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イリオンの矢  作者: 民間人。
アカイア勢の攻勢
27/99

開戦、男達と女達

 イリオンの浜にアカイア人の舟が訪れたのは、宣戦布告から実に10年の歳月を過ぎた後であった。その間に、イリオンの人々は十分な準備を整えることができたが、いざ眼前に滅びを齎す軍勢が現れると、守衛の兵士達は慌てふためいた。

 市街中に響き渡る警鐘を打ち鳴らすと、市民たちが忽ちに武装をして現れる。整列したイリオンの勇士達は、皆勇気爛々と胸を高鳴らせ、輝く兜のヘクトールの登場を待った。

 王宮から現れたヘクトールは、戦士たちを鼓舞して言う。


「ついにこの時が来た!勇士達よ、お前たちの力を示せ!敵は強大だが、臆することは無い!我ら馬馴らすイリオンの民が、団結の力を示せば、たちまちに敵を打ち倒せるだろう!しかし、もし臆すればお前たちの妻も子も、皆失うことになるかもしれない!イリオンを護ろう!私達は、この滅びに全霊をかけて抗うのだ!」


 大音声の歓声が市中に響き渡る。その様子を、王宮から老王プリアモス、その妻ヘカベー、そしてヘレネーとアンドロマケーが見守った。

 一方で、パリスはヘクトールと共に並び立つことをデーイポボスに譲っていた。自らは勇将と呼ぶにはあまりにも力不足であると自認していたためである。武装した市民に紛れて、身を強張らせるパリスであったが、その美貌は神にも見紛う程であり、王子としての気品も同時に備えつつあったために、市民の中にあっても即座に見つけることができるほどである。ヘクトールは目敏くパリスを見つけると、演説の最中彼に目配せを送る。パリスは固唾を飲み、ゆっくりと頷いた。


 市民たちの怒号に戸惑いつつも、パリスは先陣を切るヘクトールらに従って行軍する。市民たちはパリスのことを不審な者を見るように視線を送ったが、パリスは過呼吸になりながら下を向き、緊張を解すことに努めたため、その視線に気づかなかった。


 夫たちの出陣を見送った妻たちについて語ろう。ヘレネーはパリスのことが心配でならない。所詮は羊飼いであり、力強さとは無縁の男であったからだ。その緊張は周囲にも伝わった。兄嫁にあたるアンドロマケーは、ヘレネーの心を慮り、その艶やかな手を彼女の肩に置いて言う。


「大丈夫ですよ。きっと、ヘクトールが助けてくれますからね」

「アンドロマケー様は、ヘクトール様のことを信頼しているのですね」


 ヘレネーはパリスを信用できないことへの自戒も込めて言った。アンドロマケーは絶世の美女の目尻を濡らす涙を拭ってやり、小さく微笑んで言う。


「そうですね。でも、本当のところは戦いに出て欲しくないものよ。いくら強くとも、神々は気まぐれなものですから」

「・・・」


「だから、戦勝祈願の為に、私と一緒に神々に祈りを捧げましょうね」


 アンドロマケーはそう言って、ヘレネーを慰めた。ヘレネーも否やはなく、二人はそれぞれ最善と思われる神を奉ずる神殿に向かった。


 アンドロマケーは、戦勝を祈って守護神、パラス・アテーナーのもとに、織物を捧げに向かう。ヘレネーは、パリスが最も大切にする、遠矢射る君(ヘカエルゴス)アポローンの神殿へと向かう。

 それぞれの妃は従者に荷物を運ばせて、神殿へと向かって行く。

 パラス・アテーナーの神像の前に、滑らかな織物を捧げたアンドロマケーは、静かに祈りを捧げ、一頭の牛を捧げた。


「都市の守護者にして美貌並ぶ者無きアテーナーよ、どうか私の願いを聞き入れて下さいませ。イリオンの王子たちに数々の勝利あれ。アカイア勢の勇士達に、安らかな眠りあれ」


 アンドロマケーは神像の前に跪き、従者と共に女神に敬虔な祈りを捧げたが、女神はそれにお応えになり、パラス・アテーナーの神像からは盾が崩れ落ちる。驚き尻もちをつく妃たちは、盾の上に梟の死骸が蹲っているのを見た。アンドロマケーは驚き動揺し、従者たちは慌てふためき女神に許しを乞う。戦女神はその懇願を一顧だにせず、梟の死骸が土の中へと還っていくのを示した。それはアイデスに捧げられたことを示していたのである。

 アンドロマケーは不気味な予言に顔を強張らせ、アテーナーの神像を見上げていたが、胸に当てた手で握りこぶしを作り、狼狽える従者たちに笑顔を作って言う。


「ヘクトールはイリオンの光です。女神もいつか、それを理解して下さることでしょう。さぁ、夫の為に風呂の支度をしなくては!」


 アンドロマケーの言葉を受けて、その場にいる者たちは、女神の神像を修繕する従者と、妃と共にヘクトールの為に風呂の支度をする従者とに分かれた。


 一方で、ヘレネーは神官クリュセースの元へと赴いた。従者が竪琴をかき鳴らし、燃え盛る炉の前でワイン色の牛を捧げる。慰みのような甘美な音色に包まれながら、炉の火は喜び、クリュセースの杖に結わえた羊毛も揺れ動く。

 ヘレネーの祈りを受け入れられたアポローンは、沿岸に迫り来る船団に向けて、黒い烏をお放ちになった。そして、ヘレネーの元には亀をお放ちになった。


 亀はのっそりと神殿へ昇ると、ヘレネーの足元に寄り添った。ヘレネーはそれを抱き上げると、甘美な羊の乳を亀に与えた。

 亀は喜び乳を飲むと、めでたき託宣を受けて言う。


「イリオンの妃よ、神々のうちで汝らを助けるのは、アフロディーテ、アルテミス、そしてこの私アポローンである。そして、アフロディーテを愛するアレースもまた、汝らを助けるであろう。女神らに却って怒りを掻き立てぬように、よくよく選んで祈りを捧げよ」


 ヘレネーはこのような予言を受けると、すぐにアポローンへの深い祈りを続けた。斜に構えた君(ロクシアス)とも冠されるアポローンが、人々に誤解を与えぬ言葉で神託をお伝えになったのだ。ヘレネーに否やのある筈もなく、ヘレネーは立て続けにアフロディーテ、アルテミスに祈りを捧げた。自らが持ち寄った宝飾品をアフロディーテに捧げ、アルテミスに相応しい持ち物はなかったので、弓に似た竪琴を捧げることとした。

 こうしてヘレネーの敬虔な祈りは神々に届けられたが、これらの祈りを見たイリオンの大神官ラオコーンは、ヘレネー妃の姿に感銘を受けて言う。


「おお、イリオンに参られた敬虔な王妃よ。そなたの祈りが届くように、我らも毎日神々に祈りを捧げよう。勝利の女神にも・・・」


「アテーナー様はパリスの審判にお怒りです。どうかアテーナー様には、祈りを捧げないように、お願い致したいのです。私達を守って下さるのは、アルテミス様、アフロディーテ様、そしてアポローン様なのです」


「それでは戦は簡単にはいかぬでしょうな。くれぐれも慎重にことを進めるように、プリアモス王にご助言いたしましょう」


 ラオコーンはこのように述べると、直ぐに王宮への道を駆けのぼり、プリアモス王に助言を授けにいった。



 では、女神よ。女たちの戦いの傍らで、男達の戦いはどのようであったのか、語らせたまえ。


 戦陣を整え、槍と盾で味方を守ったイリオンの勇士達の中で、パリスは傭兵や奴隷達と並んで弓矢を構えていた。デーイポボスとヘクトールは遥か前方の最前線で、ヘクトールは最前線の右端で味方を鼓舞する。盾から半身が曝け出されたままの勇士の姿はイリオン中の勇士達を集めてもなお際立って雄々しく勇ましく目立っていた。


 こうして戦列を整えたイリオンの勇士達だったが、敵は一向に下船を開始しない。無音の睨み合いの中、船上から唐突に盾が落とされると、ついに第一の戦士が船を降り、イリオンの地へ踏み込んだ。男は槍を高く掲げ名乗りを上げる。それに続いて続々と、彼の兵士達が砂を踏んだ。


「我が名はプロテシラーオス!イリオンの地を第一に踏んだアカイアの勇士である!」


 これに答えて、輝く兜のヘクトールは名乗りを上げた。

「よくぞ参られた!プロテシラーオス殿よ!私はイリオンの第一王子ヘクトール!我が軍があなたたちの精強な軍を迎え撃とう!」


 この間、パリスは弓を引いてプロテシラーオスを狙ったが、周囲の傭兵によって諫められた。意味も分からずパリスは狼狽えた。王子でありながら若年を羊飼いとして育ったパリスには、戦場の常識がまるで無かったのである。


 両者が名乗りを上げ終えると、勇士同士が革を貼った盾をぶつけ合い、槍を突きだした。パリスと並ぶ兵士達も、唐突に弓を引き始める。一歩遅れて弓を引くパリスだったが、前線の勇士達が盾を打ち鳴らし、槍を突きだす音と鬨の声、そして悲鳴の混ざりあった混沌とした音が耳に届くと、この王子は狼狽え、周囲の兵士に押し出されて、戦場に倒れ伏した。

 立ち上がる頃にはイリオンの勇士達が後退を始め、パリスは散々に踏み散らかされながら土埃を舐める。ほとんど半泣きになりながら立ち上がったパリスは、気づけばファランクスの中腹ほどに紛れ込んでいた。


「邪魔!」

 槍と盾を持った兵士達に蹴飛ばされ、はるか後方へとみるみるうちに押し戻されたパリスは、気が付けばイリオンの勇士達がプロテシラーオスを討ち取っていたことを知った。


 しかし、第二の上陸を許したイリオンの勇士達は、この偉大な英雄によって次々と討ち取られていくことになる。

 その英雄の名はアキレウス。足速きアキレウスと従者ミュルミドン達である。


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