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イリオンの矢  作者: 民間人。
アカイア勢の攻勢
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戦場の嵐を前にして

 後退を余儀なくされたトロイア勢は、夕闇の中でアカイア勢の布陣を俯瞰した。

 シーゲイオンの岬から多くの船を引き揚げ、スカマンドロス河さえも挟んで大船団がずらりと並べられる。海岸には一千艘を越える長大な船の群れと、これを屋敷として一つの町が造られていく。馬小屋や食糧庫、倉庫は、アカイア勢が万全の支度を整えてイリオン侵攻を試みたことを窺わせる。


 石と木組みの防壁で船の周りを囲み、これを守るように逆茂木を組み立てた。

 それは一日で組み立てるにはあまりにも見事な防壁であった。


「あっちも本気なんだ・・・」


 パリスは鳥肌を立てて、防壁の上から布陣の様子を眺める。逆茂木がイリオンに向かって伸び、その枝先を突き刺さんと試みる。全てがパリスに牙を剥くように思われた。


 敵は千艘もの船を従える偉大なギリシャの王である。そして何よりも、彼の脳裏にちらつく、あの悍ましい男の姿。


 密集した戦列から覗き見ただけでさえ総毛立った、あの雄々しく恐ろしい男は、パリスだけでなく、イリオンの戦士全てに強烈な印象を与えた。ヘクトールが高めた士気を根こそぎ奪い取る、嵐のような戦車捌き。黄金の馬、斑の馬に牽かれたこの車は敵を牽き回し、ほしいままに命を奪っていく。素早い槍捌きは数多の手練れの戦士から簡単に兜を掬い上げ、盾を容易に貫通して胸や頭蓋を打ち砕く。勇士達の魂は、ヘルメイスの手招きに従って、アイデスへと捧げられ、暗い闇の中へと導かれる。あとに残るのはどろどろとした鮮血と、武具を剥がれた無惨な肉塊だけである。


「タナトスだ・・・タナトスだよ・・・」


 デーイポボスでさえ怯えてそう口走る。ヘクトールだけが正気を保って、嵐の前に立つことができた。だが、それも束の間の話であって、止めることなど誰にも出来はしない。


 逆茂木と城壁の中にあって、美々しい脛当てで身を護り、青銅に革を張り、端正な装飾を施した円盾が煌めく。鍛え抜かれた肉体はしかし、女性的な美しささえ備え、鳥の羽を突き立てた兜の中は眉目秀麗な容顔が覗く。

 イリオン人は、遠目にも『個人』を認識できるほどに、その男に際立った印象を与えられた。


「アキレウス・・・」


 パリスがその名を呟く。兵士達は皆震えあがり、女子供は夫や父を思って涙を滴らせた。強く拳を握りしめるデーイポボスの肩に、ヘクトールの汚れた手が回される。


「風呂に入ろう。アンドロマケーが沸かしてくれている」


 心の中まで冷え切ったデーイポボスが頷く。パリスは城壁から身を乗り出して、荒れ狂う嵐の姿を、目に焼き付けた。



 ヘクトールが宮殿に戻ると、真っ先にアンドロマケーが彼に抱きついた。不安に打ち震えたただならぬ様子に、ヘクトールは温い手で抱き返して応じた。

 その手には、確かに温度があった。


「ただいま」

「お帰りなさい・・・」


 薪の焦げる良い匂いが漂ってくると、ヘクトールは普段の溌溂とした表情を取り戻し、アンドロマケーの長い髪を掻き撫でる。


「君が汚れてしまうから、風呂に入ろうかな」

「お疲れ様です」

「有難う、アンドロマケー」


 ヘクトールはそう言うと、まずは武器と盾を仕舞わせ、次にサンダルを解く。脛当てを外して素足となり、胸当てと兜はアンドロマケーが外した。二人は口づけを交わし合い、互いの温度を確かめ合った。その後、湯桶に足をかけて、ヘクトールは風呂へと入った。


 ヘクトール好みの温めの湯加減は、アンドロマケーが手ずから整えた湯加減である。顔にかかる湯気は戦塵に塗れた素肌を労わり、汚れを疲労ごと洗い流す。

 束の間の安息に声を零す。その心地よさげな声を聞いた、アンドロマケーの喜びはいかほどのものだろう。数知れぬ恐怖に立ち向かった男が、無防備に肌を晒して彼女に身を委ねる、その信望の心地よさはどれ程のものだろうか。


「アカイア人は手強いよ。辛抱強く耐えるしかない」


 ヘクトールの呟きによって、アンドロマケーは、日中の祈りのことを思いだした。


「戦勝を祈ってアテーナー様に祈りを捧げた際、既に死んだ梟が盾に乗って落ちてきたのです。戦女神様のご神託と取って間違いないかと・・・」


 ヘクトールは話を聞くと、暫く考え込んだ後で、くい、と口角を持ち上げて言う。


「そうか。アテーナー様に祈ってくれたのか。それはありがたい。盾の上に乗って帰るのも、俺達とは限らないよ」


 ヘクトールは火照った体に湯をかけて、束の間の極楽を楽しんだ。

 湯から出て、体を拭ったそのままに、アンドロマケーを強く抱きしめる。


「大丈夫だ。君がいてくれれば、俺は生きて帰る。また風呂を沸かして待っていてくれ。君の沸かした風呂が、一番心地良いんだ」


 このように言うと、ヘクトールはアンドロマケーと共に寝床へと戻っていく。永遠を望むほどの(ニュクス)の恵みも、いつかは過ぎ去り、恐るべき(ヘーメラー)が巡り来る。


 強烈な印象を与えたアキレウスの姿を夢に見て、デーイポボスは夜中何度も目を覚ました。恐るべき神馬が狼狽えるデーイポボスを轢き殺し、そのまま戦場を牽き回す夢である。心地よい眠り(ヒュプノス)もかき消した前線の恐怖は、勝気な勇士デーイポボスさえも悩ませ、苦しめた。

 右手に構えた盾で守っていたはずの戦友が唐突に骸となる、その絶望と恐怖は、若い戦士には耐え難い。

 散々寝汗をかくに任せ、悲鳴と共に飛び起き、生気を失くして眠りに落ちることを繰り返したデーイポボスであったが、夜明けを前にして、夜明けと共に訪れる滅びから逃れようと、無意味にも身を起こし、星の瞬く西の空を眺めた。



 宵闇が去り行く様子を、苦虫を噛み潰すような表情で睨む彼に向けて、パリスが声を掛ける。


「デーイポボスも、眠れないの?」

「アレクサンドロスか。お前と一緒にするな。転んでいて、何も見てないんだろうが」


 デーイポボスは虚勢を張り、パリスを諫めて言った。しかし、パリスは僅かな憔悴の様子も見逃さずに、彼の顔を立てて聞き返す。


「デーイポボスとヘクトール兄さんは見ていたんだよね」

「あれは、殆ど災害に近い・・・。止められるものか・・・」


 再び襲い来るアキレウスの幻に、デーイポボスは唇をわなわなと震わせた。理性で止めようのない感情に抗うように、彼はパリスから背を向ける。月と星々の戯れから目を逸らし、拳を握りしめる。その拳を、パリスの柔らかく短い指が包み込んだ。


「大丈夫。僕も一緒だから」

「お前なんてくその役にも立たないだろうが!」

「怖いのは、一緒だから」


 デーイポボスの怒号を受け止めて、パリスはすかさず答える。デーイポボスの震える拳に重なった白い手は、勇士のそれよりもはるかに怯えて憔悴していた。

 それに気が付いたデーイポボスが、口の中をもごもごとさせて言い淀む。慰めの言葉をかけようにも、相手に対して相応しい言葉を、王子は持っていなかった。

 戦争に駆り出された憐れな羊飼いに掛けられる言葉など、彼の語彙には無かった。

 ただ、無情にも去り行く夜が西へと駆けていく様に怯える自分を、自分よりもはるかに弱い相手の姿を頼りにして心を慰めることは出来た。憐れな羊飼いの気持ちに寄り添うことは出来ずとも、未だ虚勢を張る余裕だけは取り戻すことができた。

「いいか。お前はアキレウスと戦うようなことがあっても逃げるんだぞ。絶対に勝てないからな」


「そんなに前に出て戦わないよ」


 パリスは苦笑を零して答える。それに安堵したデーイポボスは、暗い安堵を助けとして、パリスに虚勢を張って言う。


「そうだな。お前は女みたいなもんだ。アキレウスに奪われないように、俺が守ることにするぞ」

「ははは、何それ」


 夜明けは近い。暁に染まり始めた東の空を正視して、デーイポボスは僅かばかり自信を取り戻した。不敵に笑う弟の姿を見て、パリスは恥じらって頭を掻き、明るい声で言った。


「ありがとう。ちょっと元気が出たな・・・」

「どっちが・・・」


 そう言いかけたデーイポボスは、それ以上の答えるべき語彙を持たなかった。


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