難攻不落の防壁
朝が来る前に集結したトロイアの戦士たちには、昨日の高い士気はなかった。重苦しい雰囲気の中、ヘクトールは先頭に立って弁舌を振るう。
「これは危険な事態だ。敵に背中を見せ、味方を売るような悲壮な表情をしないでくれ。どうにせよ彼らを止めなければ、私達の都市は守られない。勇気を振り絞って敵に立ち向かわなければ、必ずイリオンの町は落ちる」
言葉尻が萎んでいくのを、戦士たちは不安そうに見つめる。輝く兜のヘクトールは、5メートルにもなる大槍を、地面に突きたてる。豪奢な黄金の装飾は戦場でもよく目立つ。
「はっはっは!大丈夫だ、戦友たち!地の利を生かして戦おう!敵は手強くても、君たちの力があれば戦える!」
そう言うと、ヘクトールは市の正門を開け放つのではなく、城壁によじ登った。そして、難攻不落の城壁を槍の柄で叩く。小気味の良い音を立てた城壁は勿論びくともせず、ヘクトールはおどけて手を痺れさせた仕草をとった。
「・・・ははは。いくらアカイア勢といえども、この城壁は簡単には壊せまい!皆、弓矢や大岩、投げ槍をありったけ持って、この上に登って来ると良い!」
戦士たちはこぞって市壁によじ登り、飛び跳ね、重い岩を打ち付けた。城壁は勿論びくともしないが、それが却って彼らを勇気づけたのである。
「そうだ、そうだ!神様が御作りになった城壁を壊せるはずがない!私達はまだ負けてなどいない!」
戦士たちに笑顔と覇気が戻ると、ヘクトールはこっそりとパリスに近づいて言う。
「恐れることも、逃げることも悪くはない。それで生きる勇気が湧くのならば・・・」
太陽が完全に昇ると、砂浜から凄まじい砂埃が起こり、イリオンへ目掛けて進んでゆく。ヘクトールが迎撃の指示を出すと、戦士たちは規律正しく装備を構え、迫り来る軍勢を睨んだ。
アカイア勢が射程に入ると、城壁の上から弓矢の雨が降り注ぐ。ある者はそれを盾で防ぎ、ある者は槍の柄でこれを払った。またある者は矢傷に当てられて崩れ落ち、視界が闇へと覆われた。
アカイア勢の中から突出して現れた戦車の男、足速きアキレウスが、大音声を上げて罵る。
「卑怯者どもが!それでも勇士か!!」
すかさずヘクトールは大音声で切り返す。
「盾の裏に籠るのと、どちらが卑怯か、我慢比べでもしようじゃないか!」
この声と共に大岩を持ち上げたヘクトールは、これをアカイア勢へと投げ放つ。脛当て美々しいアカイア勢の足捌きであっても上げられぬほどの砂埃が立ち昇った。
砂埃の中を疾駆する戦車の影を見たイリオンの戦士たちは震えあがる。不死なる名馬に牽かれた戦車の上には、見るも美しく、逞しい英雄の姿がある。
アキレウスが槍を投げると、たちまちに戦士の喉を貫通する。城壁の上にあってなお、身を護る術としては不十分に思われた。
「怯むな!」
デーイポボスが大岩を持ち上げる。ヘクトールの投げた岩の半分ほどの大きさで、苦しそうに呻きながらそれを放り投げた。しかし、その大岩さえ、アキレウスを止めることができない。アキレウスにすっかり怯えてしまったイリオンの男達は、投げ込まれる槍の穂先から逃げ惑うばかりとなる。
城壁の中に屈み込み、様子を窺っていたパリスは、アキレウスの突撃に構わず、後続の勇士達を狙う。彼を目掛けてアキレウスの槍が投げ込まれると、これを、盾を持つデーイポボスが払いのけた。
パリスは呼吸を整え、一矢を放つ。矢は大きな弧を描き落下し、雑兵の一人を射抜いた。
「臆病者がいるな!壁の裏から出てこい!」
「こ、これでも喰らいやがれ!」
挑発するアキレウス目掛けて、デーイポボスが槍を投げる。イリオンの戦士たちも心を奮い立たせて矢を放ち、この勇将を守った。
「お前のことではない、命知らずが!」
アキレウスはデーイポボス目掛けて槍を投げた。盾を構えるデーイポボスを、ヘクトールが押し倒す。
アキレウスの槍はヘクトールの頬を掠り、壁面に突き刺さった。
デーイポボスが身を強張らせるのを、ヘクトールが叩き起こす。
「よくやった!だが避けないと死ぬぞ!」
兄の言葉に無言で頷いた弟は、次の投擲が来る前に槍を引き抜いて身を隠す。続けてアキレウスが投げた槍は、ヘクトールを目掛けて飛んだ。すかさず手に持つ柄で槍の軌道を逸らし、仕返しとばかりにこの槍を投げる。
煌めく金色の装飾を施した5mの長槍は、アキレウスの駿馬を飛び越えて、操縦者の喉元へ迫る。アキレウスはすかさず盾でこれを防ぐと、戦車を止めさせ、大音声を上げて言う。
「お前は下りてきて戦えるだろう!いったい何を怯えているのだ!」
凄まじい覇気を放つアキレウスの勇姿に、イリオンの戦士たちは腰を抜かした。その声の凄まじさは、降り注ぐ矢の雨に当てられて、その視界を闇に覆われた数多勇士らを呼び起こさんほど。しかしヘクトールはデーイポボスから引き抜いた槍を受け取り、それを構え、答えて言う。
「そう急かすなよ。よく喧嘩っ早いとは言われないか?そうだ、この落とし物を返しておこう!」
ヘクトールは軽々と、アキレウスの槍を投げ返す。盾でこの槍を跳ね返すと、アキレウスは煌めく装飾の槍を持ち上げた。
「ならばこちらも返しておくぞ!」
アキレウスの投擲は、ヘクトールのそれを遥かに凌ぐ。その距離であっても膂力に任せて、構えた盾を貫くほどに。
ヘクトールはそれとわかって身を躱し、以て闊達に笑って見せた。
「今日の所はこれで納めよう、アカイア髄一の勇姿殿よ!私は、ヘクトールという者だ!」
「輝く兜のヘクトールよ、その名確かに覚えたぞ!私の名前はアキレウス!いつかは槍を交えよう!」
気づけば夕陽は西へと沈み、戦場に夜が巡り来る。




