために、飼い主に甘えるかのよう。父の膝に縋り付き、ヘーラーのお戻りになる時までこれをお続けになった。すると、ヘーラーがお戻りになり、この女神はゼウスの顔を冷めた目で見つめておっしゃった。
「また良い年の娘を、アルテミスをかわいがっておられるのですか。アルテミスももう神として十分に生きた身でしょう。誘うにしてももっと魅力的に誘ってはどうなのですか」
「「父子の愛ですよ」」
と、二柱の神は異口同音におっしゃった。ヘーラーはその御姿をご覧になって、呆れ返って溜息をお吐きになる。そして、ゼウスの隣にある玉座に座ると、髪をかき分けて、燃え盛るテュンブレーの町を見おろされたのであった。




