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イリオンの矢  作者: 民間人。
不和の林檎
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パリスの審判

 その時、パリスはイーデーの山へと戻り、体を休めていた。心も穏やかになる泉のせせらぎを聞きつつ、背の低い岩に身を預けていたパリスは、仕事道具である牧人の杖を傍に立て掛け、足を泉に浸して体を清めていた。

 穏やかな心地で微睡みに沈まんとする彼の前に、凄まじい車輪の音が近づく。何事かと身を起こしたパリスは、そこに眩いばかりの女神たちが居られるのを認めた。人の業とは思えない車捌きに、パリスは呆気に取られて後退る。

 アテーナーは黄金の兜を脱がれ、悠然と構えて車をお降りになった。そして、手ずから神馬の轡を外される。

 続々と降り行く女神たちは、いずれも比べるべくもなく美しい。

 続いてヘルメイスが地上に降り立ち、アテーナーを諫めておっしゃった。


「女神アテーナー様よ、もう少し手心というものを・・・」

「何を仰いますか。私はゆっくりと来たつもりですよ。美神らが御怪我をなされては大変ですからね」


 状況の飲み込めないパリスは目を瞬かせ、オリュンポスに集う尊き神々のご尊顔を見回した。

 白い腕を持つ神々の女王ヘーラーは、威厳ある佇まいでおわし、眩いばかりの宝珠で飾った王冠と王笏をお手に持っておられる。息を呑むほどに白いその細腕の眩いこと、さながら滑らかな大理石のよう。

 神馬を手懐ける女神アテーナーは、ヘーラーに劣らず麗しく、理知的で精悍な顔付きの女神であらせられる。眉目秀麗で鼻も高く、他の女神より抜きんでて引き締まった肉体を持つ。表情は必ずしも優美ではないが、一方で勇ましく精悍であり、梟のような鋭い青眼も一等美しい。

 最後に降りられたのは女神アフロディーテであらせられる。ふくよかで柔和な容顔が大層美しく、男達を魅了する。線の細いヘーラーや肉体の引き締まったアテーナーと比べて輪郭は丸く、身に着けるキトンの襞も美々しく強調される。若々しい巻き毛も一等麗しく、身に着ける帯は様々な染め色で編まれ、それぞれに「愛」、「憧れ」、「欲望」の糸が用いられる。


 なお、黄金の果実を持つヘルメイスはこの度は青年の姿で現れ、女神らを導くためにたくし上げたキトンから覗く太腿はやはり麗しい。


 困惑するパリスに向けて、人の心を解す術に長けたヘルメイスは気さくに語り掛けられた。


「緊張するとは思うが、少しばかり落ち着いてくれ。決してお前を悪いようにするために来たわけではないよ」


 ヘルメイスはパリスの右手に黄金の果実を握らせた。パリスは困惑して果実を見つめる。果実には『最も美しい女神へ』と記され、パリスは再び顔を持ち上げた。

 甲乙つけ難い美しさの三柱の女神がそこにおられる。パリスは口をパクパクさせ、紅潮した頬をヘルメイスに向けて助けを求めた。ヘルメイスは気の抜けた笑みを向けられて、パリスにおっしゃった。


「申し訳ないのだが、大神ゼウスはその審判をお前に委ねた。婚礼の景気付けに気の利かない何者かが投げ入れたのであろうが、収拾もつかんので、どうかこのヘルメイスの顔を立ててくれ」


「えぇっと・・・。賎しい人間である私が神を選べなどと、恐れ多いことです」


 パリスは躊躇いながらヘルメイスに果実を返そうと試みるが、艶やかな果実はその手から離れない。ヘルメイスは顔に影を落とし、凄みのある低い声でパリスに迫られた。


「ほうほう、ゼウスの神意を拒むことが出来るのか?」

「め、滅相も御座いません!選びます、選びます!」


 ヘルメイスは表情を明るくし、パリスの背を叩かれる。パリスはせがまれるままに、方々に美しさの異なる美神らの前に立ち尽くした。

 中々決断の出来ないパリスに痺れを切らした女神たちは、苛立ちを抑えて策を弄される。

 先ずは堂々たる青い瞳を持つアテーナーが、パリスの顔を真正面から見下ろして神意をお伝えになった。


「私の恩寵は何者にも劣らぬ軍隊だ。男である以上は、お前も戦の場に勇敢に躍り出て、武勲を立てようと夢見るものでしょう。当然、お前のことはこのアイギス持つ女神が守ろう。その胸に何事も恐れることのない勇猛さを吹き込んでやる。男の勲こそが最高の恩寵であろう」


 また、白い腕を持つ女神ヘーラーが、逡巡するパリスの右耳まで身を屈め、甘やかな吐息と共に神意を吹き込まれた。


「女神を選定するような男が、あのような侘しい家屋では手狭でしょう。私を選んだ暁には、この王笏に因んで、お前に偉大なアシアの王位をくれてやろう」


 最後に、艶やかな微笑みを湛えるアフロディーテは、煌々たる金の御髪を揺らめかせ、パリスの鼻先にまで迫られ、蕩けるような甘美な声で囁かれた。


「人間の幸福とは愛憎に浸ること。私を選んだ暁には、あなたに相応しい最高の美女をあてがいますわ」


 パリスはやはり口を開閉させ、目を白黒とさせて三人の女神を見定めようと試みる。いずれも甲乙つけ難い美女であるのは間違いなく、彼はますます困惑した。


 湖は木漏れ日を映して煌めき、女神らの御髪の輝く様を一層引き立てる。得も言われぬ甘い木々の香りは、女神らの体から放たれる馨しい体臭を益々魅惑的にした。森のざわめきに合わせて、女神から甘い吐息が零れるのを感じた。パリスはついに耐え兼ねて、女神たちの提案に対する評価を始めることにした。


 アテーナーの提案は却って怖気づくものであった。武勇の秀でたる男達は、いつまでも世々の諍いに駆り出されるだろう。パリスは相応の勇猛さも持ち合わせてはいなかった。

 ヘーラーの提案はパリスには想像もつかなかった。一介の羊飼いである彼には、雲の上のことと思われる提案は過ぎるようにも感じた。

 されども、彼は既婚者である。今更アフロディーテに何を期待せよというのだろうか。


 木立が葉を擦り合わせて彼に詰め寄る。凄まじい剣幕のアテーナー、苛立ちを隠さないヘーラーが、彼ににじり寄った。アフロディーテは包み込むような微笑と共に、パリスの答えに迫る。最早回答を急がねばならなかった。


 パリスは耳を赤くして、林檎をアフロディーテへと差し出す。刻まれた言葉は木漏れ日に当てられて強く瞬き、アフロディーテに向けられた。二人の女神が、恐ろしい剣幕でパリスを睨まれた。短い悲鳴を上げて逃れようとするパリスを、アフロディーテの豊満な腕が抱き寄せた。


「あなたは良い選択をしました・・・」


 眼光だけでパリスを殺めてしまわれそうな2柱の女神の視線を遮るように、アフロディーテの指が彼の視界を遮った。また、暗い靄が立ち込め、女神からも彼の姿が遮られた。


「お二方、どうかお怒りを鎮めて下さい。あなた方の美貌も地位も揺らぐわけではございますまい」


 ヘルメイスがこうあやすと、アテーナーは激しい舌打ちをして神馬の曳く戦車に飛び乗られた。ヘーラーもまた、顔を赤くされて、「道理の分からぬ人間めが!」と激しい罵倒をしつつ、戦車へとご同席になる。2柱のお怒りは天駆ける雲にまで届き、薄くたなびく白いそれがどす黒く分厚く変色した。


「それでは戻りましょう。アフロディーテ様も、ほら」


 ヘルメイスに促され、アフロディーテはその美々しい腕からパリスをお放しになって、ヘルメイスの手を取られた。ヘルメイスの白くごつごつとした若い指を、滑らかでふくよかな指が包むと、その感触を確かめるように、若い指が撫で上げる。そして、荒ぶる神馬が木々をなぎ倒して作った道を、ヘルメイスとアフロディーテはゆったりと降って行かれた。


 一人取り残されたパリスは、委縮した肺にはち切れんばかりの空気を貯め、暫く深呼吸を続ける。やがて呼吸が落ち着くと、荷物を持ち上げ、とぼとぼと山を登っていく。


 これからどうするべきであろうか。オイノーネーにどのように話すべきか。偉大な神々の恩寵を断るのは、流石に憚られる。しかし、一つ提案をしてみれば、他の女神よりは幾らかは話を聞いて下さるのではないか。取り留めのない考えが積もっていく。益々彼の足取りは重くなった。

 イーデー山の薄い空気が、ますます彼の肺を圧迫する。彼は周囲をきょろきょろと見回しつつ、不審な様子で自宅へと戻っていった。


 オイノーネーは変わらず彼を暖かく迎え入れたが、夫のただならぬ形相を訝しんだ。


「あなた、一体どうされたのですか。今日は酷く憔悴しているように見えます」


 思い出すのも憚られたが、彼の夫は疲れた体を羊毛の中に埋めて答えた。


「3人の美々しい女神に選択を迫られた。選ばれなかった女神が、今後どのような仕打ちをするのかと考えると、憂鬱でならないんだ」


「まぁ・・・」


 オイノーネーは言葉を失った。神々のいずれかを選択することを迫られ、身を滅ぼした者の先例は枚挙に暇がない。彼女は怯えるパリスに寄り添い、彼のその先を思って泣いた。彼女の夫も、それにつられておいおいと涙を流す。彼は、オイノーネーの嘆きに加えて、夫として、妻に隠し事をすること-アフロディーテを選び、妻を裏切ったこと-を恥じ、益々自分が惨めに思われて泣いたのである。


 二人の嘆きは夜まで続き、その日1日は、豊かな実りのあるイーデーの山に、分厚く冷たい雲が垂れ込めたままであった。


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