泉、枯れる
人々の寝静まる頃に、王妃ヘカベーは自分の一番幼い息子を寝室に呼んだ。
「トロイーロス、こっちへ来なさい」
「母君、一体どうなされたのですか」
まだ髭も生えない年頃のトロイ―ロスは、パリスにも劣らぬ美貌を備えていた。ヘカベーは、その柔らかい御髪を抱き込み、羊毛の中に身を預ける。こそばゆそうに笑う我が子に対して、母は諫めて言った。
「また、城を抜け出しましたね。何度言ったら分かるのですか」
トロイーロスは頬を膨らませて答えて言う。
「ずっと城にいては足が衰えてしまいます。大丈夫ですよ!何事も起きていません」
「何事かが起きてからでは遅いのです!泉の御子トロイーロスよ、お前は我が国の希望なのですよ!」
母は幼い子の肩を揺り動かして語気を強める。親の心子知らずとはいうが、トロイーロスとはまさにそのよう。ヘカベーの言葉を拒み、抱き込む胸を引き離して言う。
「大丈夫ですよ!つまらない城にずっといる方が、かえって退屈で死んでしまいそうです」
このように言うと、トロイーロスは引き離した胸の隙間から小さな体をするりと抜け出して、逃げるように立ち去ってしまった。叱りつけるヘカベーの声も、真暗の闇に響くばかり。逃げ足の速いトロイーロスを、ヘカベーは見失ってしまった。
消沈するヘカベーの姿に気づくと、思慮深い予言者ヘレノスが現れ、トロイーロスを摘まみ上げてヘカベーの元へと戻ってくる。王妃は大いに安堵して、手足をばたつかせるトロイーロスを抱きしめ、羊毛の中に優しく包ませた。
ヘレノスはヘカベーのもとに跪き、滔々とした声で言う。
「母君、輝ける君アポローンの託宣が示すとおりであれば、この子こそがイリオンの運命と言ってもいいでしょう。トロイーロスを守ることは困難でしょうが、これがあなたと私の使命です。どうか私も頼って下さい」
「助かります。母はあなたのような子を持つことを誇らしく思いますよ」
このように言うので、ヘレノスは深く頭を下げて応じる。幼いトロイーロスだけが、不服そうに羊毛の中に顔を埋めていた。
しかしながら、母にはたくさんの子がある。何故にそれほど末の御子を玉のように愛するのか。それはその子がプリアモスの子でありながら、アポローンの子であるからであった。
泉の子トロイーロスは、ヘレノスが円盾を捧げ、姫愛ずるアポローンの託宣を頂いたその夜に、ヘカベーがプリアモスと交えた後に腹を痛めて産んだ子である。託宣によれば、泉の水を枯らさぬように育めば、イリオンは滅び去ることは無いのだという。ヘレノスはそれをヘカベーに告げ、母を甲斐甲斐しく助けたのである。そしてこの母子は、互いにイリオン最後の希望を育むために、この十年を捧げていた。
幼子はへそを曲げていたが、結局は蠱惑的な「眠り」の誘いには勝てず、とろんとした瞼をゆっくりと下ろした。幼子を抱いたヘカベーはようやく安堵の吐息を零し、「眠り」の誘いに瞼を預けた。
さて、何度目かの夜が明け、いつものようにヘカベーが目覚めると、脇に抱いた我が子は既にその場にいなかった。驚き慌てふためいた王妃は、泉の子の名を叫びながら、宮殿を巡った。ヘレノスは既に戦場に出ており、頼ることも出来ない。そこで、ヘカベーは数多の従者を呼び集め、町中を隈なく探すように呼び掛けて言う。
「私の愛しい子、トロイーロスがまた抜け出してしまいました。女たちは町を隈なく探してください。見つけたものには相応の褒美を差し上げます」
このように呼びかけると、侍女たちに否やはなく、直ぐに愛らしい泉の子を探すために町へと繰り出した。次にヘカベーは、城内の護衛達全員に、発破をかけて言う。
「私の身を案じるのは喜ばしいことです。しかし、大切な玉のような主人の御子、つまりは私達の泉トロイーロスを救い出さずして、どうして忠義ある者と言えましょうか。すぐにでも我が子を探し出し、無事な体で連れ戻すのです」
女の言葉に感銘を受けたイリオンの男達は、その呼びかけに勇気を振り絞り、恐ろしいアカイア勢の詰め寄らんとする城壁の外へと、トロイアの泉を探しに向かった。
女たちは町中の子供が楽しめる場所を隈なく探したが、どこにもトロイーロスは見つけられなかった。果実薫る市場や、高低差のある町外れの石畳の階段、たこつぼの中に至るまで探し回ったが、いるのはたこや、盗人を訝しむ店主、身を肥やす無花果ばかりである。女たちは不安を募らせて、身売りの市場に至るまで、自らの危険を顧みずに探すようになった。
一方で、男達は見晴るかす鷲と同じように城壁の上から城外を覗き込み、城壁の外周にはいないことを確かめた。そして、彼らは城壁の外へと繰り出し、近隣の都市を手分けして探すことに決めた。やがてそのうちの一団が、炎を猛り上げるテュンブレーの町を遠目に確かめると、彼らは震え上がり、冷汗をかいて慄いた。やがて心を落ち着かせるうちに、彼らは斑の馬と金毛の馬が牽く戦車を先頭にする集団が、満載の秘宝を積み込んで、町から離れていく姿を目撃した。
一気に血の気が引いた男達は、「トロイーロス様!」と大きな声を張り上げて、瓦礫の山となったテュンブレーの町へと駆けて行った。
石の焦げたにおいが漂う瓦礫の町の中を、男達は必死に捜索した。死屍累々を野犬の食い荒らすままに放置した、悍ましい光景の中で、男達は、羊の毛を結わえた杖を持つ神官たちが投げ出されて倒れている姿を目撃した。慌てて息のある者を救助しようと試みた男達は、アスクレピオスに祈りを捧げながら、神官たちに膏薬を塗り込んだ。
甲斐も空しく多くの神官たちが命を落としていたが、その中で一命を取り留めた者が、介抱する男の腕を掴んで訴えた。
「中に、トロイーロス様が・・・」
男は頭が真っ白になって、咄嗟に言葉を聞き返す。しかし、神官はそのまま息絶えてしまい、男は急いで崩れ落ちたアポローンを祀る神殿の中を覗き込む。すると、その中に、腹と太腿を晒し、力尽きた美貌の少年の姿があった。男は仲間達を呼び、すぐにその少年、泉の子トロイーロスを助けだす。しかし、腹からは臓器が溢れ出し、滴り落ちる血にまみれたキトンが、太腿に貼り付いている。トロイーロスは白い歯を空に向けて、瞳を自らの額に向けたまま、その視界を暗い闇の中に隠されていた。
男達は崩れ落ち、涙で瓦礫の上を浸した。それは彼らが一つの町と、燃え盛るイリオンに水を与える泉を失った瞬間であった。
かくして滅びの運命は避けられぬことが決まったが、瓦礫の中に咲くヒヤシンスの花が踏み砕かれ、破壊された神の聖域に野ざらしに晒されたことによって、遠矢射る君アポローンがとめどなく溢れる瞋恚に御心を奪われたことは言うまでもない。アポローンは拳を握り、凄まじい剣幕で神馬に牽かれる戦車を睨まれた。かつてゼウスへの秘め事を共有した大神ポセイダオンが、ペーレウスに与えた神馬らに、特別の敵意を向けられた。アカイア勢の野営地へと消えていくアキレウスの背中目掛けて銀の弓を構えられたが、その御手を金の矢を射る君アルテミスは戒めておっしゃった。
「アポローン、おやめなさい。どこからか鷲が見ているぞ。下手にこの戦に関われば、いつかのようにゼウスがお前を諫めるだろう。鎖につながれ、羊飼いに堕とされることは望むまい」
このように仰れば、アポローンもお構えになった武器を収められ、遠く彼方へ消える砂塵に目を凝らされた。
イリオンに降り注ぐ悲しみの雨は留まることがない。そこに人のある限り、彼らの叫びは止められるはずもないだろう。
ならば苦しみを止めて進ぜようと、アポローン様が仰らないのは何故なのか。その遠矢でイリオンの人々を根絶やしにすることも、神々の慈悲であったろうに。




