夜伽は火消しの泉を生んだ
このように、イリオンの勇士達は互いに意思を固め合い抗戦の覚悟を確たるものとしたのであるが、ヘレノスは、さらに一計を案じ、夜のイリオンを歩いた。
篝火も灯らない、寝静まる町の中にあっては、市壁に灯された篝火が大層大きくみられる。これに対して、星々が空を埋め尽くして瞬き、地上を見晴るかすのであるが、ヘレノスは地上にあるもう一つの灯火を目指して歩いた。
その灯火は、尽きることのない人々の苦しみを和らげる、神殿の篝火であった。その中でも、この神殿は斜に構えた君・アポローンの神殿であり、ヘレノスもカサンドラーと共に、恩恵を受けた身であった。
さて、アポローンの神殿に辿り着くと、早速ヘレノスをクリュセースが迎え入れる。この神官は常に信心深く、神も彼のことを寵愛なされた。
「クリュセース殿、夜分遅くに失礼いたします」
「いいえ、何事か御用でしょうか?」
クリュセースが穏やかに尋ねると、ヘレノスはこの度の開戦について解説し、それに加えて赴いた理由を以下のように答えた。
「えぇ。アカイア人が宣戦布告を申し出てきたので、ここは知恵あるアポローン様からご神託を頂きたいと存じまして」
「なるほど、それではこちらにどうぞ。私がお力添えできれば良いのですが・・・」
クリュセースはヘレノスを祭壇の前へと案内した。ヘスティアーは大いなる炎を上げて、恩寵深きアポローンに捧げられた、尽きぬほどある供物を天へとお送りになる。ヘレノスは羊を一頭と竪琴を祭壇に捧げ、早速、クリュセースに言う。
「アポローン様直々にご神託を頂けるのが最も恵まれたことであるのは議論の余地がありませんが、私が察するに、神にはこの程度の捧げものでは不足があろうかと存じます。どうでしょうか、私の母、ヘカベーの夜を捧げるというのは」
それは驚くべき提案であったが、クリュセースは動揺しながら炎の揺らぎを眺めた。炎は激しく燃え上がり、捧げられた羊の肉を丹念に焼いた。やがて、神は捧げものを人々に帰すと、ヘレノスはクリュセースと共にこの羊を食べた。
「炎の動きは荒々しかったですが、アポローン様のご神託によれば、その供物を喜んでおられるようです」
クリュセースはこのように言うと、飛び交う烏の中から、特に美しいものを見つけて、彼に肩を差し出した。
烏はクリュセースの肩に止まると、ヘレノスをまじまじと見つめ、喧しくわめきたてて言う。
「控えろう!輝ける君・アポローンの託宣である。お前の母から燃え盛る木を生んだのであれば、その胎から火消しの泉を与えよう。ただし、その泉を決して枯らさぬように。燃え盛る火が消える時まで、20年の歳月がかかるだろう」
烏は大きく嘴を開けて鳴き、クリュセースの肩から飛び去っていく。ヘレノスは輝ける君・アポローンの神慮に深く感謝を示し、クリュセースに誓いを立てて言う。
「明朝、新たな捧げ物を持ってこの場所に参ります。どうか、神にこのようにお伝えください。『善は急げというお言葉を、私共人間が実行いたします』と。」
ヘレノスの言葉を受け入れたクリュセースは、ヘレノスから羊の皮張りの円盾を受け取り、これを投げ入れた。青銅の用いられていない羊皮の円盾には、鼠が円周を連なって歩く様が描かれている。これは、鼠の君・アポローンの神慮を期待してのことであったが、神々の中でも誇りある輝きの君は、これを戒めておっしゃった。
「鼠は好きではない。讃えられた気はしない」
そのように申されたので、ヘレノスの去った後も、炉の中にはこの円盾が残されていた。これは、市庁に座す君ヘスティアーが、アポローンの御心を汲んで取り合わなかったためである。クリュセースはアポローンの神意を心得ていたので、この盾についてはヘレノスに見せぬように神殿で処理をすることとした。
その夜のうちに、褪めた暗色の空気の中、醒めたばかりのヘカベーが、冷めぬ情熱の赴くままに、老王プリアモスと交わった。
ヘレノスの受けた託宣は、飛び立った烏を通じて老王プリアモスへと告げられる。烏は王の頭上に止まると、『控えろう!輝ける君・アポローンの託宣である。今夜はヘカベーと夜を過ごすように!』と声高に叫んで伝えた。黒光りする不気味な烏が飛び立つと、王の頭には糞が取り付いており、これを拭うために宮殿へと戻った。
王宮に戻ると、王の心には直ぐに情熱が湧き出し、劣情の押さえられぬままに任せてヘカベーを誘ったのである。しかしこれは、体こそプリアモスのそれであったが、その意識はアポローンのものであった。託宣に従った王やヘカベーのことを、アポローンは改めてお気に召され、ヘレノスの円盾に関しては不問とされた。二人は肉体の許すままに快楽に入り浸ったが、この甘い色香はさながら神酒のようであり、アポローンにも悦びとして届けられた。
ヘレノスは夜の王宮に響く嬌声を聞き、自分の祈りが届いたことを悟ると、直ぐに使いを走らせてイーデーの羊を十数匹買い取った。ヘレノスはクリュセースの神殿にこれを直接届けるように使いに言いつけ、自らは交わった後の母の体を労わり、甲斐甲斐しく世話をするようになった。全ては泉を枯らさぬようにと思ってのことである。




